第4話 月曜日の夜
月曜日の朝。
たかしは、昨日の酒がまだ身体に残っているような感覚のまま、会社へ向かった。
頭が重い。
身体も重い。
それでも、今日は休めないと思った。
昨日、まさととの飲み会で休んだ。
さすがに二日続けて休むわけにはいかなかった。
電車の窓に映った自分の顔を見る。
「……太ったな」
頬が以前より丸い。
腹も出てきた。
スーツのズボンが少しきつい。
昔の写真と比べれば、その変化は明らかだった。
けれど、たかしは笑った。
「もう四十前やしな」
ただの年齢のせいだと思った。
酒のせいだとも思わなかった。
自分の生活そのものが変わっているとは、まだ考えていなかった。
*
会社に着く。
「おはようございます」
たかしが挨拶すると、上司が一瞬だけ顔を見た。
「昨日休んだな」
「すみません」
「体調管理も仕事だからな」
「はい」
「最近、休み多いぞ」
「……気をつけます」
それ以上、何も言われなかった。
たかしは席についた。
パソコンを起動する。
メールを確認する。
仕事を始める。
午前中は何とか乗り切った。
昼休み。
コンビニで弁当を買った。
レジで財布を開く。
残金を見る。
「……」
昨日、まさととの飲み会でかなり使った。
来週も飲む。
その次の日にも、誰かと飲む。
給料日までまだ日がある。
たかしは財布を閉じた。
「まあ、何とかなるか」
その言葉は、最近のたかしの口癖になっていた。
何とかなる。
何とかなる。
何とかなる。
そう言っているうちに、何とかならないことが少しずつ増えていた。
*
午後六時。
仕事が終わった。
今日はまっすぐ帰ろう。
そう思った。
昨日は飲んだ。
今日は飲まない。
家に帰って飯を食べて、風呂に入って、早く寝る。
それが普通の生活だ。
たかしは会社を出た。
駅へ向かう。
その途中だった。
スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
ひろし。
たかしは足を止めた。
「もしもし?」
『おう、たかし』
「どうした?」
『今日、暇やろ?』
たかしは空を見上げた。
もう断ろう。
昨日のまさとの言葉が頭に浮かぶ。
――もっと頑張れよ。
今日くらいは、自分のために時間を使おう。
そう思った。
「今日は……」
『なんか予定あんの?』
「……いや」
『じゃあ飲もうや』
「でも、昨日も飲んでて……」
『昨日はまさとやろ?』
「うん」
『俺とは今日やん』
たかしは黙った。
ひろしは笑った。
『俺とは週一回だけやん』
その言葉に、たかしは何も言えなかった。
「……分かった」
『よし。じゃあいつもの店な』
「うん」
電話が切れた。
たかしはスマートフォンを見つめた。
「……週一回」
自分に言い聞かせる。
「ひろしとは、週一回や」
だから問題ない。
そう思った。
*
店に着くと、ひろしはすでに席に座っていた。
「おう、遅いぞ」
「ごめん」
「何飲む?」
「ビール」
「今日は飲もうや」
「うん」
乾杯。
ビールを飲む。
最初は楽しかった。
ひろしは車の話をした。
「この前、新しい車買ったんよ」
「いくら?」
「まあ、結構したな」
「すごいな」
「たかしも買えば?」
「無理やって」
「なんで?」
「金ないし」
「だから金ないんやって」
「え?」
「お前、もっと働かな」
ひろしは笑った。
「俺らだって最初から金持ってたわけちゃうぞ」
「うん」
「努力したから今があるんや」
「そうやな」
「たかしも資格取れよ」
「……何がいいかな」
「何でもええやん」
たかしは黙ってビールを飲んだ。
