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『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


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第29話 誘われる予定

木曜日の夕方。


たかしは、仕事を辞めてから何度も見つめるようになった部屋の壁を眺めていた。


壁に掛けられた時計は、午後六時を少し過ぎている。


以前なら、仕事を終えて帰宅する時間だった。


今は違う。


仕事はない。


明日の予定もない。


求人サイトを開いても、応募できそうな仕事を探す気力が続かない。


それでも、スマートフォンだけは何度も確認していた。


通知はない。


メールもない。


電話もない。


たかしはスマートフォンをテーブルに置いた。


数分後。


また手に取った。


何を待っているのか。


自分でも分かっていた。


――誰かから連絡が来るのを待っている。


それだけだった。


午後六時二十三分。


スマートフォンが震えた。


たかしの心臓が跳ねる。


画面を見る。


「りょうた」


たかしは、ほっとした。


その感情に気づいて、一瞬だけ眉をひそめる。


借金の督促ではなかった。


仕事の連絡でもなかった。


病院からでもなかった。


ただの友達からの電話。


それなのに。


こんなにも嬉しい。


「もしもし」


『おう、たかし。今日暇やろ?』


「……うん」


『ちょっと飲まへん?』


たかしは時計を見た。


木曜日。


りょうたの休日。


そして、自分にとっては五人目の夜。


以前なら、ここで少し迷った。


最近は違った。


「うん。行く」


返事が早かった。


『よっしゃ。じゃあ、いつものところな』


「分かった」


電話が切れた。


たかしはスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。


そして、小さく笑った。


「……誘ってくれた」


それだけだった。


それだけなのに、胸の奥が少し軽くなった。


---


待ち合わせ場所へ向かう途中。


たかしは足を引きずっていた。


以前からあった傷は、完全には治っていない。


歩くたびに鈍い痛みが走る。


一度、立ち止まった。


帰ろうか。


病院に行ったほうがいい。


そう思った。


けれど、スマートフォンを見る。


りょうたから、


『もう着くで』


とメッセージが入っていた。


たかしは歩き出した。


「今日は大丈夫」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


---


居酒屋に入ると、りょうたが手を上げた。


「おう、たかし!」


「ごめん、遅れた」


「ええって。座れや」


たかしが席につく。


りょうたはビールを注文した。


「たかしも飲むやろ?」


「うん」


料理が運ばれてくる。


二人は昔の話をした。


高校時代のこと。


まだ何も持っていなかった頃のこと。


たかしがみんなに奢っていた頃のこと。


「そういや、昔はたかしがよう奢ってくれたよな」


りょうたが笑った。


「そんなこともあったな」


「ほんま助かったわ」


「いや、別に」


たかしも笑う。


けれど、りょうたは知らなかった。


あの頃のたかしが、今でもその記憶を大切にしていることを。


そして、たかし自身も気づいていなかった。


その思い出が、今の自分を縛っていることを。


---


「最近どうなん?」


りょうたが聞いた。


「仕事、まだ探してる」


「そっか」


りょうたは少し考えてから言った。


「まあ、焦るなよ」


「うん」


「たかし、まだ三十九やろ?」


「そう」


「全然やり直せるって」


その言葉に、たかしは少しだけ救われた。


「……そうかな」


「そうやって。資格でも取ったらええやん」


「資格……」


「なんか一個持ってたら違うやろ」


「うん」


「たかし、昔から優しいし、人柄はええんやから」


また、その言葉だった。


優しい。


人柄がいい。


昔から何度も聞いてきた言葉。


たかしは笑った。


「ありがとう」


りょうたはビールを飲んだ。


「それとな」


「うん?」


「この前言ってた女の子の話な」


たかしの顔が上がった。


「……うん」


「一応、知り合いに聞いてみた」


「ほんま?」


胸が高鳴る。


「どんな人?」


「いや、まだ分からんけどな。今度、みんなで飯でも食えたらと思って」


「……ほんまに?」


「たかし、そんな期待すんなって」


りょうたは笑った。


「でも、まあ、機会があったら紹介するわ」


「ありがとう」


たかしは何度も頷いた。


