↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『僕が日常で壊れていくまで』  作者: こうた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/80

第15話 治らない傷

 足の傷が、治らなかった。


 最初は、本当に小さな傷だった。


 靴擦れだと思っていた。


 仕事から帰って靴下を脱いだとき、親指の付け根に赤い傷があることに気づいた。


「……こんなん、いつできたんやろ」


 水で洗って、絆創膏を貼った。


 それだけだった。


 翌日も仕事に行った。


 その日の夜は、なおとから電話があった。


『たかし、今日いける?』


「今日?」


『水曜日やん』


「ああ……」


『飲もうや。ちょっとだけ』


 たかしは時計を見た。


 明日は仕事がある。


 最近は遅刻が増えていた。


 会社からも何度か注意されている。


 だから、本当なら断るべきだった。


「……ちょっとだけな」


『やっぱりたかしは付き合いええなあ』


 その言葉を聞くと、たかしは少しだけ嬉しくなった。


 待ち合わせ場所へ向かった。


 足の傷は、歩くたびに少し痛んだ。


 けれど、たかしは気にしなかった。


 飲み屋では、なおとが仕事の話をしていた。


「最近さ、俺の会社、めちゃくちゃ忙しくてな」


「そうなんや」


「でも給料ええからな。たかしも資格取ったほうがええで」


「うん……」


「資格一個あるだけでも違うやろ」


「そうやな」


「何か取る予定ないん?」


 たかしは答えられなかった。


 本当は、資格を取りたいと思っていた。


 参考書も買った。


 机の上に置いてある。


 しかし、勉強する時間がなかった。


 日曜日はまさと。


 月曜日はひろし。


 火曜日はなおと。


 水曜日は――。


 曜日を考えたところで、たかしは苦笑した。


「まあ、これから考えるわ」


「そうそう。まだ三十九やろ? 全然間に合うって」


「……そうかな」


「間に合うって」


 なおとは笑った。


「それに、たかしは優しいからな。人柄で何とかなるって」


 たかしも笑った。


 けれど、その言葉が妙に胸に残った。


 人柄。


 優しい。


 それしかない。


 家に帰ったのは午前一時を過ぎていた。


 翌朝。


 目覚ましが鳴った。


 たかしは止めた。


 もう一度鳴った。


 また止めた。


 身体が重かった。


 頭も痛かった。


 そして足が痛い。


「……あと五分」


 その五分が、三十分になった。


 目を覚ましたとき、時計は八時を過ぎていた。


「……やばい」


 飛び起きた。


 会社に電話を入れた。


「すみません……体調が悪くて……」


 嘘ではなかった。


 本当に身体が重かった。


 ただ、原因が昨日の酒だということは分かっていた。


 会社へ向かう途中、コンビニのガラスに映った自分を見た。


 顔が丸くなっていた。


 腹も出ている。


 以前の自分とは違う。


「太ったな……」


 そう呟いた。


 昼休み。


 足の傷を確認した。


 絆創膏を剥がすと、傷口はまだ赤かった。


「……治らんな」


 スマートフォンで調べようとした。


 しかし、検索画面を開いたところでやめた。


 怖かった。


 もし何か悪い病気だったら。


 そう思うと、調べることができなかった。


 その夜。


 会社から呼び出された。


「たかしさん、少しいいですか」


 上司だった。


「はい」


「最近、遅刻や欠勤が増えています」


「……すみません」


「体調が悪いのは分かります。ただ、契約社員という立場ですから」


 その言葉で、たかしの胸が冷たくなった。


「はい……」


「次の契約更新については、まだ何とも言えません」


「……更新、してもらえない可能性があるってことですか?」


「今の段階では何とも言えません。ただ、勤務状況については改善してもらわないと困ります」


 たかしは頭を下げた。


「分かりました」


 会社を出た。


 スマートフォンを見る。


 一件の着信。


 ながとだった。


『今日どうする?』


 たかしは立ち止まった。


 今日は木曜日。


 ながとの日だった。


「……」


