第3話 日曜日の夜
日曜日の夜が、一週間の始まりだった。
たかしにとっては、月曜日ではなかった。
日曜日の夜。
その時間になると、決まってスマートフォンが鳴った。
相手は、まさと。
五人の中でも一番付き合いが長く、一番話しやすい男だった。
美容師として成功し、今では自分の店を持っている。
年収は二千万円を超えている。
結婚していて、子供も二人いる。
高級車に乗り、休日には家族で旅行に行く。
たかしから見れば、まさに「成功した男」だった。
それでも、まさとは昔と変わらなかった。
少なくとも、たかしにはそう見えていた。
だからこそ、電話が鳴ると嬉しかった。
日曜日の午後八時。
たかしは自宅のソファに座っていた。
明日は仕事。
今日は早く寝るつもりだった。
先週は五日連続で酒を飲んだ。
身体が重かった。
胃も少し痛い。
鏡を見ると、以前より明らかに顔が丸くなっていた。
それでも、たかしはまだ自分の身体の変化を深刻には考えていなかった。
ただの中年太り。
その程度に思っていた。
そのときだった。
スマートフォンが鳴った。
画面には、
《まさと》
と表示されている。
「もしもし?」
『たかし?』
「うん」
『今何してんの?』
「家」
『暇?』
たかしは一瞬だけ黙った。
「……まあ、暇やけど」
『じゃあ飲もうぜ』
いつもの言葉だった。
たかしは時計を見た。
午後八時。
明日は朝から仕事。
少し考えれば、断る理由はいくらでもあった。
今日は休みたい。
明日は仕事だから。
最近飲みすぎているから。
お金がないから。
体調が悪いから。
でも、口から出たのは違う言葉だった。
「ええよ」
『じゃあ迎え行くわ』
「分かった」
電話が切れた。
たかしは立ち上がった。
鏡を見る。
寝癖を直す。
服を着替える。
財布を確認する。
一万円札が数枚。
それを見て、たかしは少し安心した。
「まあ、今日くらいなら……」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
*
まさとの車は、午後八時半に到着した。
黒い高級車。
たかしが乗り込むと、車内から香水の匂いがした。
「おう、たかし」
「お疲れ」
「最近どうよ?」
「まあまあ」
「仕事は?」
「普通」
「普通ってなんやねん」
まさとは笑った。
「給料上がった?」
「いや……」
「まだ三百万くらい?」
「……うん」
「たかし、お前ほんま頑張らなあかんで」
まさとは悪意なく言った。
「俺ら、もう四十前やぞ」
「分かってる」
「資格とか取った?」
「まだ」
「なんで?」
「仕事が忙しくて……」
「いや、それは言い訳やろ」
「……そうかな」
「そうやって」
まさとは笑った。
「俺だって忙しいけど、勉強して店出したんやから」
たかしは黙った。
まさとの言うことは正しい。
少なくとも、たかしにはそう思えた。
だから反論できなかった。
「まあ、今日くらい忘れて飲もうや」
「うん」
その言葉に、たかしは救われた。
叱られた後に優しくされる。
その組み合わせが、たかしには心地よかった。
*
店に入る。
個室だった。
「何飲む?」
「ビール」
「珍しいな」
「最近ちょっと太ってきたから」
「酒やめたら?」
「……それは無理やろ」
「なんで?」
「付き合いあるし」
「まあな」
まさとは笑った。
そして店員を呼んだ。
「とりあえずビール二つ」
「はい」
料理が並ぶ。
刺身。
揚げ物。
焼き鳥。
肉料理。
たかしは箸を伸ばした。
「うまいな」
「やっぱ飲みはええな」
まさとは笑った。
仕事の話。
昔の話。
高校時代の話。
そして、家庭の話。
「子供が最近サッカー始めてな」
「へえ」
「この前試合見に行ったんやけど、めっちゃ頑張ってて」
「いいな」
たかしは笑った。
「家族で行ったん?」
「もちろん」
「幸せそうやな」
「まあな」
まさとは照れくさそうに笑った。
たかしは、その笑顔を見ていた。
羨ましかった。
でも、妬ましいとは思わなかった。
むしろ、
――俺もいつか。
と思った。
自分にも家庭ができるかもしれない。
彼女ができるかもしれない。
結婚して、子供ができるかもしれない。
そのためには、今の自分を変えなければならない。
たかしはそう思った。
「なあ、まさと」
「ん?」
「ほんまに俺、彼女できるかな?」
まさとは笑った。
「できるって」
「ほんま?」
「俺らが紹介するって言ってるやろ」
「……うん」
「今度、知り合いに聞いとくわ」
「ありがとう」
たかしは心からそう言った。
その一言だけで、今日来てよかったと思った。
*
午後十一時。
最初の店を出た。
「もう一軒行こうや」
まさとが言った。