具体的な日時はない。


相手の名前も知らない。


どんな人なのかも分からない。


それでも。


「今度、紹介する」


その言葉だけで、未来が少し明るく見えた。


---


二軒目に行くことになった。


店を出る前、たかしは財布を確認した。


現金が少ない。


カードの残高も心配だった。


「俺、今日は……」


言いかけて、口を閉じた。


今日は払えない。


そう言えばいい。


けれど。


りょうたが言った。


「まあ、今日は付き合ってや」


たかしは笑った。


「うん」


その夜も、たかしが多く支払った。


最初の店。


二軒目。


そして帰り際のタクシー代。


合計金額を見て、たかしは一瞬だけ固まった。


――また借りないと。


そう思った。


以前なら、その金額に恐怖を感じていた。


今は違った。


「また借りればいいか」


そう考えるようになっていた。


---


家に帰ったのは、午前一時過ぎだった。


玄関の明かりをつける。


静かな部屋。


冷蔵庫を開ける。


ほとんど何もない。


たかしは水だけ飲んだ。


ベッドに座る。


靴を脱ぐ。


足がズキッと痛んだ。


「……痛いな」


靴下を脱ぐ。


傷を見る。


少し腫れている。


たかしはしばらく眺めていた。


病院。


仕事。


借金。


生活。


女の子。


友達。


全部が頭の中に浮かんでは消えていく。


けれど最後に残ったのは、


「機会があったら紹介するわ」


というりょうたの言葉だった。


たかしは布団に入った。


「まだ大丈夫」


そう呟いた。


そして目を閉じた。


---


翌朝。


たかしは午前十一時に目を覚ました。


以前なら遅刻している時間だった。


今は遅刻する仕事すらない。


スマートフォンを見る。


新しい通知はなかった。


たかしは少しだけがっかりした。


そして、そのことに自分で驚いた。


以前なら、誰からも連絡がないことなど当たり前だった。


今は違う。


連絡がないと、不安になる。


誰にも誘われない日が続くと、


「俺って必要ないのかな」


と思うようになっていた。


たかしは求人サイトを開いた。


一件、条件の良さそうな求人を見つけた。


応募しようと思った。


履歴書を開く。


職歴を書く。


空白期間を書く。


前職の退職理由を書く。


そこで手が止まった。


昨日飲んだ。


一昨日も飲んだ。


その前も。


五日間、毎晩誰かと飲んでいる。


もし働き始めたら。


また誘われる。


また断れない。


また遅刻するかもしれない。


そんな考えが頭をよぎった。


たかしは履歴書を閉じた。


「……明日でいいか」


また先送りした。


---


その日の夜。


誰からも連絡はなかった。


たかしはテレビをつけた。


内容は頭に入らない。


スマートフォンを見る。


通知はない。


午後九時。


ない。


午後十時。


ない。


午後十一時。


ない。


たかしは、ふと気づいた。


――今日は誰とも飲んでいない。


そして。


――寂しい。


以前なら、飲まない夜は嬉しかった。


金を使わずに済む。


身体を休められる。


仕事のことを考えられる。


今は違う。


誰にも必要とされていないような気がする。


誰にも誘われないことが、


「自分には価値がない」


という証明のように思えてしまう。


たかしはスマートフォンを手に取った。


連絡先を開く。


五人の名前が並んでいる。


まさと。


ひろし。


なおと。


ながと。


りょうた。


指が止まった。


自分から連絡することなど、ほとんどなかった。


たかしは「まさと」の名前を押しかけた。


しかし、やめた。


「……明日、日曜やし」


そう呟いた。


日曜日。


まさとの休日。


きっと電話が来る。


そう思った。


その瞬間。


たかしは安心した。


---


日曜日の夕方。


スマートフォンが震えた。


「まさと」


たかしは、すぐに電話に出た。


「もしもし」


『たかし? 今日いける?』


「うん」


即答だった。


『よかった。じゃあ、いつもの店な』


「うん」


電話を切った。


たかしは立ち上がった。


鏡を見る。


髪を整える。


服を選ぶ。


そして、玄関で靴を履いた。


足が痛い。


財布は軽い。


借金は増えている。


仕事はない。


身体も悪くなっている。


それでも。


今日は、誰かに誘われた。


たかしにとって、それが一番大切な予定になっていた。


彼は笑って、玄関のドアを開けた。


その笑顔の裏側で。


自分の人生を立て直すための時間が、また一晩、消えていった。

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