第18話 仕事を失った日
封筒を開けることができなかった。
会社から渡された、契約更新についての通知。
たかしは机の上に置いたまま、しばらく見つめていた。
薄い封筒だった。
たった一枚か二枚の紙しか入っていないはずなのに。
それが、鉛の塊のように重く感じた。
「……大丈夫や」
自分に言い聞かせた。
まだ決まったわけじゃない。
更新してもらえるかもしれない。
今週は遅刻もなかった。
病院にも行った。
酒も減らした。
ちゃんと仕事をしようとしている。
だから、大丈夫。
そう思いながら、封筒を開けた。
紙を取り出す。
目を通す。
そこに書かれていた文字を見て、たかしの手が止まった。
――契約期間満了。
次回契約の更新は行わない。
「……」
声が出なかった。
何度も読み返した。
意味は分かっている。
けれど、頭が理解することを拒んでいた。
「……嘘やろ」
椅子に座ったまま、動けなくなった。
しばらくして、上司が近づいてきた。
「たかしさん」
「……はい」
「申し訳ないですが、決定です」
「……理由は」
「勤務状況です。遅刻や欠勤が続いていましたから」
「……」
「会社としても、契約を継続するのは難しいという判断です」
「そうですか……」
「今までありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間。
たかしは、何も言えなくなった。
「……こちらこそ、ありがとうございました」
頭を下げた。
会社を出る。
外は、いつもと同じ街だった。
人が歩いている。
車が走っている。
店から音楽が流れている。
何も変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
たかしは駅へ向かった。
電車を待つ。
スマートフォンを見る。
銀行口座の残高を確認する。
少ない。
家賃。
光熱費。
カードの支払い。
借金の返済。
今までも余裕はなかった。
それでも、毎月給料が入っていた。
だから何とかやってこられた。
その給料がなくなる。
「……どうしよう」
口から出た。
答えはなかった。
その夜。
たかしは自宅で一人、食卓に座っていた。
テレビをつける。
内容が頭に入ってこない。
スマートフォンが鳴った。
まさとだった。
『たかし、今日どうしてる?』
「……家」
『飲まへん?』
たかしは黙った。
今日だけは言えなかった。
「……仕事、辞めることになった」
『え?』
「契約、更新されんかった」
『マジか』
「うん」
電話の向こうが静かになった。
しばらくして、まさとが言った。
『そっか……』
「うん」
『大変やな』
「……うん」
『でも、たかしなら何とかなるって』
「そうかな」
『なるなる』
まさとは明るく言った。
『とりあえず今日は飲もうや』
たかしは笑いそうになった。
どうしてそうなるんだ。
仕事を失った。
これからどうするか分からない。
なのに、飲む。
「……今日はやめとく」
『そっか』
「ごめん」
『謝らんでええって』
「うん」
『また連絡するわ』
電話が切れた。
たかしはスマートフォンを置いた。
少しだけ安心した。
まさとは自分を責めなかった。
友達はまだ友達だ。
そう思った。
しかし翌日。
ひろしから電話が来た。
『たかし、大丈夫?』
「うん」
『仕事辞めたって聞いたで』
「うん」
『俺、仕事紹介できるかもしれん』
「本当?」
『知り合いの会社で人探してるところあるから』
「ありがとう」
『今度詳しく話そうや』
「うん」
『今日は飲む?』
「……今日はやめとく」
『了解。無理すんなよ』
また断った。
翌日。
なおとから電話。
『仕事のこと聞いたわ』
「うん」
『不動産営業とかどう?』
「俺には無理やと思う」
『やってみんと分からんって』
「そうかな」
『そうやって。今度飲みながら話そう』
「……うん」
さらに翌日。
ながと。
そして、その翌日にはりょうた。
誰も悪意はなかった。
誰も、たかしを追い詰めようとはしていなかった。
むしろ全員、たかしを心配していた。
「仕事なくなったなら、次を探さなあかんで」
「資格取ったほうがいい」
「生活リズム直したほうがいい」
「身体も治さなあかん」
「まだ三十九やろ。全然やり直せる」
言っていることは、全部正しかった。
だから、たかしは何も言い返せなかった。
そして、最後には必ず――。
「まあ、飲みに行こうや」
そう続いた。
たかしは、少しずつ気づき始めていた。
自分には時間がある。
仕事がなくなったから。
その時間を使って、次の仕事を探せる。
資格の勉強もできる。
身体を治すこともできる。
そう思った。
翌朝。
求人サイトを開いた。
検索する。
「未経験」
「正社員」
「資格不要」
いくつか候補が出てきた。
応募ボタンに指を置く。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
りょうただった。
『たかし、今日空いてる?』
たかしは画面を見た。
今日は木曜日。
りょうたの誘いの日だった。
「……」
応募画面を見る。
電話を見る。
また応募画面を見る。
『たかし?』
「……うん」
『今日ちょっと飲まへん?』
「……分かった」
応募画面を閉じた。
その夜。
りょうたと飲みに行った。
「仕事なくなったんやろ?」
「うん」
「大丈夫やって」
「……そうかな」
「俺らがおるやん」
その言葉を聞いた瞬間。
たかしの胸が熱くなった。
「ありがとう」
「何言ってんねん。高校からの友達やろ」
「うん」
「困ったら頼ってくれたらええねん」
「……ありがとう」
たかしは酒を飲んだ。
そして、また思った。
自分には友達がいる。
だから大丈夫。
仕事がなくなっても。
金がなくなっても。
身体が悪くなっても。
友達がいる。
そう思えば、怖くなかった。
しかし、その夜。
帰宅してから財布を開いた。
残っていた現金は、数枚の紙幣だけだった。
銀行口座の残高も少ない。
カードの請求も迫っている。
そして、借金は消えていない。
「……」
たかしは天井を見上げた。
友達はいる。
でも。
友達は、生活費を払ってくれるわけではない。
家賃を払ってくれるわけでもない。
借金を肩代わりしてくれるわけでもない。
その現実に、初めて気づいた。
「……仕事、探さな」
翌朝から、たかしは求人を探した。
一件。
二件。
三件。
応募する。
返事を待つ。
しかし、なかなか決まらない。
年齢。
資格。
職歴。
空白期間。
条件。
何を見ても、自分が不利に思えた。
そんな中でも。
日曜日になれば、まさとから連絡が来る。
月曜日になれば、ひろし。
火曜日は、なおと。
水曜日は、ながと。
木曜日は、りょうた。
仕事がなくなったことで、時間は増えた。
そのはずだった。
なのに。
たかしの一週間は、以前と同じように埋まっていった。
ただ一つ違っていたのは――。
給料が、もう入ってこないことだった。
たかしは知らなかった。
この先、自分が「仕事を探す時間」さえも失っていくことを。
そして。
借金の金額が、ゆっくりと二千万円を超えていることを。
たかしの生活は。
すでに、崩れ始めていた。




