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『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


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第19話 空いた時間

 仕事を失ってから、一週間が過ぎた。


 たかしの朝は、以前とは違っていた。


 目覚ましをセットする必要がない。


 決まった時間に家を出る必要もない。


 急いで駅へ向かう必要もない。


 誰かに遅刻を謝る必要もない。


 最初の数日は、それが少しだけ楽だった。


「今日は何しようかな」


 朝食を食べながら、たかしは考えた。


 仕事を探そう。


 資格の勉強もしよう。


 病院にも行こう。


 生活を立て直そう。


 やることは、いくらでもあった。


 スマートフォンを手に取る。


 求人サイトを開く。


 いくつかの求人を保存する。


 そして、一件目の応募フォームを開いた。


 名前。


 住所。


 職歴。


 資格。


 資格欄を入力するとき、たかしの指が止まった。


「……資格なし」


 その文字を見ると、胸が苦しくなった。


 以前、会社から何度も言われていた。


『資格を取ったほうがいい』


『このままでは厳しい』


『今のうちに勉強してください』


 あのとき、もっと真剣にやっていれば。


 そう思った。


 応募ボタンを押した。


 次の会社。


 その次。


 午前中だけで三件応募した。


「よし……」


 少しだけ達成感があった。


 午後からは資格の勉強をしよう。


 机の上に置いていた参考書を開いた。


 一ページ目。


 二ページ目。


 三ページ目。


 内容が頭に入らない。


 何度読んでも、同じところを繰り返してしまう。


「……難しいな」


 参考書を閉じた。


 スマートフォンを見る。


 午後五時。


 通知が一件。


 まさとだった。


『今日暇やろ?』


 たかしは画面を見つめた。


 仕事がない。


 断る理由もない。


 いや。


 本当はある。


 勉強。


 仕事探し。


 身体を休めること。


 いくらでもある。


 それでも。


『今日飲まへん?』


 たかしは、しばらく考えてから返信した。


『うん』


 送信。


 自分でも、少し驚いた。


「……また行くんか」


 誰も強制していない。


 まさとも、無理やり誘っているわけではない。


 たかしが自分で「行く」と返事をした。


 だからこそ。


 たかしは自分自身を責めた。


 夕方、まさとと合流した。


「たかし、元気そうやん」


「そうかな」


「仕事なくなって大変やろ?」


「まあな」


「でも、今は時間あるんやろ?」


「うん」


「なら、ゆっくり探せばええって」


 まさとは笑った。


「今日は俺の奢り……と言いたいところやけど」


 冗談っぽく笑う。


「まあ、いつも通りでええやろ?」


 たかしも笑った。


「……うん」


 財布の中身を確認した。


 少ない。


 でも、出した。


 ビールが運ばれてくる。


 乾杯。


 その瞬間だけ。


 たかしは何も考えなくてよかった。


 仕事のことも。


 借金のことも。


 将来のことも。


 全部忘れられた。


「たかし、最近どうなん?」


「まあまあ」


「彼女は?」


「いない」


「紹介するって言ってるやん」


「うん」


「もうちょっと待っとき」


「……ありがとう」


 その言葉だけは、本当に嬉しかった。


 自分にも、いつか家庭ができるかもしれない。


 そう思えた。


 飲み会が終わる。


「二軒目行こうや」


 まさとが言った。


「……キャバクラ?」


「そうそう」


「今日はやめとこうかな」


「なんや、付き合い悪いな」


 たかしは黙った。


「……分かった」


 二軒目へ向かった。


 店内では、まさとが楽しそうに女の子と話していた。


 たかしは隣で笑っているだけだった。


 酒を飲む。


 また飲む。


 気がつけば、財布の中身が減っている。


 帰宅したのは午前一時過ぎだった。


 財布を開く。


「……」


 数枚の紙幣。


 それだけだった。


 たかしはスマートフォンを開いた。


 銀行口座を確認する。


 残高は、さらに減っていた。


「……これ、いつまで持つんやろ」


 答えは分からなかった。


 翌朝。


 起きると、頭が痛かった。


 足も痛い。


 それでも病院へ向かった。


 医師が足を見る。


「まだ傷がありますね」


「はい」


「生活は改善できていますか?」


