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『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


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第23話 優しい人

 たかしは、朝から足を引きずっていた。


 昨日の夜から、右足の痛みが強くなっている。


 歩くたびに、靴の中で傷が擦れる。


「……痛いな」


 それでも病院へ行く気にはなれなかった。


 医師に言われることは分かっている。


 酒を減らしてください。


 生活を改善してください。


 体重を落としてください。


 ちゃんと食事をしてください。


 規則正しい生活をしてください。


 全部、正しい。


 だからこそ、聞くのが怖かった。


 たかしは布団の上に座った。


 スマートフォンを見る。


 今日の予定。


 何もない。


 それなのに。


 夜には飲み会がある。


 ひろしから誘われている。


 たかしはカレンダーを開いた。


 日曜日。


 まさと。


 月曜日。


 ひろし。


 火曜日。


 なおと。


 水曜日。


 ながと。


 木曜日。


 りょうた。


 金曜日、土曜日。


 予定なし。


 けれど、たかしにとっては休みではなかった。


 金曜日は疲れ切って寝る。


 土曜日も寝る。


 それでも身体は回復しない。


「……いつからこんな生活になったんやろ」


 高校時代。


 たかしは普通の少年だった。


 勉強が特別できたわけではない。


 運動が得意だったわけでもない。


 顔が良かったわけでもない。


 ただ、人に優しかった。


 誰かが困っていれば助けた。


 誰かが金を持っていなければ、自分が出した。


 誰かが落ち込んでいれば、話を聞いた。


 それだけだった。


 高校を卒業して働き始めたときも同じだった。


 友人たちは大学へ進学した。


 たかしは働いた。


 給料をもらった。


 友人たちから、


「たかし、今日は頼むわ」


と言われれば、


「ええよ」


と答えた。


 それが当たり前だった。


 友達だから。


 仲間だから。


 自分だけ働いているのだから。


 そんな気持ちだった。


 やがて友人たちは就職した。


 どんどん成功していった。


 そして今。


 年収二千万円を超える友人たち。


 年収三百万円程度の自分。


 立場は完全に逆転していた。


 なのに。


 奢る人間だけは変わらなかった。


「……なんでやろ」


 答えは分かっていた。


 たかし自身が、そうしてしまったからだ。


 夕方。


 ひろしから連絡が来た。


『たかし、今日よろしくな』


『うん』


『最近どうなん?』


『まあまあ』


『無理すんなよ』


 その言葉に、たかしは少し笑った。


 ひろしは優しい。


 本当に心配している。


 だからこそ、たかしは断れなかった。


 夜。


 二人で居酒屋に入った。


「乾杯!」


「乾杯」


 ビールを飲む。


 一杯。


 二杯。


 三杯。


 たかしの顔が赤くなる。


「たかし、飲むの弱かったよな?」


「うん」


「無理すんなよ」


「大丈夫」


「ほんま?」


「大丈夫やって」


 笑う。


 その笑顔を見て、ひろしも笑った。


「やっぱりたかしと飲むと楽やわ」


「そう?」


「うん。変に気を使わんでええから」


 その言葉を聞いて。


 たかしは嬉しくなった。


「俺もひろしと飲むの好きやで」


「そうやろ?」


 二人で笑った。


 そのときだった。


「そういや、たかし」


「ん?」


「仕事決まった?」


「まだ」


「大丈夫か?」


「……うん」


「借金とか大丈夫なん?」


 たかしの手が止まった。


「……まあ」


「まあ?」


「なんとかなる」


「そっか」


 ひろしはそれ以上聞かなかった。


 そして話題を変えた。


 仕事の話。


 車の話。


 家族の話。


 子どもの話。


「うちの子、最近サッカー始めてな」


「へえ」


「休みの日は練習見に行ってる」


「いいな」


「たかしも子どもできたら一緒に遊べるやん」


「……うん」


 たかしは笑った。


「俺も子ども欲しい」


「なら彼女作らなあかんな」


「うん」


「俺が紹介したるって」


「ほんま?」


「ほんまやって」


 また、その言葉だった。


 たかしは信じた。


 いつか。


 きっと。


 自分にも家族ができる。


