第八話 「家族同然」の意味
公爵夫人様からの手紙は、いつも紙の縁が真っ直ぐに切り揃えられている。
その朝、家令が応接室の卓の上にお運びしたお盆の上には、いつもの紙の縁が見えていた。
「お嬢様」
「ありがとう」
「公爵夫人様より、お朝の便でございます」
家令は、お手紙のほかに、もう一通の細い封筒を、別のお盆にお置きになっていた。そちらは、王宮の封蝋。先日の侍従頭がお越しになった日と同じ、王宮のご公務の蝋印。
「こちらは、昨日の昼過ぎに、王宮よりお預けいただきましたものでございます。お父様にも、別の封でお届けがございました」
「同じ日にいらしたのね」
「左様でございます」
私は、まずは公爵夫人様のお手紙のほうを、手に取った。
紙の縁は、いつもどおり真っ直ぐだった。けれど、封蝋の押し方が、ほんの少しだけ、強かった。封蝋が冷え切る前に、もう一度上から押し直されたあとが残っている。書き終えてすぐ、おひとりで蝋を温めて、お送りになったのが分かる、そういう押し方だった。
私は、応接室の卓の前の椅子にお座りして、書状の封蝋を、爪の端で軽く割った。
応接室の窓の向こうで、雀が二羽、鉢植えの脇から地面に降りた。
「クラリス様。お疲れさまでございます。
このお手紙を、皆様の前にお出しすることなく、お嬢様ご自身のお目にだけ、まずお預けいたします。
昨日、私の家のほうで、息子と、リーゼと、私とで、お話を持ちました。話の中身を、まずはお伝えいたします。話の中身を、私の側から、申し上げるべきだと判断いたしました。」
そう、書き出されていた。
公爵夫人様のお書きになるお手紙は、文の出だしの段で、必ず私の側の体調を案じてくださる方だった。けれど、その朝のお手紙は、最初の段から、いつもより少しだけ早く、本題に進まれていた。
私は、紙を膝のうえに開いて、続きをお読みした。
「息子は昨日、リーゼを伴って、我が家にやって参りました。私への面会の名目で、お話があると申しておりました。
私は、応接間で二人をお迎えするのではなく、別の二つの部屋を用意いたしました。リーゼには、温室の側の小さな部屋を。ロベルトには、ご当主の書斎を。
『母上、私はリーゼと共に、母上にお話があって参りました』
息子はそう申しました。
『リーゼには、別の部屋で少し休んでいただきます。あなたとの話は、私と二人で、書斎でいたします』
私は、リーゼのお手をお取りして、温室の側の部屋までお連れしました。リーゼは、最初『え』と、声を漏らしました。それは、お母様の代わりのような大人がいない部屋に一人で連れていかれることへの戸惑いでございました。私はリーゼのお手を放さず、部屋までお連れしてから、ひとつだけ、お声を低くして申し上げました。
『リーゼ、しばらく、お一人でいなさい』
リーゼは、ふいに、何度か瞬きをいたしました。私の声の中に、何かいつもと違うものを聞き取ったのでございましょう。
『あなたのお母様の代わりは、私だと、ずっと思ってまいりました。けれど、今日は違います。あとで、改めて、私からのお話があります』
リーゼには、それだけお伝えして、扉を閉めて参りました。
それから、書斎へ参りました。」
私は、紙の段落のあいだに、ほんの少しだけ、間を置いた。
応接室の卓の上で、紅茶のカップが、家令の手で運ばれてきていた。私はそれに気づかず、お手紙の続きへ進んだ。
「書斎で、息子はソファに座っておりました。お背中は、いつもよりお硬うございました。私は、ご当主の椅子のほうではなく、息子の正面の椅子にお座りしました。
『母上』
『ロベルト』
『ご相談がございます』
『話を伺います』
私は、お話を伺いますとお返事してから、その先、二度と、息子の言葉を遮りませんでした。
息子の話は、要するに、こうでございました。