自分でも、資格を取らなければと思っていた。
もっと給料のいい仕事に移らなければとも思っていた。
でも、時間がなかった。
日曜日はまさと。
月曜日はひろし。
火曜日はなおと。
水曜日はながと。
木曜日はりょうた。
そのことを、たかしはまだ自覚していなかった。
*
午後十時。
「たかし、もう一軒行こうや」
「明日も仕事やで」
「一杯だけ」
「……」
「俺とは週一回やろ?」
また、その言葉だった。
「……分かった」
二軒目へ向かった。
そこでも酒を飲んだ。
さらに時間が過ぎた。
気がつけば午前零時を回っていた。
たかしは時計を見た。
「そろそろ帰ろう」
「そうやな」
ひろしが財布を取り出した。
たかしも財布を出した。
「今日は俺が出すわ」
「ええって」
「いいから」
ひろしは少しだけ財布を戻した。
「じゃあ頼むわ」
「うん」
たかしは支払った。
店を出る。
ひろしが肩を叩いた。
「たかし、ほんまええ奴やな」
「そうかな」
「そうやって」
たかしは笑った。
その言葉を聞くと、疲れていても嬉しかった。
*
翌朝。
たかしは寝坊した。
会社へ連絡を入れた。
「すみません……少し遅れます」
電話を切った。
時計を見る。
午前八時四十分。
昨日帰ったのは午前一時近かった。
急いで着替える。
鏡を見る。
目の下に濃い隈ができていた。
「……眠い」
それでも会社へ向かった。
*
その日の昼休み。
たかしはスマートフォンを見た。
ひろしからメッセージが届いていた。
『昨日ありがとうな』
その下に、
『やっぱたかしは優しいわ』
と書かれていた。
たかしは笑った。
『こちらこそ』
返信する。
そしてスマートフォンをしまった。
そのときだった。
たかしの頭の中に、一つの考えが浮かんだ。
――もっと頑張らなきゃ。
資格を取る。
仕事を変える。
給料を上げる。
借金も返す。
そして、いつか結婚する。
家族を作る。
そのためには、今の生活を変えなければならない。
たかしはそう思った。
だが、その夜。
またスマートフォンが鳴った。
今度は、なおとだった。
*
その後も、同じことが続いた。
火曜日。
なおと。
水曜日。
ながと。
木曜日。
りょうた。
誰も悪意を持っていなかった。
誰も、
――たかしを壊してやろう。
などとは思っていなかった。
それぞれが、自分にとっての「週一回の友達との飲み会」を楽しんでいた。
なおとは、
「俺とは週一回やろ?」
と言った。
ながとも、
「付き合いくらいええやん」
と言った。
りょうたも、
「昔からの友達やろ?」
と言った。
たかしは、そのたびに頷いた。
「うん」
「分かった」
「ええよ」
「大丈夫」
その四つの言葉だけで、一週間が埋まっていった。
*
金曜日の夜。
たかしは一人で家にいた。
ようやく誰からも誘われない夜だった。
静かだった。
テレビをつける。
何となく眺める。
ふと、テーブルの上に置いた財布を見る。
今週使った金額を計算してみる。
日曜日。
まさと。
月曜日。
ひろし。
火曜日。
なおと。
水曜日。
ながと。
木曜日。
りょうた。
たかしは電卓を取り出した。
一週間分の飲み代。
二軒目の代金。
交通費。
その他の支払い。
「……」
数字を見つめる。
思っていたより大きかった。
「こんなに使ってたんか……」
たかしは椅子に座った。
そして初めて、
――このままでは駄目なんじゃないか。
そう思った。
でも、すぐに別の考えが浮かんだ。
みんな、俺のことを友達だと思ってくれている。
俺だけ付き合いを断ったら、どうなる?
誘われなくなったら?
嫌われたら?