 そのためには。


 まだ頑張らなければならない。


 そう思った。


 会計。


 たかしが財布を出す。


「今日は俺が払うわ」


「悪いな」


「ええよ」


 カードを出す。


 決済音。


 それだけだった。


 店を出る。


「たかし、ありがとうな」


「うん」


「また飲もうな」


「うん」


 ひろしと別れた。


 たかしは一人で歩いた。


 足が痛い。


 それでも歩いた。


 家に帰る途中。


 コンビニに寄った。


 酒を買う。


 弁当を買う。


 菓子パンも買った。


 レジで金額を見て、少し驚いた。


「……高いな」


 それでも買った。


 家に帰る。


 弁当を食べる。


 酒を飲む。


 そのまま眠った。


 深夜。


 喉が渇いて目を覚ました。


 水を飲む。


 トイレに行く。


 また寝る。


 朝。


 目が覚める。


 身体が重い。


 喉が渇いている。


 たかしは水を飲んだ。


 また飲んだ。


 何度も飲んだ。


「……なんか、おかしいな」


 それでも病院には行かなかった。


 昼。


 スマートフォンを見る。


 なおとからメッセージ。


『今日どう?』


 たかしは返信する。


『大丈夫』


 送信した直後。


 またメッセージが届いた。


『飲みに行こうや』


 たかしは画面を見た。


 今日は火曜日。


 なおとの休日。


 また飲み会。


 たかしは一瞬、断ろうとした。


 しかし。


『仕事のストレス溜まってるんよ』


 その一文を見た。


 たかしは返信した。


『分かった』


 送信。


 スマートフォンを置く。


 そして自分に言い聞かせた。


「週一回や」


 その言葉は正しい。


 なおとにとっては。


 週一回。


 たかしにとっても。


 なおとだけなら週一回。


 問題はない。


 でも。


 その前の日にはひろしと飲んでいた。


 その前の日にはまさと。


 そして翌日はながと。


 さらにその翌日はりょうた。


 たかしだけが、それを知っている。


 けれど。


 誰にも言わなかった。


 言えば、何かが壊れる気がした。


 友達との関係。


 昔から続いてきた友情。


 そして何より。


 「優しいたかし」という自分自身。


 それを失いたくなかった。


 夜。


 なおととの飲み会。


「たかし、最近ちょっと痩せた?」


「そうかな」


「いや、顔はむしろ丸くなったか?」


「……最近太ったんかな」


「酒飲みすぎやろ」


 なおとは笑った。


 たかしも笑った。


「まあ、仕事もないしな」


「それはあかんで」


「分かってる」


「本気で仕事探せよ」


「うん」


「俺らが成功したのも努力したからやで」


「……うん」


 また説教が始まった。


 たかしは黙って聞いた。


 反論しなかった。


 酒を飲んだ。


 そして、また支払った。


 帰宅。


 午前一時。


 鏡を見る。


 自分の顔が、以前とは違って見えた。


 頬が丸い。


 腹が出ている。


 目の下にはクマ。


 髪も乱れている。


 たかしは鏡に手をついた。


「……俺、こんなんやったっけ」


 答える人はいない。


 スマートフォンが鳴った。


 ながとからだった。


『明日、空いてる?』


 たかしは目を閉じた。


「……」


 明日は水曜日。


 ながとの休日。


 たかしは、返信欄を開いた。


 指が止まる。


 断りたい。


 本当に断りたい。


 今日はもう嫌だった。


 酒も飲みたくない。


 金もない。


 身体も痛い。


 何もしたくない。


 それでも。


 指は動いた。


『うん』


 送信。


 しばらくして返信が来た。


『よかった。たかしなら来てくれると思った』


 たかしは、その文章を見つめた。


 そして。


 なぜか涙が出た。


「……俺、何してるんやろ」


 涙を拭く。


 でも。


 翌日になれば、また飲みに行く。


 そしてまた払う。


 また借りる。


 また笑う。


 また「大丈夫」と言う。


 その繰り返し。


 たかしはまだ気づいていなかった。


 自分が「友達に誘われて飲みに行っている」のではなく――


 「誘われることでしか、自分の存在価値を感じられなくなり始めている」


 ことに。


 そして、その依存は。


 酒よりも。


 借金よりも。


 もっと深く、たかしの心を蝕んでいた。

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