『婚約解消は、両家のあいだで成立した。クラリスにも、私から改めて、丁寧にお詫び申し上げたい。けれど、リーゼのことは、これから先も、家族同然として、我が家でお迎えしたい。リーゼは、これからご当家のお茶会にもお出になる。子爵家のお嬢様としてではなく、ボーモン家のお嬢様としてでもなく、私の幼なじみとして、家族同然のお席で、ご一緒に』
息子はそう申しました。
『母上、リーゼの席を、これから先、家族同然のお席として、当家でご用意したいのです』」
私は、ここで、お手紙を膝のうえで一度、止めた。
応接室の卓の上の紅茶は、湯気を立てていた。家令は、私の様子を見て、ほんの一拍だけお声をかけようとして、けれど、なさらなかった。
「私は、息子の話を、最後まで伺いました。最後まで、お話を遮りませんでした。それから、息子のほうに、こう申し上げました。
『ロベルト』
『はい、母上』
『お話の中で、ひとつだけ、お伺いします』
『はい』
『家族同然、という言葉を、あなたはこれまで、何度、私の前で口になさいましたか』
息子は、わずかに、お顔色をお変えになりました。
『家族同然、というお言葉を、あなたが、リーゼに対してお使いになったのは、いつが最初でございましたか』
息子は、思い出そうとして、しばらく黙りました。
『母上、それは、私が十五か十六のころでしょうか』
『十二でいらっしゃいました』
『母上』
『リーゼのお母様が亡くなって、ちょうど五年が経った夏のお茶会の席で、あなたは初めて、私に申しました。お母様の代わりにあげるのは難しいけれど、せめて、家族同然で過ごしたい。それから、十年が経ちました』
息子は、何かを言いかけて、やめました。
『あなたが家族同然と申し上げてきたあいだに、ボーモン子爵家のご当主は、リーゼのために、後妻をお迎えしないままでいらっしゃいます。家族同然、と申し上げてくださる方が、お一人、十年ものあいだ、あの家の外にいらしたからでございます』
息子の目元が、わずかに揺れました。
『ボーモン子爵家のご当主と、私は、何度かお話を申し上げたことがございます。あなたを当て込んで、リーゼを「家族同然」の場に置いてくださることは、子爵家のご当主にとっても、長く、難しい席だったはずなのでございますよ』
『母上、私は、子爵家のお気持ちを傷つけるつもりはございませんでした』
『ロベルト。私は、傷つくつもりがなかった、というお話を、伺っているのではございません』
私は、息子のお声を、もう一度、止めました。
『家族同然、という言葉を、あなたが守ってこられたお相手は、リーゼお一人ではございません。リーゼのお母様の、亡き友の私への約束。ボーモン子爵家のご当主のお気持ち。そして、これまでお側にいらしたクラリス様のお時間。あなたの家族同然というお言葉の中には、その三つのお相手のお時間が、全部、含まれておりました』
『母上』
『その三つのお時間の重なりを、あなたは、お一人で、お背負いになっていらしたつもりだったのでしょう。けれど、本当にお背負いになっていらしたのは、クラリス様の三年でございました』」
私は、お手紙の紙の縁に、軽く指を置いた。
紙の角は、まだ、真っ直ぐに切り揃えられていた。
「息子は、しばらく黙っておりました。
私は、続けました。
『家族同然、と申し上げてくる十年で、あなたは、家族同然のお席を当家のお茶会で、何度、ご用意くださいましたか』
『母上、私は……』
『お数えになれないでしょう。私は、あなたの婚約者のお手元の覚書で、はじめてその数を存じました。三十二回でございます』
息子のお口元から、お息が、ひとつ、漏れました。
『三十二回、家族同然のお席を、リーゼのためにご用意くださったのは、あなたではなく、クラリス様でいらっしゃいました。あなたはご自分のお口で家族同然と申し上げていらしたけれど、その家族同然のお席を整えていらしたのは、ご自分ではなく、ご自分の婚約者でいらしたのでございます』
