第20話 断れない男
朝八時。
スマートフォンが鳴った。
たかしは布団の中で目を開けた。
画面を見る。
ひろしだった。
「……」
しばらく出なかった。
けれど、電話は切れない。
鳴り続ける。
たかしはため息をついて、通話ボタンを押した。
「もしもし……」
『おう、たかし。起きてた?』
「うん」
『今日暇やろ?』
たかしは黙った。
財布にはほとんど金がない。
昨日届いた借金の通知も、まだ机の上にある。
仕事もない。
病院にも行かなければならない。
本当なら、今日は一日中求人を探すべきだった。
「……今日はちょっと」
『ん?』
「いや……」
言葉が続かなかった。
『何か用事あるん?』
「ないけど……」
『じゃあ飲もうや』
「……」
『週一回やん』
その言葉を聞いた瞬間。
たかしの胸が苦しくなった。
週一回。
ひろしにとっては、本当に週一回だった。
まさととも週一回。
なおとも週一回。
ながとも週一回。
りょうたとも週一回。
でも、たかしにとっては違う。
週五回。
それを説明したことはない。
「……分かった」
『お、やっぱりたかしやな』
ひろしは嬉しそうだった。
電話が切れる。
たかしは布団から起き上がった。
「……またか」
自分で自分に呟く。
そして財布を開いた。
紙幣はほとんどない。
小銭を数える。
三百八十円。
「……」
たかしは苦笑した。
これでは飲みに行けない。
そう思った。
けれど、銀行口座には少しだけ残っている。
それを使えばいい。
そう考えた。
昼過ぎ。
ひろしと合流した。
「おう、たかし!」
「久しぶり」
「そんな久しぶりでもないやろ」
ひろしが笑う。
たかしも笑った。
店に入る。
注文する。
ビールが来る。
乾杯。
「仕事探してる?」
「うん」
「どう?」
「まだ決まってない」
「まあ、焦らんでええって」
「そうかな」
「そうやって。たかしなら大丈夫」
ひろしは本当にそう思っていた。
悪意はなかった。
だから、たかしも笑った。
「ありがとう」
「それよりさ」
ひろしが仕事の話を始めた。
高級車の話。
客の話。
売上の話。
ボーナスの話。
たかしは黙って聞いていた。
年収二千万円を超えるひろし。
その話を聞くたびに、自分との差を感じる。
「俺も、もっと頑張らなあかんな」
「そうやで」
「資格も取らなあかんし」
「取ったほうがええ」
「……うん」
そして酒が進む。
たかしは弱い。
顔が赤くなる。
頭がぼんやりしてくる。
それでも飲んだ。
「たかし、今日は飲めよ」
「うん」
「最近全然飲んでへんやろ」
「……そうやな」
ひろしは笑った。
「たまにはええやん」
たかしも笑った。
けれど、頭の中では別のことを考えていた。
――金がない。
今日払ったら、さらに減る。
でも、言えない。
だから、黙っていた。
会計の時間。
店員が伝票を置いた。
たかしは金額を見た。
「……」
胸が締め付けられる。
高い。
明らかに今の自分には高すぎる。
ひろしが財布を出した。
「たかし、今日どうする?」
「……俺が出すよ」
「ええん?」
「うん」
たかしはカードを出した。
支払った。
カードの暗証番号を入力する。
その瞬間。
自分の未来を少しずつ売っているような気がした。
「ありがとう」
ひろしが笑った。
「いや、ええよ」
たかしも笑った。
店を出る。
「二軒目どうする?」
「……」
たかしは答えられなかった。
「キャバクラ行こうや」
その言葉を聞いて、たかしは財布を思い出した。
「今日は……」
「たかし、付き合い悪いなあ」
冗談だった。
ひろしは笑っていた。
たかしも笑った。
「……行く」
二軒目へ向かった。
店内。
華やかな照明。
綺麗な女性。
高い酒。
たかしには場違いだった。
ひろしは楽しそうに話している。
「たかし、もっと飲めよ」
「うん」
また酒を飲む。
女の子が笑う。
ひろしが笑う。
たかしも笑う。
けれど、心の中ではずっと同じ言葉が繰り返されていた。
――金がない。
――金がない。
――金がない。
帰宅したのは午前二時だった。
玄関で財布を開く。
小銭しかない。
銀行口座を確認する。
残高は、さらに減っていた。
カードの利用額を見る。
先ほどの支払いが追加されている。
「……」
たかしは床に座り込んだ。
笑えなかった。
泣くこともできなかった。
ただ、呆然としていた。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
なおとだった。
『たかし、明日どう?』
たかしは画面を見つめた。
明日は火曜日。
なおとの休日。
つまり、飲みの誘い。
「……」
断ればいい。
今度こそ断ればいい。
そう思った。
しかし。
『俺、今週忙しかったからさ。ちょっと飲んでストレス発散したいんよ』
その言葉を聞いた瞬間。
たかしは断れなくなった。
「……分かった」
『よっしゃ。たかしなら来てくれると思ったわ』
電話が切れた。
たかしはスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。
「……俺も、しんどいんやけどな」
誰にも聞こえない声だった。
翌日。
なおととの飲み会。
その翌日。
ながと。
さらに翌日。
りょうた。
たかしは全部参加した。
そして毎回、同じように金を払った。
「たかし、悪いな」
「ええよ」
「いつもありがとう」
「うん」
「今度は俺が出すわ」
「ほんま?」
「ほんまほんま」
その言葉を信じた。
ずっと信じてきた。
けれど。
その「今度」は、いつまで経っても来なかった。
そして日曜日。
また、まさとから連絡が来た。
『たかし、今日どうする?』
たかしは財布を開いた。
何もない。
銀行口座を見る。
ほとんどない。
クレジットカードを見る。
利用可能額も少なくなっている。
もう、飲みに行く金すらない。
「……ごめん」
たかしは電話口で言った。
『ん?』
「今月、ちょっと金がなくて……」
初めてだった。
友達に金がないと言った。
電話の向こうが静かになった。
『……そうなん?』
「うん」
『じゃあ今日はやめとく?』
「……うん」
『分かった。また来週な』
「うん」
電話が切れた。
たかしは、ほっとした。
これでいい。
もう無理をしなくていい。
そう思った。
しかし、その日の夜。
スマートフォンにメッセージが届いた。
まさとだった。
『そういや、たかしに紹介したい女の子おるんやけど』
たかしの心臓が跳ねた。
女の子。
その言葉だけで。
胸の奥に眠っていた希望が目を覚ました。
『ほんま?』
すぐに返信した。
『ほんま。今度飲みに行ったとき紹介するわ』
たかしは画面を見つめた。
嬉しかった。
彼女ができるかもしれない。
結婚できるかもしれない。
子どもを持てるかもしれない。
普通の家庭を作れるかもしれない。
だから。
また飲みに行かなければならない。
その夜。
たかしは銀行口座を見た。
残高は、生活費にも足りないほどだった。
それでも。
画面を閉じるとき。
たかしは笑っていた。
「……次は、彼女できるかもしれんな」
その笑顔の裏で。
借金は、さらに膨らんでいた。
そして、たかしはまだ知らなかった。
これから彼を待っているのは――
ただの借金ではない。
仕事。
健康。
住む場所。
そして、自分自身の身体までも。
少しずつ失っていく未来だった。




