第5話 三日目、四日目、五日目
火曜日。
たかしは、仕事を終えて会社を出た。
月曜日の夜にひろしと飲んだせいで、身体は重かった。
それでも、昨日よりはましだった。
今日は飲まない。
家に帰る。
コンビニで弁当を買って、風呂に入って、寝る。
そう考えていた。
駅へ向かって歩いていると、スマートフォンが鳴った。
なおとだった。
「もしもし?」
『たかし、今日暇?』
「今日は……」
たかしは言葉を止めた。
昨日、ひろしと飲んだ。
その前の日は、まさと。
さすがに今日は断ろう。
そう思った。
『なんか予定あるん?』
「いや……」
『じゃあ飲もうや』
「でも、昨日も……」
『昨日はひろしやろ?』
「うん」
『俺とは今日やん』
たかしは黙った。
『俺、明日休みなんよ』
「ああ……」
『付き合ってくれへん?』
断る理由がなくなった。
「……分かった」
『よし。じゃあ店な』
電話が切れた。
たかしは歩きながら、自分に言い聞かせた。
「なおととは週一回や」
昨日も聞いた言葉だった。
ひろしとは週一回。
今日はなおと。
どちらも嘘ではない。
だから、たかし自身も問題だと思えなかった。
*
なおとは不動産営業だった。
営業成績は会社でも上位。
高額なマンションや土地を次々に売り、三十代半ばで年収二千万円を超えた。
その日も、仕事の話から始まった。
「最近、家売れまくってるわ」
「すごいな」
「たかしも不動産やったら?」
「俺には無理やろ」
「何でやねん」
「営業とか苦手やし」
「だから駄目なんやって」
なおとは笑った。
「人と話せるようにならな」
「……うん」
「資格も取ったほうがええぞ」
「分かってる」
「分かってるって言って、何年経つん?」
たかしは黙った。
なおとは悪気なく言っている。
だから余計に何も言えなかった。
「まあ、今日は仕事の話やめようや」
なおとが笑った。
「飲もう」
「うん」
たかしも笑った。
*
酒が進む。
料理が減っていく。
時間も進む。
「たかし、キャバクラ行こうや」
「え?」
「久しぶりやん」
「いや、金が……」
「大丈夫やって」
なおとは笑った。
「たかし、最近ケチになった?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあ行こうや」
たかしは財布を確認した。
残りは少ない。
でも、なおとの笑顔を見ていると断れなかった。
「……分かった」
「さすがたかし」
その言葉が嬉しかった。
*
キャバクラでは、なおとが楽しそうに話していた。
たかしは酒を飲みながら、その横に座っていた。
「この子、めっちゃ可愛いやろ」
「うん」
「たかしも話せよ」
「俺、こういうの苦手やから」
「何言ってんねん」
なおとは笑った。
そして、女の子に言った。
「こいつ、ええ奴やから」
「そうなんですか?」
「そうそう。めちゃくちゃ優しいねん」
たかしは少し照れた。
「そんなことないって」
「いや、ほんまやで」
なおとは笑った。
「昔から俺らに奢ってくれるし」
キャバ嬢が笑った。
「優しいですね」
たかしは、その言葉を聞いて嬉しくなった。
まただ。
優しい。
それだけで、何となく自分の人生が肯定されたような気がした。
*
店を出たのは午前一時過ぎだった。
なおとが言った。
「たかし、今日ありがとな」
「うん」
「また飲もうな」
「うん」
たかしはタクシーに乗った。
家に着いた。
財布を開く。
金が減っている。
かなり減っている。
「……」
たかしは財布を閉じた。
そして、布団に倒れ込んだ。
*
水曜日。
朝。
目覚ましが鳴った。
たかしは止めた。
身体が動かなかった。
「……眠い」
もう一度目を閉じた。
次に目を覚ましたとき、始業時間を過ぎていた。
「……やばい」
会社へ電話する。
「すみません、少し遅れます」
上司の声が低かった。
「またか」
「……すみません」
「最近多いぞ」
「はい」
電話を切った。
たかしは急いで家を出た。