そして――
「女の子、紹介してくれるって言ってたしな……」
小さく呟いた。
たかしは財布を閉じた。
考えるのをやめた。
「来週から、もう少し節約しよう」
そう決めた。
それだけだった。
*
それから年月が流れた。
たかしの生活は、少しずつ悪くなっていった。
酒の量が増えた。
体重も増えた。
健康診断の数字も悪くなった。
仕事では遅刻が増えた。
欠勤も増えた。
そして、借金も増えた。
それでも、たかしは五人との付き合いをやめなかった。
むしろ、
「友達との時間だけは失いたくない」
と思うようになっていた。
人生で何も持っていない。
仕事も。
金も。
資格も。
恋人も。
家族も。
だからこそ、
友達だけは失いたくなかった。
その気持ちが、たかしをさらに縛っていった。
*
そして、何年か後。
たかしは人生で一度だけ、大きな決断をすることになる。
借金を返したい。
もう一度、人生をやり直したい。
冬を越したい。
そのために必要な金を手に入れるため、自分の身体を犠牲にすることになる。
詳細な方法を考える余裕も、選択肢もなかった。
ただ、自分の身体の一部を手放すことで、大金を得た。
一千万円を超える金だった。
たかしは、その金を見つめた。
「……これで、借金を少し返せる」
そして、
「これで冬を越せる」
と思った。
暖かい衣服。
冬を越すための寝具。
食料。
必要最低限の生活費。
そして、少しでも借金を返す。
今度こそ人生を立て直す。
たかしは本気だった。
その金は、これまでの飲み代とは違った。
自分の身体と引き換えに手に入れた金だった。
だから、絶対に使わない。
そう決めていた。
――そのはずだった。
*
ある日の夕方。
スマートフォンが鳴った。
表示された名前は、りょうた。
「もしもし?」
『たかし、今日空いてる?』
「今日は……」
たかしは一瞬、財布のことを思い出した。
銀行口座にある大金。
冬を越すための金。
借金を返すための金。
「今日はちょっと……」
『なんか予定あるん?』
「いや……」
『じゃあ飲もうや』
「でも……」
『久しぶりやん』
久しぶり。
その言葉に、たかしは弱かった。
「……分かった」
『よし。じゃあ行こう』
電話を切った。
たかしは銀行口座の残高を確認した。
桁の多い数字。
それを見て安心する。
「大丈夫」
たかしは自分に言い聞かせた。
「今日は少しくらいなら」
それが、始まりだった。
居酒屋。
次に、キャバクラ。
そして――
「たかし、これ買ってくれへん?」
高価な品物を指差す友人。
「これ、女の子喜ぶで」
「……高いな」
「たかしならいけるやろ」
たかしは黙った。
「俺ら友達やん」
その言葉を聞いた。
たかしは財布を開いた。
自分の身体を犠牲にして得た金。
借金を返すための金。
冬を越すための金。
その金で、プレゼントを買った。
そして、それを友人に渡した。
「これ、渡してくれる?」
「もちろん」
友人は笑った。
そしてキャバ嬢の前へ向かった。
「これ、君に」
「えっ、本当に?」
「うん」
「ありがとう!」
キャバ嬢は笑った。
その笑顔は、たかしには向けられなかった。
「嬉しい!」
感謝されたのは、プレゼントを買ったたかしではない。
それを渡した友人だった。
たかしは少し離れた場所から、その光景を見ていた。
そして思った。
――まあ、いいか。
友達が喜んでいる。
キャバ嬢も喜んでいる。
なら、それでいい。
自分は昔から、そういう人間だった。
誰かのために金を出す。
誰かのために我慢する。
誰かが笑ってくれれば、それでいい。
たかしは、そう思った。
その夜。
たかしの口座から、一千万円を超えていた金が、ほとんど消えた。
借金は残った。
冬支度はできなかった。
暖かい服も買えなかった。
食料も十分に確保できなかった。
そして――
北海道の冬は、もうすぐそこまで来ていた。
たかしは店を出た。
冷たい風が頬を刺した。
「寒いな……」
隣では、友人たちが笑っていた。
「今日は楽しかったな」
「また行こうぜ」
たかしも笑った。
「うん」
その手元には、ほとんど金が残っていなかった。
自分の身体と引き換えに得た、一千万円以上の金。
借金を返すための金。
冬を越すための金。
それが、一晩で消えた。
そして何より皮肉だったのは――
大金を払ったたかしではなく、
その金で買った贈り物を渡した友人が、
「ありがとう」
と言われていたことだった。
たかしは、その事実を深く考えなかった。
ただ、
「俺も、いつか誰かにありがとうって言ってもらえるんかな」
そう思った。
けれど。
その冬。
たかしを待っていたのは、
借金と、
寒さと、
何もない部屋だった。