息子は、お顔をお伏せになりました。
『ロベルト』
『はい、母上』
『私は、これからのお当家のお茶会で、リーゼのために、家族同然のお席をお作りすることは、なくいたします』
息子は、何かをお言いかけて、止めました。
『当家のお茶会で、リーゼをお招きすることは、これからもございます。けれど、家族同然の席ではなく、ボーモン子爵家のお嬢様として、子爵家のお嬢様にふさわしいお席を、お作りいたします。お席のご用意は、私自身が、しばらくのあいだ、お預かり申し上げます』
『母上』
『あなたの優先順位を、私はもう、信じられません』
息子は、お手を握ったまま、しばらく、お動きになりませんでした。
私は、お話の最後に、こう、申しました。
『ロベルト、あなたは、家族同然というお言葉を、もう、お使いになりませんように』」
応接室の中は、紅茶の湯気だけが静かに上がっていた。
私は、お手紙を、まだ、膝のうえに広げたままにしていた。
公爵夫人様のお手紙は、ここで、改行をひとつ、置かれていた。
「そして、リーゼのお部屋に参りました。
リーゼは、温室の側の小さな部屋で、お一人で、窓の外をご覧になっていらっしゃいました。
『公爵夫人様』
『リーゼ』
『私、ロベルト様が、母上に何のお話をしていらっしゃるのか、伺っておりません』
『話の中身は、お伝えしません』
『え』
『リーゼ。あなたに、私から、別のお話があります』
『はい』
『あなたが、ご自分の足で、社交界で、ご自分のお席をお選びになる練習を、これから始めなさい』
リーゼは、私の顔を、しばらく、見ていらっしゃいました。
『公爵夫人様、それは、ロベルト様のお側ではなく、ということでございますか』
『そうです』
『私、お一人では、何もできません』
『リーゼ。あなたは、お一人で、何もできないのではございません。お一人で、何もしてこなかっただけでございます』
リーゼは、瞬きをひとつ、なさいました。
『十二の年に、私はあなたを、家族同然の席にお招きしました。あなたがお一人で泣かないように、と思って、お招きしました。けれど、十年が経ちました。あなたは十九でございます。お一人で、ご自分のお席を選ぶ年でいらっしゃいます』
『公爵夫人様』
『私は、あなたのお母様との約束を、これまでお守りしてきました。約束のお守り方は、これから先、形を変えます。あなたが、ご自分の足でお席を選べるようになるまで、私は遠くからお見守りいたします。お席をご用意することは、もう、いたしません』
リーゼは、しばらく、お黙りでいらっしゃいました。
『公爵夫人様』
『はい』
『私、お席をお選びになる、というお話の意味が、よく分かりません』
『はい、それは存じております』
私は、リーゼのお手を、一度だけ、取りました。
『クラリス様が、十年お務めくださっていたお仕事を、あなたはこれから、ご自分の家でなさいませ。子爵家のお嬢様として、ご当主のお茶会のお席を、何席かでもお組みになりなさい。最初は、何度もお間違いになります。けれど、お間違いになることが、お席をお選びになる、ということでございます』
リーゼは、わずかに首を傾げました。
『お姉様、クラリスお姉様が、なさっていらしたのは、お席をお組みになる、ということだったのですか』
『はい』
『私、知りませんでした』
『はい、それは存じております。あなたが、お姉様、と、お呼びになっていらしたのは、お姉様のお仕事の重さを、ご存知でいらしたからではないからでございます』
リーゼの目元が、わずかに、揺れました。
『公爵夫人様、私……』
『リーゼ。今日のお話を、まずは、子爵家のお父様にお伝えなさい。ご当主と、よくお話しなさい。それから、もう一度、私のもとへいらっしゃい』
リーゼは、深く頷きました。
『公爵夫人様』
『はい』
『クラリスお姉様には、私、また、お会いしてもよろしいでしょうか』
