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『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


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第38話 助けてと言えない

病院を出てから、たかしは一人で歩いていた。


雪が降っている。


昼間なのに寒い。


吐いた息が白くなる。


足が痛い。


一歩進むたびに、靴の中で傷が擦れる。


それでも歩いた。


帰る場所はある。


そう思っていた。


しかし。


昨日まで「自分の部屋」だと思っていた場所は、実際には会社から借りている寮だった。


仕事を失えば。


住む場所も失う。


その事実が、今になって重くのしかかっていた。


「……どうしたらええんや」


答えは出なかった。


---


寮に戻る。


部屋の暖房をつける。


ベッドに座る。


そしてスマートフォンを開いた。


五人の名前。


まさと。


ひろし。


なおと。


ながと。


りょうた。


たかしは、一人ずつプロフィール画面を開いた。


まさと。


家族と旅行している写真。


大きな家。


子どもたち。


ひろし。


高級車。


妻と子ども。


なおと。


新築の家。


子どもと遊んでいる写真。


ながと。


家族で食事をしている写真。


りょうた。


妻と子どもの写真。


たかしは画面を見つめた。


「……みんな、幸せそうやな」


そして。


自分の写真を見た。


ほとんどなかった。


友達と飲んでいる写真ばかり。


一人の写真はほとんどない。


家族もいない。


恋人もいない。


子どももいない。


そして。


仕事もない。


たかしは画面を閉じた。


---


午後六時。


まさとから電話が来た。


たかしは驚いた。


「もしもし」


『たかし? 元気か?』


「うん」


『北海道どうや?』


「寒いで」


『そら北海道やからな』


まさとは笑った。


たかしも笑った。


『今度こっち来たら飲もうや』


「……うん」


『そういや、仕事どう?』


「……働いてる」


『そうか。頑張れよ』


「うん」


『じゃあまたな』


電話が切れた。


たかしはスマートフォンを握った。


「まさと……」


助けて。


そう言えばいい。


仕事を休まないといけない。


足が悪い。


住む場所を失うかもしれない。


お金もない。


全部話せばいい。


しかし。


言葉が出てこなかった。


---


午後七時。


ひろしからメッセージ。


『北海道で頑張ってるんやって?』


『うん』


『すごいやん』


『ありがとう』


『落ち着いたらまた飲もうな』


『うん』


それだけだった。


たかしはスマートフォンを置いた。


---


午後八時。


なおと。


『仕事どう?』


『頑張ってる』


『さすがたかし』


たったそれだけ。


---


午後九時。


ながと。


『身体には気をつけろよ』


たかしはそのメッセージを見て、指を止めた。


「身体には気をつけろよ」


今の自分に一番必要な言葉だった。


たかしは、


『実は……』


と入力した。


そして。


続ける。


『病院で足が悪いって言われて』


そこまで書いた。


しかし。


送れなかった。


全部消した。


『ありがとう』


それだけ送った。


---


午後十時。


りょうたからメッセージが届いた。


『女の子の件、忘れてないからな』


たかしは画面を見た。


そして。


笑った。


「……ありがとう」


39歳。


まだ結婚していない。


彼女もいない。


子どももいない。


それでも。


友達が、


「いつか紹介する」


と言ってくれる。


たかしにとっては。


それが最後の希望だった。


---


翌朝。


会社の担当者が寮へ来た。


「たかし」


「はい」


「どうする?」


たかしは黙った。


「医者からは?」


「休んだほうがいいと言われました」


「どれくらい?」


「分かりません」


「じゃあ、退寮してもらう」


たかしの顔が青くなった。


「待ってください」


「何?」


「少しだけ待ってもらえませんか?」


「無理」


「お願いします」


「仕事できない人を置いとく余裕ないんだよ」


たかしは俯いた。


「……働きます」


「本当に?」


「はい」


「足、大丈夫なの?」


「大丈夫です」


嘘だった。


痛い。


歩けない。


それでも。


「働きます」


そう言った。


担当者は満足そうに頷いた。


「じゃあ今日から戻って」


「……はい」


---


仕事場。


たかしは足を引きずりながら働いた。


荷物を持つ。


運ぶ。


積む。


雪かきをする。


痛い。


それでも。


「辞めたら住む場所がなくなる」


それだけを考えた。


昼休み。


弁当を食べながら。


たかしは自分の足を見た。


「……これ、いつまで持つんやろ」


---


夕方。


仕事を終える。


帰ろうとしたとき。


担当者が言った。


「明日、追加の仕事あるから」


「はい」


「夜勤も頼む」


たかしは固まった。


「夜勤……ですか?」


「人足りないんだよ」


「でも……」


「嫌なら辞めてもいいぞ」


その言葉。


たかしは知っている。


辞めれば寮を出る。


北海道で行く場所はない。


「……やります」


担当者は笑った。


「助かるよ」


---


その夜。


たかしは一人で夜勤をした。


午前二時。


足が限界だった。


壁に手をつく。


「……痛い」


涙が出た。


「もう無理や」


初めて。


声に出した。


しかし。


仕事は終わらない。


---


午前四時。


ようやく仕事が終わった。


外へ出る。


雪。


風。


たかしは空を見上げた。


「俺……」


声が震える。


「いつまでこんなことするんやろ」


スマートフォンを取り出す。


五人の名前。


今度こそ。


電話をかけようと思った。


まさと。


ひろし。


なおと。


ながと。


りょうた。


誰でもいい。


「助けて」


その一言を言えばいい。


たかしはまさとの名前を押した。


呼び出し音。


一回。


二回。


三回。


出ない。


たかしは電話を切った。


次に、ひろし。


呼び出し音。


出ない。


なおと。


出ない。


ながと。


出ない。


りょうた。


出ない。


たかしはスマートフォンを握りしめた。


「……忙しいんや」


自分に言い聞かせる。


「みんな仕事あるから」


そして。


一人で笑った。


「俺も仕事あるしな」


誰もいない雪道を。


たかしは歩いた。


---


寮に戻る。


玄関を開ける。


暖房をつける。


ベッドに倒れる。


そのとき。


スマートフォンが鳴った。


りょうたからだった。


『ごめん、電話出られへんかった』


たかしは画面を見つめた。


『大丈夫』


返信する。


りょうたから。


『また落ち着いたら飲もうな』


たかしは少し考えて。


『うん』


と返した。


「助けて」


とは。


最後まで言えなかった。


---


その日の朝。


たかしは眠りについた。


そして。


眠る直前。


一つだけ思った。


――もし、昔みたいに俺に金があったら。


――もし、仕事がうまくいっていたら。


――もし、誰かと結婚していたら。


――もし、子どもがいたら。


そんな「もし」が。


頭の中で何度も繰り返された。


しかし。


現実には。


たかし一人だった。


北海道の冬は。


少しずつ深くなっていた。

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