「明日仕事やで」
「一杯だけ」
「……」
「たかし、付き合い悪くなった?」
たかしの胸が少し痛んだ。
「いや……行くよ」
「さすがたかし」
まさとは笑った。
二軒目はバーだった。
一杯だけのはずが、二杯になった。
三杯になった。
時計を見ると、午前一時を過ぎていた。
「そろそろ帰る?」
「そうしよか」
まさとが会計を見た。
「……結構いったな」
「うん」
たかしは財布を出した。
「俺、出すわ」
「いや、俺も払うって」
「ええって」
「でも……」
「昔から俺が誘ってるし」
まさとは少し笑った。
「じゃあ、頼むわ」
「うん」
たかしはカードを出した。
決済音が鳴った。
その瞬間。
たかしのスマートフォンに通知が入った。
銀行口座の残高。
減った金額。
それを見て、たかしは一瞬だけ息を止めた。
――高い。
そう思った。
でも、口には出さなかった。
「ありがとうな」
「ええよ」
「ほんまたかしは優しいわ」
その言葉を聞いた瞬間。
たかしの中で、さっきまでの不安が消えた。
優しい。
その言葉が好きだった。
仕事で褒められることは少ない。
給料も高くない。
資格もない。
結婚もしていない。
何かを成し遂げたわけでもない。
でも、
――俺は優しい。
それだけは、誰にも否定されたくなかった。
「じゃあ、またな」
「おう」
まさとは車に乗り込んだ。
たかしは手を振った。
車が見えなくなったあと、たかしは一人で歩き始めた。
午前一時半。
明日は仕事。
たかしは大きく欠伸をした。
「……楽しかったな」
そう呟いた。
*
翌朝。
たかしは目覚まし時計を止めた。
午前七時。
身体が重い。
頭が痛い。
喉が渇いている。
「……眠い」
もう一度目を閉じた。
次に目を覚ましたとき。
時計は八時二十分だった。
「……え?」
たかしは飛び起きた。
「やばい!」
会社へ電話を入れる。
「すみません、体調が……」
嘘ではなかった。
本当に体調が悪かった。
上司から短い返事が返ってきた。
「……分かった。今日は来なくていい」
「すみません」
電話を切った。
たかしはベッドに座った。
頭を抱える。
また休んでしまった。
まただ。
最近、仕事を休むことが増えている。
でも、たかしは自分を責めるより先に、昨日のことを考えた。
まさとと飲んだ。
楽しかった。
昔の話をした。
彼女の話もした。
また紹介すると言ってくれた。
たかしは笑った。
「……まあ、いいか」
その一言で、自分を許した。
*
昼過ぎ。
たかしはスマートフォンを見た。
まさとからメッセージが来ていた。
『昨日ありがとな!』
続けて、
『やっぱたかしは優しいわ』
たかしは画面を見ながら笑った。
『こちらこそ』
返信した。
すると、すぐに返事が来た。
『また来週飲もうな』
「……来週か」
たかしは少しだけ考えた。
でも、すぐに返信した。
『うん』
送信。
そのとき、たかしはまだ気づいていなかった。
昨日の飲み会のせいで、一日仕事を失ったこと。
飲み代を払ったことで、生活費が減ったこと。
睡眠時間を失ったこと。
そして、来週も同じことが繰り返されること。
どれも、一つ一つだけを見れば小さなことだった。
だから怖くなかった。
人間は、大きなものなら警戒できる。
突然、十万円を奪われれば気づく。
突然、仕事を失えば気づく。
突然、家を失えば気づく。
けれど。
毎週少しずつ。
毎月少しずつ。
少しずつ金が減り。
少しずつ体力が減り。
少しずつ仕事の信用が減り。
少しずつ未来が減っていく。
そういうものには、なかなか気づけない。
たかしも、そうだった。
*
その日の夕方。
たかしはコンビニへ行った。
弁当を一つ買った。
レジで財布を開く。
昨日の飲み会で使った金額が頭に浮かんだ。
「……今月、ちょっと厳しいな」
店員から、
「お支払いは?」
と聞かれた。
「……カードで」
たかしはカードを出した。
コンビニを出る。
夕方の空は暗くなり始めていた。
たかしは歩きながら、スマートフォンを確認した。
友達のグループには何も来ていない。
それでも、不思議と寂しくなかった。
明日になれば、また誰かから連絡が来る。
それが分かっていたからだ。
日曜日の夜は、まさと。
月曜日の夜は、ひろし。
火曜日の夜は、なおと。
水曜日の夜は、ながと。
木曜日の夜は、りょうた。
たかしはまだ、それを「一週間に五回の飲み会」とは考えていなかった。
五人それぞれとの友情。
五人それぞれとの約束。
五人それぞれとの「週一回」。
ただ、それだけだった。
そして、翌日の夜。
たかしのスマートフォンには、別の名前が表示される。
――ひろし。
それが、次の一週間の始まりだった。




