第44話 借りている人生
北海道に戻った翌朝。
たかしは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
大阪から戻ってきたばかりなのに、身体は重かった。
昨日まで友達と飲んでいたことが、まるで夢だったように感じる。
ベッドから起き上がる。
足が痛い。
「……また仕事か」
独り言が漏れた。
窓の外を見る。
雪が降っていた。
大阪にいたときは、雪なんてほとんど見なかった。
ここでは、それが日常だった。
たかしは厚手の服を着た。
そして倉庫へ向かった。
*
「昨日帰ってきたんやろ?」
管理している男が声をかけてきた。
「はい」
「どうやった?」
「友達に会ってきました」
「そうか」
「楽しかったです」
「それならよかったな」
男は笑った。
「でも、今日からまた仕事やで」
「はい」
たかしも笑った。
「分かってます」
その日の仕事は、いつも以上にきつかった。
移動で疲れている。
睡眠も足りない。
それでも休めなかった。
「たかし、こっち」
「はい」
「終わったら次これ」
「はい」
「昼から雪かきも頼む」
「……はい」
返事をするたびに、胸の奥が重くなる。
それでも断れない。
仕事を失いたくない。
部屋を失いたくない。
だから働く。
ただ、それだけだった。
*
夜。
部屋に戻る。
机の上に給与明細が置かれていた。
たかしは椅子に座った。
明細を見る。
先月より手取りが少ない。
交通費の立替分が引かれていた。
大阪へ帰ったときの費用。
友達と飲んだ日の支出。
それを考えると、当然だった。
「……あと、これだけか」
財布を開く。
数枚の紙幣。
小銭。
それだけ。
たかしはため息をついた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
まさとからだった。
『たかし、元気?』
「元気やで」
『北海道どうや?』
「寒いけど、仕事はしてる」
『偉いやん』
その一言が嬉しかった。
「ありがとう」
『またこっち来たら飲もうや』
「うん」
『俺とは週一回くらいやしな』
たかしは苦笑した。
「うん」
電話を切った。
その数分後。
ひろしからメッセージが来た。
『たかし、元気か?』
たかしは返信した。
『元気』
『今度こっち帰ってきたら飯行こうや』
『うん』
そして翌日。
なおとからも連絡が来た。
『北海道で頑張ってるらしいな』
『うん』
『また帰ってきたら飲もう』
『ありがとう』
さらに翌日。
ながと。
その翌日。
りょうた。
五人とも同じだった。
誰も悪意を持っているようには見えない。
みんな普通に心配してくれている。
普通に誘ってくれる。
普通に笑っている。
だからこそ、たかしは言えなかった。
――もう金がない。
――身体が痛い。
――仕事がきつい。
――借金が減らない。
――助けてほしい。
言葉にすると、友達に迷惑をかける気がした。
だから、
「大丈夫」
と答えた。
*
数日後。
仕事中に、たかしの足が止まった。
「……痛い」
傷の周辺が以前より腫れているように感じた。
靴を脱いで確認する勇気はなかった。
仕事が終わったら病院へ行こう。
そう思った。
しかし、その日の仕事が終わったのは夜だった。
病院の受付時間は、とっくに過ぎている。
「明日行こう」
そう思った。
翌日。
朝から仕事だった。
「今日は忙しいから頼むな」
「はい」
病院へ行くことはできなかった。
また翌日。
雪が降った。
「今日は雪かき増えるぞ」
「はい」
また行けなかった。
そして数日が過ぎた。
「……明日こそ」
そう言いながら、毎日が過ぎていった。
*
ある夜。
管理している男が部屋に入ってきた。
「たかし」
「はい」
「これ、今月の分」
紙を渡された。
たかしは受け取った。
「ありがとうございます」
「あと、部屋の暖房代が少し上がってるから」
「……はい」
「食費もな」
「はい」
たかしは明細を見た。
また差し引かれる。
また残らない。
「すみません」
「何が?」
「……いや」
言葉が出てこなかった。
男は言った。
「たかし、お前は今、仕事も住むところもあるんやから」
「はい」
「それだけでもありがたいと思わな」
「……そうですね」
「世の中には仕事も家もない人間なんていっぱいおる」
たかしは頷いた。
「はい」
男は部屋を出ていった。
一人になった。
たかしは明細を見つめた。
確かにそうだった。
仕事がある。
部屋がある。
食事もある。
だから文句を言ってはいけない。
そう思った。
でも。
ふと考えた。
「俺が自由に使える金って……いくらなんやろ」
計算してみた。
ほとんど残らない。
働いて得たお金なのに。
自分で自由に使える金は、ほんのわずかだった。
たかしは苦笑した。
「俺、何のために働いてるんやろ」
答えは出なかった。
*
その夜。
スマートフォンに通知が届いた。
りょうたからだった。
『たかし、女の子の件やけど』
たかしはすぐに画面を開いた。
『うん』
『まだ紹介できてへんけど、もう少しや』
『本当に?』
『ほんまやって』
『ありがとう』
『焦らんでええからな』
たかしはスマートフォンを握った。
女の子。
結婚。
家族。
普通の生活。
まだ手に入るかもしれない。
そう思った。
そして、
「頑張ろう」
と呟いた。
その瞬間。
足に痛みが走った。
「……っ」
たかしは足を押さえた。
けれど、すぐに手を離した。
今は考えない。
仕事を続ければいい。
借金を返せばいい。
身体も治せばいい。
いつか普通に戻れる。
そう信じた。
*
翌週。
たかしは初めて、管理している男に聞いた。
「すみません」
「なんや?」
「給料って……自分で管理できるようになるのは、いつですか?」
男は少し黙った。
「借金が整理できてからやな」
「どれくらい残ってますか?」
「まだ結構ある」
「……そうですか」
「まあ、働いてたらそのうち減る」
「はい」
「焦るな」
「分かりました」
たかしは部屋へ戻った。
ベッドに座る。
天井を見る。
借金が減るまで。
働き続ける。
働き続ければ。
いつか自由になる。
そう思った。
けれど。
その「いつか」が、いつなのか。
たかしには分からなかった。
その夜。
たかしは初めて気づいた。
自分は、
お金を借りているだけではない。
交通費を借りた。
生活費を借りた。
住む場所を借りた。
仕事を借りた。
そして――。
自分の未来まで、
誰かから借りているような気がした。
返せるのか。
分からない。
いつまでかかるのか。
分からない。
それでも働くしかない。
たかしは布団に入った。
暖房の音を聞きながら目を閉じる。
そして、いつものように自分へ言い聞かせた。
「大丈夫」
「仕事があるから」
「住むところがあるから」
「友達もいるから」
「……俺は、まだ大丈夫」
けれど。
その言葉を繰り返すたびに、
「大丈夫」という言葉が、
少しずつ、
「ここから出られない」という意味に変わっていることを、
たかしはまだ理解していなかった。