私は、リーゼのお手を、もう一度だけ、軽く包みました。
『リーゼ。それは、あなたが、ご自分でお決めになることでございます。私からはお伝えしません。あなたが、お席をお選びになる、というお練習の最初のひとつでございます』
リーゼは、長くお黙りでいらっしゃいました。
そのお黙りのあいだに、私は、リーゼのお部屋の扉のところまで、静かに歩きました。
リーゼが、最後におっしゃいました。
『公爵夫人様』
『はい』
『私、お姉様のお仕事を、ずっと、知りませんでした』
そのお声を、私は、扉を閉めるあいだまで、お聞きいたしました。」
公爵夫人様のお手紙は、ここで、もうひとつだけ、改行を置かれていた。
「クラリス様。
長いお手紙になりました。お読みいただいて、ありがとうございます。
息子と、リーゼとのお話は、これでひとまずの始まりでございます。これから、何度も、お時間がかかることがございます。お当家のお茶会のお席は、これから当面、私の側で組み直しを進めて参ります。先日の侍従頭からのお話のような、お茶会の運営でのご無礼を、これ以上、社交界にお散らかししないように、努めてまいります。
クラリス様。
これからの社交界でのお話が、どうかご当家のお名誉を、これ以上削ることのないように、私のほうで、できる限りのことをいたします。
そして、もうひとつだけ。
クラリス様のお父様から、王宮の侍従長様のお申し出が、近々ご公務として、お当家にお運びいただきますことを、伺いました。
ご公務として、よくよくお返事をお考えになりませんように、と申し上げるのは、僭越でございます。けれど、王宮で、あなた様のお仕事を、本当に高くお見上げになっていらっしゃる方が、いらっしゃいます。そのことだけは、私からは、もう一度、お伝え申し上げたく存じます。
お疲れにならないように。
エレオノール・モンフォール」
私は、お手紙を、最後の行までお読みした。
それから、紙を膝のうえで、ひとつ、たたんだ。
応接室の卓の上の紅茶は、もう、湯気を立てていなかった。
代わりに、卓のもうひとつのお盆の上で、王宮のご公務の封蝋が、私のほうを静かに向いていた。
家令が、応接室の入口のところで、低くお声を入れた。
「お嬢様」
「ありがとう」
「お父様が、書斎でお待ちでいらっしゃいます」
「行きます」
私は、立ち上がる前に、もう一度、公爵夫人様のお手紙の最後の段に、目を落とした。
「お疲れにならないように」
そのおひと言は、お手紙のいちばん最後に、わずかに小さく書かれていた。
公爵夫人様は、お手紙の本文では、お声を一度も荒げていらっしゃらなかった。けれど、お手紙の最後のおひと言だけ、ふだんの公爵夫人様のお筆より、ほんの少し、お字が大きかった。
私は、お手紙を、卓の引き出しの中に、丁寧にお収めした。
それから、王宮の封蝋のお盆を、両手で持って、お父様の書斎へ向かった。
廊下に出たところで、家令が低くお声をかけてくださった。
「お嬢様」
「はい」
「お顔の色が、今朝、お起きになったときより、少し落ち着いていらっしゃいます」
「そうかしら」
「はい」
家令は、それ以上、お声をかけなさらなかった。
書斎の扉の前で、私はもう一度、王宮の封蝋に、軽く指で触れた。
公爵家の側の「家族同然」というお席が、今、ようやく、ひとつ、たたまれた。
これから、ヴァランス家の側で、新しい封蝋を、ひとつ、ほどく。
書斎の扉を、私は、自分のお手で叩いた。
「お父様。クラリスでございます」
「お入り」
お父様のお声は、いつもどおりだった。
けれど、お父様のお声の向こうで、書斎の机の上に、私あての王宮の書状が、すでに、開かれてお置きになっているのが、扉を開く前から、私には分かっていた。
王宮の封蝋は、お父様の手元のものと、私の手元のものと、二通あった。
ご公務として、両家のあいだに、新しい一線が引かれようとしている朝だった。




