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『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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7/22

第七話 公爵家茶会、最初の崩壊

その日、私は茶を一杯飲んだだけで、午後を自分の書斎で過ごした。


朝、家令が私あての書状を運んできたのは、いつもより少し早い刻限だった。


「お嬢様」


「ありがとう」


「公爵夫人様からのものではございません」


家令の口調は、控えめだったけれど、わずかに気を遣う色が含まれていた。


私は書状の封蝋を見た。家紋ではなく、公爵家の侍従頭が個人として使う、ご自分の覚書用の蝋印だった。


差出人は、モンフォール公爵家の侍従頭。


「お嬢様。お差し支えなければ、本日の午後、私のほうから、お一人にてお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか。お預けくださっていた控えの件で、お確かめ申し上げたいことがございます」


そう、書かれていた。


「お預けくださっていた控えの件」と書かれている意味を、私はすぐには思い出せなかった。


二日かけて、ヴァランス家でも書類の整理を進めていた。婚約解消の際に、公爵家へお返ししたものは、家令の手元の覚書にすべて残っている。公爵家へお預けしたまま、と書かれるような書類は、たぶん、私の側にはひとつしか覚えがなかった。


「先日、お父様と書面の話し合いをしたときに、お父様が公爵閣下に、お渡しになった、覚書のひと束だ」と思い至って、私は家令に「お返事を急いで」と伝えた。


家令はすぐに席を立った。


侍従頭は、午後の早い時間に、お一人でヴァランス家にお越しになった。


その日は、朝から雲の重い天気だった。雨こそ降らないけれど、午後の光が薄く、応接室にはろうそくがふたつ、早めに灯されていた。


侍従頭は、白髪のまっすぐな、私と婚約期間中、何度もご挨拶を交わした方だった。お年は六十のお手前か、お後か。背筋がいつでもまっすぐで、声を上げる方ではなく、けれど、お客様の動線をいちばん正確に読む方だった。


「お嬢様」


侍従頭は、応接室の入口で、深く礼をなさった。


「いえ、こちらでお呼びしてしまって、申し訳ございません」


私はお席をお勧めした。


侍従頭は、用意した椅子に、お腰を下ろされた。けれど、お背中はわずかに離して、お休みになる姿勢ではなかった。


家令が、紅茶を運んできた。


「お嬢様」


侍従頭は、紅茶のカップを、お受け取りになる前に、卓の上の書類入れに目を落とされた。


「本日は、お預け申し上げておりました控えのうち、こちらにございますものを、お返し申し上げに参りました」


書類入れの紐をほどく、お手の動きは丁寧だった。けれど、お早いお動きでもあった。


中から出てきたのは、私が書いた、三年分の覚書の一部だった。


先日、公爵家の応接室で、机の上に並べた紙の山のうち、公爵閣下に「これだけ、こちらでも控えとして残しておきたい」と申し上げて、私の側からお預けした分。確か、十数枚あった。


侍従頭は、そのすべてを、書類入れから卓の上に出された。


「お預け申し上げてから、十日ほどでございます。公爵閣下と公爵夫人様が、お目を通された後、私のもとで、お預かりしておりました」


「はい」


「本日、お返し申し上げますが」


侍従頭のお声が、わずかに低くなった。


「一点だけ、お嬢様に、お確かめ申し上げたいことがございます」


「はい」


「先週、公爵家のほうで、初夏のお茶会を開かせていただきました」


「ボーモン子爵様も含めた、定例のお茶会でいらしたと、伺っております」


「左様でございます」


侍従頭は、卓の上の覚書の束から、一枚を選ばれた。


それは、去年の同じお茶会の覚書だった。私の字で、来賓の席順、贈答の格、お招きする家ごとのお茶のお好みなどが、細かく書き残されている。


「このお茶会の準備を、私の手元の覚書だけで、進めようといたしました」


「侍従頭、それは」


「お嬢様の覚書を、お預け申し上げたままで、私の側で書き写すお時間が、頂戴できなかったのでございます」


私は、紅茶のカップに手を伸ばしかけて、止めた。


侍従頭は、ご自分のお手元の卓の上に、別の一枚の紙をお置きになった。


それは、今年の初夏のお茶会の、私の覚書ではない、誰かの字で書かれた席次表だった。


「これは、先週のお茶会の、当日の席次表でございます」


「はい」


「ご覧くださいませ」


侍従頭の指が、紙の上の、いくつかの席をお指しになった。


「中央のお席に、子爵家のお嬢様。その隣に、ロベルト様。さらにその隣に、伯爵家のご夫人。けれど、こちらの伯爵家のご夫人は、本来、子爵家のお嬢様より、序列が上でいらっしゃいます」


