第24話 誘われない恐怖
水曜日の朝。
たかしは目を覚ました。
頭が重い。
口の中が乾いている。
身体を起こそうとすると、右足に鈍い痛みが走った。
「……っ」
たかしは布団の端を掴んだ。
しばらく動けなかった。
昨日も飲んだ。
一昨日も飲んだ。
その前の日も。
毎日、酒を飲んでいる。
自分でも分かっていた。
「今日は……飲まんとこ」
小さな声で呟いた。
今日はながととの約束がある。
でも、本当は行きたくない。
財布を見る。
ほとんど金がない。
銀行口座を見る。
残高は減っている。
借金は増えている。
「……断ろう」
たかしはスマートフォンを手に取った。
ながとのメッセージを開く。
『今日よろしく』
返信欄を開く。
『ごめん、今日は……』
そこまで入力して、指が止まった。
削除する。
もう一度入力する。
『今日は体調悪いから……』
また削除する。
そして、スマートフォンを机に置いた。
「……なんて言えばいいんや」
理由が思いつかなかった。
体調が悪い。
金がない。
仕事を探したい。
全部、本当だ。
それなのに。
断ることが怖かった。
もし断ったら。
嫌われるんじゃないか。
「たかし、付き合い悪くなったな」
そう言われるんじゃないか。
その言葉を想像しただけで、胸が苦しくなった。
たかしは昔から、人に嫌われることが怖かった。
誰かに怒られるより。
誰かに見捨てられることのほうが怖かった。
だから。
我慢した。
譲った。
謝った。
奢った。
自分が悪くなくても。
「ごめん」
と言った。
それが、たかしの生き方だった。
昼になった。
たかしは求人サイトを開いた。
応募しようとする。
しかし集中できない。
何度もスマートフォンを見る。
ながとから連絡が来ている。
『今日、何時にする?』
たかしは返信した。
『19時くらいで』
送信。
自分で送ったのに、胸が苦しくなった。
「……なんで行くって言ったんや」
答えは分からない。
いや。
本当は分かっていた。
行きたかったわけではない。
嫌われたくなかっただけだ。
夜。
たかしはながとと合流した。
「おう、たかし」
「おう」
「元気そうやん」
「まあな」
二人で居酒屋へ入る。
ながとは仕事の話を始めた。
銀行の話。
部下の話。
顧客の話。
そして家族の話。
「この前、子どもと旅行行ってきてな」
「どこ?」
「沖縄」
「ええな」
「めっちゃ喜んでたわ」
「そうか」
たかしは笑った。
自分も子どもが欲しい。
結婚したい。
家庭を持ちたい。
その気持ちは、ずっと消えていない。
「たかしも結婚したらええやん」
「……相手がおらん」
「俺が紹介したるって」
「ほんま?」
「ほんまほんま」
また、その言葉。
たかしは嬉しかった。
「ありがとう」
ながとは笑った。
「でもな」
「ん?」
「その前に仕事やろ」
「……うん」
「資格も取ったほうがいい」
「分かってる」
「俺らも頑張ってきたから今があるんやで」
「……そうやな」
たかしは酒を飲んだ。
また一杯。
もう一杯。
頭がぼんやりしてくる。
「たかし、大丈夫?」
「大丈夫」
「顔赤いで」
「昔からや」
二人で笑った。
しばらくして。
ながとがスマートフォンを取り出した。
「これ見て」
「何?」
子どもの写真だった。
小さな女の子が笑っている。
「かわいいな」
「やろ?」
たかしは写真を見つめた。
胸が痛くなった。
自分にも。
いつか。
そんな家庭ができる。
そう信じた。
「俺も……」
「ん?」
「俺も子ども欲しいな」
「なら、彼女作らな」
「うん」
「たかしなら大丈夫やって」
「……そうかな」
「優しいし」
その言葉に。
たかしはまた救われた。
「ありがとう」
そして会計。
たかしが払った。
「悪いな」
「いいよ」
「また今度返すわ」
「うん」
店を出る。
ながとは自宅へ帰っていった。
たかしは一人になった。
財布を見る。
ほとんど何もない。
「……」
スマートフォンを見る。
銀行口座。
また減っている。
借入残高。
また増えている。
たかしは歩き出した。
右足が痛む。
一歩。
また一歩。
帰宅した。
玄関を開ける。
部屋は暗い。
電気をつける。
誰もいない。
「ただいま」
誰も返事をしない。
たかしは苦笑した。
「……何言ってんねん、俺」
冷蔵庫を開ける。
何もない。
水を飲む。
ベッドに座る。
スマートフォンが鳴った。
まさとからだった。
『たかし、日曜よろしくな』
たかしは画面を見た。
日曜日。
まさと。
月曜日。
ひろし。
火曜日。
なおと。
水曜日。
ながと。
木曜日。
りょうた。
五日連続。
たかしはカレンダーを見る。
その予定を見ているうちに。
突然、不安になった。
「……もし」
もし、誰からも誘われなくなったら。
自分には何が残る?
仕事はない。
恋人もいない。
家族もいない。
金もない。
資格もない。
友達だけ。
その友達から誘われなくなったら。
自分は一人になる。
「……嫌や」
たかしは呟いた。
自分でも驚くほど、その言葉は強かった。
「一人は嫌や……」
だから。
飲みに誘われることが嬉しい。
奢らされることも。
酒を飲まされることも。
本当は嫌なのに。
誘われることだけは嬉しかった。
必要とされているような気がした。
「俺にも……居場所がある」
そう思えた。
たかしはスマートフォンを握った。
まさとに返信する。
『楽しみにしてる』
送信。
その直後。
たかしは財布を開いた。
小銭しか入っていない。
「……」
どうする。
日曜日までに金を用意しなければならない。
たかしはまた、借入アプリを開いた。
昨日までなら躊躇していた。
今日は違った。
指がほとんど迷わない。
借入額を入力する。
確認。
実行。
画面に表示される。
「……借りられた」
たかしは安堵した。
そして、ふと思った。
以前は。
借金をすることが怖かった。
今は。
借金をすると安心する。
そのことに気づいた瞬間。
たかしの背筋が冷たくなった。
「……俺、おかしくなってる」
スマートフォンを伏せる。
しかし、すぐにまた手に取った。
まさとのメッセージを開く。
『日曜、いつもの店な』
たかしは返信した。
『うん』
布団に入る。
目を閉じる。
眠れない。
頭の中には、借金の数字が浮かんでいた。
それでも。
日曜日のことを考えると。
少しだけ安心した。
誰かが自分を必要としてくれている。
そう思えたから。
たかしはまだ知らない。
この頃から、自分にとって「借金」と「友情」が、ほとんど同じ意味になり始めていたことを。
金を借りれば、友達に会える。
友達に会うためには、金が必要。
金がなければ、借りる。
借りた金を返すためには、仕事が必要。
仕事を探す時間は、飲み会で失われる。
そしてまた、借りる。
その輪はもう。
たかし一人の意思では、止められなくなり始めていた。