駅まで走る。
息が切れる。
昔なら何ともなかった距離なのに、最近は少し走っただけで苦しくなる。
それでも、たかしは気にしなかった。
昨夜飲んだからだ。
年齢のせいだ。
そう思った。
*
会社に着いた。
席に座る。
パソコンを開く。
仕事をする。
けれど、集中できない。
頭がぼんやりする。
昼休み。
机に突っ伏した。
「大丈夫?」
同僚に声をかけられた。
「大丈夫」
「顔色悪いぞ」
「昨日ちょっと飲んでて」
「飲みすぎやろ」
「まあな」
笑った。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
ながとからだった。
『今日、飲もう』
たかしは画面を見た。
水曜日。
ながとは木曜日が休み。
当然のように誘ってくる。
たかしは返信した。
『分かった』
*
水曜日の夜。
ながとは銀行員らしく、きちんとした服装で現れた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「たかし、最近太った?」
「やっぱり?」
「ちょっとな」
たかしは腹を見た。
「酒かな」
「絶対酒やろ」
ながとは笑った。
「飲みすぎちゃう?」
「最近ちょっと多いかも」
「でも、俺とは週一回やろ?」
たかしは苦笑した。
「そうやな」
その言葉を聞いて、なぜか安心した。
ながととは週一回。
それだけなら大したことではない。
そう思った。
*
その日の飲み会では、珍しく仕事の話をしなかった。
代わりに、ながとは家族の話をした。
「この前、子供と遊園地行ってきてな」
「いいな」
「めっちゃ疲れたわ」
「でも楽しそう」
「まあな」
ながとは笑った。
「たかしも結婚せえへんの?」
「したいけどな」
「じゃあ彼女作らんと」
「それができへんねん」
「俺らが紹介するって」
「ほんま?」
「ほんまやって」
たかしは笑った。
「頼むわ」
その言葉が、たかしには希望だった。
友達と付き合っていれば。
いつか女性を紹介してもらえる。
いつか自分にも家族ができる。
その「いつか」が、たかしを飲み会につなぎ止めていた。
*
木曜日。
たかしは朝から吐き気がした。
それでも会社へ行った。
仕事中、何度も水を飲んだ。
身体がだるい。
眠い。
集中できない。
上司に呼ばれた。
「たかし」
「はい」
「ちょっと話がある」
「はい」
「最近、遅刻や欠勤が多すぎる」
「……すみません」
「何か事情があるのか?」
「いえ……」
「酒とかじゃないだろうな?」
たかしは一瞬、言葉を失った。
「……違います」
完全な嘘ではなかった。
酒だけが原因ではない。
仕事の疲れもある。
睡眠不足もある。
ストレスもある。
いろいろ重なっている。
そう思っていた。
「とにかく、これ以上続くと厳しいぞ」
「はい」
席へ戻った。
胸が苦しくなった。
――仕事まで失ったらどうしよう。
その不安が初めて、はっきりと形になった。
*
その日の夜。
りょうたから電話が来た。
『たかし、今日どう?』
「今日は……」
たかしは黙った。
今日こそ断ろう。
本当にそう思った。
「今日はやめとくわ」
言おうとした。
しかし。
『明日休みやからさ』
「……」
『昔からの友達やん』
「うん」
『ちょっとだけ付き合ってくれよ』
たかしは目を閉じた。
断りたい。
でも、断ったら。
嫌われるかもしれない。
誘われなくなるかもしれない。
そして――
女の子を紹介してもらえなくなるかもしれない。
「……分かった」
『よし』
りょうたの声が明るくなった。
「何時?」
『八時で』
「分かった」
電話を切った。
たかしは深く息を吐いた。
「……これで今週最後や」
日曜日。
まさと。
月曜日。
ひろし。
火曜日。
なおと。
水曜日。
ながと。
木曜日。
りょうた。
五日。
五人。
五回。
たかしは、それを一つの生活として認識していなかった。
全部別々の友情だと思っていた。
*
りょうたとの飲み会は、いつも少し高かった。
