第43話 自由の値段
朝、目が覚めた。
外はまだ暗かった。
たかしは布団の中で天井を見つめていた。
昨日からずっと、同じことを考えている。
――辞めたい。
そして、その直後に必ず浮かぶ。
――でも、辞めたらどこへ行く?
答えは出なかった。
「……行く場所ないもんな」
たかしは小さく呟いた。
スマートフォンを見る。
午前四時四十二分。
あと十八分。
起きなければならない。
身体を起こそうとした。
足に痛みが走る。
「っ……」
思わず顔をしかめた。
以前より明らかに痛みが強くなっていた。
病院へ行かなければならない。
頭では分かっている。
けれど、仕事を休めば部屋を失うかもしれない。
だから今日も行く。
たかしは靴を履いた。
そして倉庫へ向かった。
*
その日の仕事は雪かきだった。
降り続いた雪が建物の周囲に積もっている。
「こっち頼む」
「はい」
たかしはスコップを持った。
雪をすくう。
運ぶ。
捨てる。
またすくう。
単純な作業だった。
けれど、足が痛い。
一時間。
二時間。
三時間。
気がつけば、靴の中が冷たく濡れていた。
「……寒い」
たかしは足を止めた。
同じ場所で働いている男が声をかけた。
「休憩するか?」
「大丈夫です」
「ほんまか?」
「はい」
たかしは笑った。
「まだいけます」
男は少し心配そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
たかしはまた雪をすくった。
そのときだった。
スマートフォンが鳴った。
仕事中なので出られない。
画面だけ確認する。
りょうたからだった。
『たかし、来週ほんまに帰ってくるんやろ?』
たかしはそのメッセージを見つめた。
指が止まった。
帰りたい。
友達に会いたい。
昔みたいに笑いたい。
そして、女の子を紹介してもらいたい。
それだけが、今のたかしの楽しみだった。
『うん』
短く返した。
すぐに返信が来た。
『よし!飲もうな!』
たかしは画面を見て笑った。
しかし。
財布の中身を思い出した。
ほとんど金がない。
帰る交通費すら怪しい。
「どうしよう……」
仕事が終わったあと、たかしは管理している男に相談した。
「すみません」
「ん?」
「来週、友達に会うために一度帰りたいんですけど……」
男は少し考えた。
「交通費あるんか?」
「……ないです」
「貸そうか?」
たかしは顔を上げた。
「え?」
「必要なら立て替えるで」
「本当ですか?」
「ああ」
たかしの胸が軽くなった。
「ありがとうございます」
男は続けた。
「その分は給料から引くけどな」
「はい」
「今のお前なら、それくらいしか方法ないやろ」
たかしは頷いた。
「お願いします」
また借りる。
また給料から引かれる。
頭では分かっていた。
それでも。
友達に会える。
そう思うと、断れなかった。
*
数日後。
たかしは仕事を終え、部屋に戻った。
机の上に封筒が置かれていた。
交通費だった。
たかしは封筒を手に取った。
中には必要な金額が入っていた。
「これで帰れる」
久しぶりに嬉しかった。
ところが。
その日の夜、別の紙を渡された。
「これ、確認しといて」
給与明細だった。
たかしは見た。
交通費の立替。
以前の借金。
部屋代。
食費。
その他の費用。
差し引かれた金額を見て、息を呑んだ。
「……」
手元に残る金額がほとんどない。
たかしは紙を握った。
「こんなに……」
男は言った。
「仕方ないやろ」
「はい……」
「お前、借りた分は返さなあかんからな」
「分かってます」
「嫌なら自分で用意すればええ」
たかしは黙った。
そんなことはできない。
だから、
「分かりました」
としか言えなかった。
*
帰省の日。
たかしは朝早く出発した。
何度も乗り換えた。
身体が重い。
足も痛い。
それでも、気持ちは少し明るかった。
久しぶりに友達に会える。
スマートフォンを見る。
りょうたからメッセージが来ていた。
『今日楽しみにしてるで!』
たかしは返信した。
『俺も』
そして、久しぶりに大阪へ戻った。
待ち合わせ場所には、りょうたが先に来ていた。
「おう!」
「りょうた……」
二人は握手した。
「久しぶりやな!」
「うん」
「痩せたな?」
「そうかな」
「北海道、きついんか?」
「まあ、仕事は大変やけど」
「でも仕事あるんやろ?」
「うん」
「ならええやん」
りょうたは笑った。
「今日は俺が奢るわ」
たかしは驚いた。
「いいの?」
「今日くらいええって」
その言葉に、たかしは少し安心した。
「ありがとう」
二人は居酒屋へ入った。
酒が運ばれてくる。
たかしはグラスを持った。
「乾杯」
「乾杯」
久しぶりの酒だった。
一口飲む。
身体が温かくなる。
「北海道どうや?」
「大変やけど、なんとかやってる」
「借金のほうは?」
「……まだある」
「そら頑張らなあかんな」
「うん」
「資格とか取ったらええんちゃう?」
たかしは笑った。
「そうやな」
「たかしならできるって」
「……ありがとう」
そして、りょうたが言った。
「あと、女の子の件やけど」
たかしの目が輝いた。
「うん」
「まだ紹介できてないけど、もうちょっと待ってな」
「……うん」
「焦るなって」
「分かった」
たかしは笑った。
それだけで、北海道へ戻ることが少し怖くなくなった。
自分にはまだ未来がある。
そう思えた。
店を出たあと、りょうたが言った。
「もう一軒行こうや」
たかしは一瞬迷った。
明日は北海道へ戻らなければならない。
でも。
「……うん」
断らなかった。
*
二軒目。
三軒目。
気がつけば、夜は遅くなっていた。
たかしは何度も時計を見た。
「りょうた、もうそろそろ……」
「大丈夫やって」
「でも明日……」
「せっかく帰ってきたんやから」
「……うん」
結局、帰るのは深夜になった。
ホテルへ戻ったたかしは、ベッドに倒れ込んだ。
疲れている。
明日の移動もある。
それでも、笑っていた。
「楽しかったな……」
友達と飲む。
昔と同じだった。
自分はまだ、友達の一人なんだ。
そう思えた。
翌日。
北海道へ戻る。
空港へ向かう途中。
スマートフォンを見る。
りょうたからメッセージが届いていた。
『また帰ってこいや』
たかしは返信した。
『うん』
そして、その下に続けて打った。
『女の子のこと、よろしくな』
しばらくして。
『任せとけ』
と返ってきた。
たかしは笑った。
北海道に戻る飛行機の中。
窓の外を見ながら、たかしは考えた。
自分にはまだ友達がいる。
仕事もある。
住む場所もある。
だから大丈夫。
けれど。
北海道に戻った瞬間。
また現実が待っていた。
部屋。
仕事。
借金。
痛む足。
少ない給料。
そして、
「辞めたら、どこへ行く?」
という問い。
たかしは気づいていなかった。
帰るための交通費まで借りなければならなくなったことで、
自分の「自由」にも、すでに値段がついていたことを。
そしてその値段を、
たかしは毎月の給料から少しずつ支払っていた。




