第36話 保証金
北海道の夜は、たかしが想像していたよりずっと寒かった。
駅前のベンチに座りながら、たかしは男から渡された名刺を握りしめていた。
そこには会社名と電話番号。
そして、男の名前が書かれている。
「仕事……」
その言葉だけが頭の中を回っていた。
仕事があれば。
収入があれば。
住む場所があれば。
もう一度やり直せる。
そう思った。
「保証金って……いくらなんですか?」
たかしが聞く。
男は少し考えてから答えた。
「二十万」
「二十万……」
たかしは財布を開いた。
小銭。
千円札が数枚。
それだけだった。
男は笑った。
「今持ってなくても大丈夫や」
「え?」
「うちで立て替える」
たかしは顔を上げた。
「立て替えて……くれるんですか?」
「ああ」
男は当然のように言った。
「働いて給料から返してくれたらええ」
たかしは黙った。
借金。
その言葉が頭をよぎる。
もう借金は十分すぎるほどある。
それでも。
仕事が手に入るなら。
住む場所が手に入るなら。
二十万円くらいなら返せるかもしれない。
「……お願いします」
たかしは頭を下げた。
男は笑った。
「そうこなくちゃ」
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男についていく。
駅から少し離れた場所にある車。
古いワゴン車だった。
後部座席には、段ボールや工具が積まれている。
たかしは助手席に座った。
「仕事は何するんですか?」
「簡単な仕事や」
「どんな?」
「荷物運んだり、清掃したり」
「僕でもできますか?」
「もちろん」
男は笑った。
「身体が悪いって言ってたけど?」
「足が少し……」
「まあ、働きながら治せばええ」
その言葉に、たかしは少し安心した。
病院に行くお金もない。
働きながら治す。
それしかない。
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車は郊外へ向かった。
窓の外には雪。
街灯。
そして暗闇。
たかしは不安になった。
「どこへ向かってるんですか?」
「寮や」
「寮?」
「住む場所や」
「……ありがとうございます」
「ええって」
男は笑った。
「困ってる人を助けるのが俺の仕事みたいなもんやから」
その言葉を聞いて。
たかしは昔の自分を思い出した。
困っている友達に酒を奢った。
悩んでいる友達の話を聞いた。
「ありがとう」
と言われると嬉しかった。
だから。
この男も同じなのかもしれない。
そう思った。
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到着した場所は、小さな建物だった。
古い。
しかし、屋根がある。
男が鍵を開けた。
「ここ使ってええぞ」
小さな部屋。
ベッド。
机。
暖房。
たかしは部屋の中を見回した。
「……ここに住んでいいんですか?」
「ああ」
たかしは泣きそうになった。
屋根がある。
暖房がある。
ベッドがある。
それだけで十分だった。
「ありがとうございます」
男は笑った。
「明日から仕事な」
「はい」
「給料から保証金と寮費を引くから」
たかしは頷いた。
「分かりました」
男が出ていく。
ドアが閉まった。
たかしはベッドに座った。
久しぶりに暖かい場所にいる。
布団に入る。
身体が少しずつ温まっていく。
「……助かった」
そう呟いた。
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翌朝。
午前六時。
男が部屋をノックした。
「たかし、起きてるか?」
「はい!」
たかしは飛び起きた。
久しぶりに仕事がある。
急いで着替える。
男について外へ出る。
雪が降っていた。
「寒いな……」
「そのうち慣れる」
男は笑った。
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最初の仕事は倉庫だった。
段ボールを運ぶ。
荷物を整理する。
床を掃除する。
たかしは必死に働いた。
足が痛い。
しかし我慢した。
「働かなきゃ」
それだけを考えた。
昼休み。
男が弁当を渡してくれた。
「食え」
「ありがとうございます」
たかしは夢中で食べた。
久しぶりのまともな食事だった。
「どうや?」
「頑張れそうです」
男は笑った。
「そうか」
その笑顔を見て。
たかしは思った。
――今度こそ。
今度こそ人生をやり直せる。
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しかし。
仕事が終わった夜。
男から封筒を渡された。
「これ」
たかしが開ける。
中には明細が入っていた。
「保証金二十万」
「はい」
「寮費」
「……はい」
「食費」
「……食費?」
「昼飯とか用意してるやろ?」
「はい」
「あと送迎代」
たかしは明細を見つめた。
数字が並んでいる。
思っていたよりずっと多い。
「これ……給料から全部引かれるんですか?」
「そうや」
「じゃあ、僕の手元には……」
「最初のうちはほとんど残らんと思う」
たかしは黙った。
男は笑った。
「でも大丈夫や」
「……何がですか?」
「働いてたら、そのうち楽になる」
その言葉。
どこかで聞いたことがある。
「大丈夫」
「そのうち」
「今度」
「また来週」
「頑張ればいい」
たかしは明細を握った。
そして。
何も言わなかった。
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数日後。
給料日。
たかしは封筒を受け取った。
開ける。
手取り。
ほとんど残っていなかった。
「……これだけ?」
男は答えた。
「最初はそんなもんや」
たかしは封筒を見つめた。
これでは借金の返済ができない。
冬の服も買えない。
病院にも行けない。
それでも。
屋根はある。
仕事もある。
たかしは自分に言い聞かせた。
「来月はもっと残る」
「そのうち楽になる」
「働けばいい」
そう思った。
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その夜。
たかしのスマートフォンが鳴った。
圏外だったはずなのに。
偶然、電波が入った。
通知が大量に届く。
まさと。
ひろし。
なおと。
ながと。
りょうた。
五人からだった。
『最近どうしてる?』
『また飲もうや』
『たかし、元気か?』
『今度こっち来いよ』
『女の子の件、また連絡するわ』
たかしは一つずつ読んだ。
そして最後の、
「女の子の件」
という言葉で手が止まった。
39歳。
独身。
恋人なし。
家族なし。
それでも。
まだ自分にも可能性がある。
そう思った。
たかしは返信を書いた。
『北海道で仕事始めた』
五人全員に同じメッセージを送った。
すぐに返信が来る。
『すげえやん!』
『頑張れよ!』
『落ち着いたら飲もうな!』
『北海道なら酒うまいやろ!』
『女の子の件も忘れてへんからな!』
たかしは笑った。
久しぶりに心から笑った。
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しかし。
その日の深夜。
たかしは明細をもう一度見た。
保証金。
寮費。
食費。
送迎費。
その他の費用。
そして。
小さく書かれた文字。
「契約期間中の退寮時には違約金が発生します」
たかしは目を細めた。
「……辞められへんの?」
胸がざわつく。
しかし。
明日も仕事がある。
考えるのをやめた。
布団に入る。
目を閉じる。
「今度こそ……」
たかしは呟いた。
「今度こそ、普通に戻るんや」
外では雪が降っていた。
そして。
たかしが知らないところで。
会社の担当者は、別の男に電話をしていた。
「はい。新しい人、入りました」
電話の向こうから声がする。
「借金持ち?」
「かなりあるみたいです」
「じゃあ、長く使えそうだな」
男は笑った。
「逃げられないようにだけしとけ」
電話が切れる。
窓の外。
北海道の雪は降り続いていた。
たかしは、その会話を知らない。
ただ暖かい布団の中で。
久しぶりに安心して眠っていた。
その安心が。
新しい搾取の始まりだとも知らずに。




