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『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


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第41話 仕事と住む場所

車の窓から見える景色は、ほとんど白かった。


道路の両側には、除雪された雪が高く積み上げられている。


街灯の少ない道を、車は淡々と走っていた。


たかしは後部座席で、膝の上に置いた小さなバッグを抱えていた。


中に入っているのは、着替えが数枚。


財布。


スマートフォン。


そして、以前の会社の寮を出るときに持ってきた古い写真。


それだけだった。


「もうすぐや」


運転している男が言った。


たかしは窓の外を見た。


「ここ、どこなんですか?」


「北海道や」


「いや……北海道なのは分かってます」


男は少し笑った。


「細かいこと気にせんでええって」


その言葉に、たかしは黙った。


確かに、今の自分には細かいことを気にしている余裕なんてなかった。


住む場所がない。


仕事がない。


金もない。


身体も悪い。


それでも、この男は仕事をくれると言っている。


だから――。


「ありがとうございます」


たかしは頭を下げた。


男は前を向いたまま言った。


「礼なんかええって」


「でも……」


「困ってる人間を助けるのは普通やろ」


その言葉を聞いて、たかしは少しだけ安心した。


昔、友達から何度も言われた言葉と似ていた。


――たかしは優しいな。


――困ったときはお互い様や。


――友達やろ。


自分は、人に助けられることが苦手だった。


それでも、こうして誰かが手を差し伸べてくれると、断れなかった。


いや。


断る理由がなかった。


車はさらに山間へ入っていった。


しばらくして、小さな建物が見えてきた。


古い二階建ての建物だった。


周囲には他の建物がほとんどない。


雪の向こうに、倉庫のような大きな建物が一つ見えた。


「ここや」


男が車を止めた。


たかしは降りた。


冷たい風が顔に当たった。


「寒……」


思わず声が漏れる。


「慣れるって」


男はそう言って建物の中へ入っていった。


たかしも後を追った。


中には何人かの男性がいた。


年齢は様々だった。


誰もたかしを見ても、特に何も言わなかった。


男はたかしに一室を見せた。


六畳ほどの部屋だった。


ベッドが一つ。


小さな机。


暖房。


それだけ。


「今日からここ使ってええ」


「……僕、一人ですか?」


「今はな」


たかしは部屋を見回した。


贅沢なんて言える状況ではない。


屋根がある。


暖房がある。


ベッドがある。


それだけで十分だった。


「ありがとうございます」


また頭を下げた。


男は笑った。


「明日から仕事な」


「はい」


「朝早いで」


「何時ですか?」


「五時」


「五時……」


「嫌か?」


「いえ」


たかしは首を横に振った。


嫌なんて言えるわけがなかった。


男は少し間を置いてから言った。


「あと、金のことやけど」


たかしの表情が変わった。


「はい」


「前のところで立て替えてもらった分、まだ残ってるやろ?」


「……はい」


「こっちで働いた給料から少しずつ引くから」


たかしは黙った。


「どれくらいですか?」


「最初は生活が安定するまで、こっちで管理する」


「管理?」


「お前、今金持ってないやろ」


「……はい」


「だから給料をそのまま渡しても、また困るやろ?」


男の言葉は穏やかだった。


だから、たかしは反論できなかった。


確かにそうだった。


自分は金の管理ができなかった。


借金もある。


飲みに誘われれば断れない。


パチンコにも付き合ってしまう。


そう考えれば、誰かに管理してもらったほうがいいのかもしれない。


「お願いします」


男は頷いた。


「そうしたほうがお前のためや」


その夜。


たかしは久しぶりに、まともなベッドで眠った。


暖房の音がしていた。


布団もある。


屋根もある。


それなのに、なかなか眠れなかった。


スマートフォンを見る。


五人のグループでは、昔の写真が送られていた。


まさとが子供と撮った写真。


ひろしの高級車。


なおとの新しい家。


ながとの家族旅行。


りょうたの仕事関係の写真。


たかしはそれを眺めた。