「今日はいい店行こうぜ」
弁護士になったりょうたは、普段から高級な店を使っていた。
たかしは店の値段を見て驚いた。
「ここ、高くない?」
「たまにはええやろ」
「でも……」
「俺ら昔からこんなんやん」
「そうやな」
店に入った。
料理が運ばれてくる。
酒も高い。
たかしは少しずつ不安になった。
でも、りょうたは楽しそうだった。
「たかし、最近どうなん?」
「普通」
「仕事は?」
「まあ……」
「ちゃんと頑張ってる?」
「頑張ってるよ」
「年収は?」
「三百万くらい」
「まだそんなもんなん?」
たかしは黙った。
「もう四十前やろ」
「うん」
「そろそろ本気出したほうがええぞ」
「分かってる」
「資格取るとか」
「うん」
「転職するとか」
「うん」
「俺らはみんなやってきたんやから」
たかしは俯いた。
「……そうやな」
「まあ、たかしならできるって」
りょうたは笑った。
「お前、優しいから」
たかしは顔を上げた。
「……ありがとう」
*
その夜。
五人との一週間が終わった。
たかしは午前二時近くに帰宅した。
玄関で靴を脱ぐ。
そのまま座り込んだ。
財布を開く。
金がほとんどない。
銀行口座を確認する。
今月も赤字だった。
クレジットカードの支払いもある。
借金の返済もある。
家賃もある。
光熱費もある。
それでも。
たかしはスマートフォンを見る。
五人からメッセージが来ていた。
『今週もありがとな』
『また来週な』
『楽しかったわ』
『たかし、また飲もう』
『女の子も探しとくわ』
最後の一文を見て、たかしは笑った。
「……いつか、か」
たかしはスマートフォンを胸の上に置いた。
そして目を閉じた。
*
土曜日。
たかしは昼過ぎまで眠っていた。
起きても何もする気になれない。
掃除もしない。
洗濯もしない。
勉強もしない。
資格の本を買ったことはある。
机の上にも置いてある。
けれど、一度も開いていない。
転職サイトに登録したこともある。
でも、応募はしていない。
銀行口座を見て、ため息をつく。
借金の残高を見る。
またため息。
そして、夕方。
たかしはコンビニへ行った。
酒を一本買った。
「……一本だけ」
家に帰る。
缶を開ける。
飲む。
静かな部屋。
テレビの中では、家族連れの映像が流れていた。
父親。
母親。
子供。
楽しそうに笑っている。
たかしはテレビを消した。
「……俺も、家族ほしいな」
誰もいない部屋で呟いた。
そして、スマートフォンを見た。
五人のグループメッセージ。
たかしは文字を入力した。
『来週もよろしく』
送信した。
すぐに返信が来た。
『もちろん』
その一言を見て、たかしは安心した。
まだ自分には友達がいる。
まだ、自分は一人じゃない。
そう思った。
*
しかし。
たかしには、一つだけ見えていないものがあった。
一週間のうち五日間を、友人との飲み会に使っている。
残った二日間は、疲労でほとんど動けない。
つまり――
自分の人生のために使っている時間が、ほとんど残っていなかった。
資格を取る時間もない。
転職活動をする時間もない。
運動する時間もない。
女性と出会う時間もない。
お金を貯める余裕もない。
そして、身体を休ませる時間すらない。
それでも五人は、それぞれこう思っていた。
――たかしとは週一回飲んでいる。
誰も嘘をついていない。
誰も自分が悪いとは思っていない。
たかしでさえ、
――みんな忙しい中、俺と飲んでくれている。
そう思っていた。
だからこそ、この関係は続いた。
誰かが明確な悪意を持っていれば、たかしも気づけたかもしれない。
誰かが「金を出せ」と命令していたなら、拒絶できたかもしれない。
けれど。
彼らは友達だった。
笑っていた。
心配していた。
励ましていた。
そして最後には必ず、
「たかしは優しいな」
と言った。
たかしにとって、その言葉は褒め言葉だった。
けれど――
それは少しずつ、
たかしの人生を壊す呪いになっていた。