 たかしは答えられなかった。


「……少しは」


「お酒は?」


「……飲んでます」


「どれくらいですか?」


 たかしは目を逸らした。


「週に……五日くらい」


 医師は黙った。


「前にも同じことを言いましたよね」


「はい……」


「今の状態では、傷を悪化させる可能性があります」


「……分かってます」


「分かっているなら、生活を変えないといけません」


 たかしは俯いた。


「仕事は?」


「……辞めました」


「これからどうする予定ですか?」


「探します」


「そうですか」


 医師はそれ以上聞かなかった。


 病院を出る。


 帰り道。


 たかしは考えた。


 自分は何をしているんだ。


 仕事を失った。


 金がない。


 借金がある。


 身体も悪い。


 それなのに飲みに行っている。


 でも――。


 友達といるときだけは、そんなことを忘れられる。


 それが怖かった。


 家に帰る。


 机の上には参考書。


 横には求人票。


 そして、病院でもらった薬。


 全部、自分の未来のためのものだった。


 たかしは椅子に座った。


 参考書を開く。


 五分。


 十分。


 集中できない。


 スマートフォンを見る。


 通知。


 ひろしだった。


『明日空いてる?』


 たかしは画面を見つめた。


 明日は月曜日。


 ひろしにとっては休日。


 つまり――。


 また飲み会だった。


「……」


 たかしは返信しなかった。


 しばらくスマートフォンを伏せた。


 しかし、数分後。


 また通知が鳴った。


『どうした?』


 さらに。


『大丈夫?』


 たかしはスマートフォンを手に取った。


『行く』


 送信。


 その瞬間。


 胸の奥に、妙な安心感が広がった。


 明日も、誰かと会える。


 明日も、一人じゃない。


 それだけで安心した。


 火曜日。


 なおと。


 水曜日。


 ながと。


 木曜日。


 りょうた。


 そして日曜日。


 まさと。


 仕事がなくなっても。


 たかしの一週間は、以前と何も変わらなかった。


 いや。


 以前より悪くなっていた。


 仕事をしていた頃は、少なくとも昼間は会社にいた。


 今は一日中自由だった。


 だからこそ。


 友達からの誘いを断る理由がなくなった。


 そして五人は、それぞれ自分だけがたかしを誘っていると思っていた。


 まさとは思った。


 ――俺とは週一回だけ。


 ひろしも思った。


 ――俺とは週一回だけ。


 なおとも。


 ながとも。


 りょうたも。


 全員が同じことを思っていた。


 だから誰も気づかなかった。


 たかしの一週間が、五人によって埋め尽くされていることを。


 そして、たかしも言わなかった。


「今週、もう四回目です」


 そんなことを言えば、嫌われる気がした。


 だから笑った。


「今週もよろしく」


 そう言った。


 その頃には。


 たかしの財布は、ほとんど空になっていた。


 銀行口座の残高も減っていった。


 借金だけは、減らなかった。


 むしろ利息や支払いによって、少しずつ膨らんでいた。


 それでも。


 たかしはまだ、自分には何とかできると思っていた。


 仕事を見つければいい。


 働けばいい。


 借金も返せる。


 身体も治せる。


 酒も減らせる。


 いつか彼女もできる。


 そして、結婚して。


 子どもを作って。


 普通の家庭を持つ。


 まだ三十九歳。


 人生は終わっていない。


 そう思っていた。


 だが、その週の最後。


 たかしのスマートフォンに、借金の返済を求める通知が届いた。


 画面を見た瞬間。


 たかしの顔から笑顔が消えた。


 支払期限。


 金額。


 残高。


 何度計算しても足りない。


「……無理や」


 初めて。


 たかしは声に出した。


「このままじゃ……返せへん」


 部屋の中は静かだった。


 誰もいない。


 電話をしてもいい友達はいる。


 けれど。


 借金のことを相談することだけは、できなかった。


 恥ずかしかった。


 情けなかった。


 そして何より。


 今まで「優しい友達」でいられた自分が。


 ただの「金のない男」になることが怖かった。


 たかしは財布を開いた。


 中には小銭しかなかった。


 その小銭を見つめながら。


 小さく呟いた。


「……俺、どうなるんやろ」


 その夜。


 たかしは眠れなかった。


 そして翌朝。


 また、一本の電話が鳴った。


 ――友達からだった。

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