誰も、自分が今どこにいるのか知らない。


誰にも言っていない。


「俺、北海道で働いてるで」


そう送ろうとして、やめた。


心配をかけたくなかった。


それに、恥ずかしかった。


自分だけがこんなところにいることが。


スマートフォンを置いた。


目を閉じる。


そのとき、着信音が鳴った。


りょうただった。


「もしもし」


『たかし? 今大丈夫か?』


「うん」


『北海道なんやって?』


「うん」


『仕事見つかったんか?』


「うん。住むところもある」


『よかったやん』


その声を聞いた瞬間。


たかしは胸が熱くなった。


「うん」


『こっちも色々聞いてんねんけどな』


「何?」


『女の子の件』


たかしは黙った。


忘れていたわけではない。


忘れようとしていただけだった。


『まだ完全に決まってないけど、ええ子がおるかもしれん』


「……本当に?」


『ほんまほんま』


たかしは笑った。


久しぶりに、自然に笑った。


「ありがとう」


『またこっち戻ってきたら飲もうや』


「うん」


『俺とは週一回くらいでええからな』


その言葉を聞いて、たかしは苦笑した。


「うん」


電話を切った。


しばらくスマートフォンを握ったまま、動けなかった。


北海道に来ても。


仕事を失っても。


家を失っても。


借金まみれになっても。


友達との約束だけは残っている。


そう思った。


それが、自分に残された最後のものだと思った。


翌朝。


五時。


たかしは起こされた。


「起きて」


「はい……」


外はまだ真っ暗だった。


眠気と疲労で身体が重い。


足も痛かった。


それでも立ち上がった。


倉庫へ向かう。


仕事は想像していた以上にきつかった。


荷物を運ぶ。


雪を片付ける。


床を掃除する。


機械の周辺を整理する。


昼食を取る時間も短い。


「これ終わったら次」


「はい」


「こっちも頼む」


「はい」


たかしはひたすら働いた。


何度も足を止めたくなった。


けれど、そのたびに昨日の部屋を思い出した。


暖房。


ベッド。


屋根。


ここを失ったら、また外だ。


だから働くしかなかった。


昼過ぎ。


男がやって来た。


「大丈夫か?」


「はい」


「顔色悪いぞ」


「ちょっと寝不足なだけです」


「無理すんなよ」


そう言って男は去っていった。


たかしは、その言葉に少し救われた。


ここにも、自分を心配してくれる人がいる。


そう思った。


けれど。


夜、部屋に戻ってから、机の上に一枚の紙が置かれていた。


給与の説明書だった。


たかしは数字を追った。


給料。


そこから、以前の借り入れ。


部屋代。


食費。


光熱費。


仕事に必要な費用。


その他の立替金。


いくつもの項目が並んでいた。


最後に残る金額は、思っていたよりずっと少なかった。


「……これだけ?」


思わず声が出た。


紙の下には、小さくこう書かれていた。


――生活が安定するまで給与の一部を預かります。


たかしは椅子に座った。


そして、何度も数字を見直した。


間違っているわけではなかった。


働いても。


働いても。


借金はほとんど減らない。


それでも、屋根はある。


食事もある。


仕事もある。


だからいい。


たかしは自分にそう言い聞かせた。


「これくらい……仕方ない」


そして、その夜も友達のグループに届いた写真を眺めた。


五人は笑っていた。


自分だけが、写真の外にいた。


それでも。


たかしはスマートフォンに短く打ち込んだ。


――みんな元気?


すぐには誰からも返事がなかった。


数分後。


まさとから一言だけ返ってきた。


『元気やで』


たかしは笑った。


それだけでよかった。


誰かと繋がっている。


そう思えたから。


その夜、たかしは眠る前に考えた。


いつか借金を全部返そう。


いつか身体を治そう。


いつか仕事を安定させよう。


いつか友達に会おう。


そして。


いつか女の子を紹介してもらおう。


まだ終わっていない。


そう思いたかった。


けれど、たかしはまだ知らなかった。


ここで与えられた「仕事」と「住む場所」が、少しずつ彼の自由を奪っていくことを。


そして、自分から助けを求めることのできない人間にとって、


「ここしかない」


という場所は、


家ではなくなることを。

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