 断ろうと思った。


 本当に断ろうと思った。


 明日も仕事がある。


 契約更新も危ない。


 足も痛い。


 金もない。


 今月の支払いも厳しい。


 だから――。


『たかし?』


「……うん」


『今日ちょっとだけ飲まへん?』


「……」


『無理ならええけど』


 その一言で、たかしの心が揺れた。


「……行く」


『お、やっぱり来るか』


「うん」


『じゃあ、いつもの店で』


 電話が切れた。


 たかしはスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。


 そして、自分に言い聞かせた。


 今日だけ。


 今日だけ行けばいい。


 ながととは週に一回だけだ。


 まさととも週に一回。


 ひろしとも週に一回。


 なおとも週に一回。


 りょうたとも週に一回。


 それだけだ。


 それだけなら、問題ない。


 たかしは、まだそう思っていた。


 店に着くと、ながとが笑顔で待っていた。


「お疲れ」


「お疲れ」


「最近どう?」


「まあまあ」


「仕事忙しい?」


「……ちょっとな」


「身体には気をつけろよ」


「うん」


 ながとは本当に心配しているようだった。


 だからこそ、たかしは何も言えなかった。


 契約更新が危ないことも。


 足の傷が治らないことも。


 金がないことも。


 何も言わなかった。


 酒が運ばれてきた。


「乾杯しよ」


「うん」


 グラスがぶつかった。


 カチン。


 小さな音がした。


 その瞬間、たかしはふと思った。


 ――俺は、何をしてるんだろう。


 けれど、その疑問も酒と一緒に飲み込んだ。


 夜が深くなった。


 そして会計の時間。


 ながとが財布を出した。


「今日は俺が払うわ」


「え?」


「いつもたかしに払わせてるし」


「……いいよ」


「いや、今日は俺が払う」


「……そう?」


「うん」


 たかしは少し嬉しかった。


 そして、思った。


 やっぱり友達だ。


 ちゃんと俺のことを考えてくれている。


 その気持ちだけで、少し救われた。


 店を出たところで、ながとが言った。


「そういや、今度女の子紹介するって言ってたやん?」


「……うん」


「まあ、そのうちやるわ」


「本当?」


「ああ。俺の知り合いでいい子おるから」


 たかしの顔が明るくなった。


「ほんま?」


「ほんまほんま」


「ありがとう」


「そんな喜ぶなって」


「だって……」


 その先は言えなかった。


 結婚したい。


 家庭を持ちたい。


 子どもが欲しい。


 普通の生活がしたい。


 ずっとそう思っていた。


「じゃあ、また連絡するわ」


「うん」


 ながとは車に乗って帰っていった。


 たかしも自宅へ向かった。


 歩くたびに足が痛かった。


 家に着いて靴下を脱ぐ。


 傷は、まだ赤かった。


 少しだけ腫れているようにも見えた。


 たかしは絆創膏を貼り直した。


「……明日には治るやろ」


 そう言って、眠った。


 しかし。


 明日になっても、治らなかった。


 その次の日も。


 さらに、その次の日も。


 そして一週間が経っても。


 傷は消えなかった。


 むしろ、少しずつ悪くなっていた。


 たかしは、それを見ないようにした。


 見なければ、まだ大丈夫だと思えた。


 そして日曜日が来た。


 スマートフォンが鳴った。


 まさとだった。


『たかし、今日空いてる?』


 たかしは画面を見つめた。


 断る理由はいくらでもあった。


 仕事。


 お金。


 身体。


 足。


 契約更新。


 けれど、口から出た言葉はいつもと同じだった。


「……うん。空いてる」


『よっしゃ。じゃあ飲もうや』


「うん」


 電話を切った。


 たかしは自分の足を見た。


 そして、静かに呟いた。


「……俺、何してるんやろ」


 その問いに答える人は、誰もいなかった。


 ただ、その夜もまた。


 たかしは友達の待つ店へ向かった。


 傷の痛みを隠しながら。


 自分の未来が、少しずつ消えていることにも気づかずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。