侍従頭の指は、もう一度、別の席に動いた。


「こちらの招待客のお席は、ベルナール伯爵家の長女様でございますが、お席の正面が、楽団の真横でございました。お声の届くお席を、ご令嬢方のうちでも序列の若い方にご用意するのが、お茶会の慣例でございますが、ベルナール家の長女様は、御年三十を過ぎていらっしゃいます」


私は、紙の上の席次を、ゆっくりと目で追った。


去年までの、私の覚書と比べる必要は、ほとんどなかった。


席順が、全体的に、序列ではなく、ロベルト様とリーゼ様の親しさを中心にして組み直されている。それは、ロベルト様のお意向を反映なさったものに見えた。


「侍従頭」


「はい」


「お席を組まれたのは」


「ロベルト様と、ボーモン子爵令嬢様が、お二人で、お決めになりました」


侍従頭のお声に、わずかに重さがあった。


「私が、お席を組ませていただきますと申し上げたのですが、ロベルト様は『お茶会の席なので、自分たちで決める』とおっしゃいました。私からは、お席をお組みするうえで、必ずお守りいただきたい序列のことを、何度かお伝え申し上げました」


「お伝えくださっていたのですね」


「お聞き届けは、いただけませんでした」


侍従頭は、卓の上の席次表を、もう一度、私のほうへ少しお寄せになった。


「結果、当日、ベルナール伯爵家の長女様が、お茶会のなかばで、ご体調を理由にお席をお立ちになりました」


「ベルナール様が」


「ご体調は、おそらくは、口実でいらっしゃいます」


私は、ベルナール伯爵家の長女様のお顔を思い出した。先日のベルナール伯爵夫人のお茶会で、私の席のすぐ近くにいらした方だった。


その方のお席が、楽団の真横に置かれた。それは、ご令嬢の社交界における序列のお話で、控えめに申し上げて、相当の失礼だった。


「ベルナール伯爵家からは、その後、お礼状の宛先が、ヴァランス家ではなく、私どもの公爵家への返しのほうが、いつもより半月ほど遅れております」


「侍従頭、それは……」


「お茶会の運営のことで、ご当家の侍従頭が公爵家のお茶会の運営を、ご心配なさっていらっしゃるご様子だ、と」


侍従頭の言葉のあとに、応接室の中は、しばらく静かになった。


私は、紅茶のカップを、ようやく手に取った。


紅茶は、まだ熱かった。


「侍従頭」


「はい」


「贈答のお品の格はいかがでいらっしゃいましたか」


「お話しいたします」


侍従頭は、書類入れから、もう一枚を取り出された。


今年の初夏のお茶会の、贈答記録の控えだった。


来賓の方々への贈答品、ご来場のおりにお持ちいただいたお品、当日お渡しした記念のお花、それぞれの品目と、ご家ごとの整理が、書かれていた。


「子爵家のお嬢様に、当日、お持ち帰りいただいた花束は、ボーモン家の格に対して、ひと等級、上のものでございました」


「ひと等級、上に」


「ロベルト様のお指図で、ご準備くださいませ、と。ボーモン家のお嬢様はご来場が初めてではいらっしゃらないので、毎度の格でよろしゅうございますか、と、私から一度、お伺いを立てたのでございますが」


「お伺いに、何とお返事を」


「『リーゼには、いつもより少し格上のものを用意してあげてほしい。彼女は、最近、夜会のお席で、いろいろなお気苦労をしているから』と」


私は、紅茶のカップを、卓の上に戻した。


軽く、置いたつもりだったけれど、紅茶の表面が、わずかに揺れた。


「侍従頭」


「はい」


「同じ日のお茶会で、ベルナール伯爵家の長女様への贈答品は」


「いつもの格、つまりは、長女様お一人ではなく、ご当家のおもてなしへのお返しとして、伯爵家にふさわしい品をお選び申し上げました」


「贈答記録のうえでも」


「子爵家のお嬢様のお品が、伯爵家のお品より、ひと等級、上に記されてございます」


応接室の中の空気は、ろうそくのほのかな揺れの中で、わずかに重くなっていた。


「公爵夫人様は、お茶会の翌日、贈答記録をご覧になりました」


「公爵夫人様が」


「ご当主様ではなく、奥様が、ご自分の判断で、贈答記録の控えを、私のもとへお持ちくださるように、と」


私は、深く頷くしかなかった。


「公爵夫人様は、贈答記録の最後の頁に、いつものお仕草でお目をお落としになりました。それから、わずかに眉をお寄せになって、私のほうへこうおっしゃいました。『侍従頭、こちらの控えは、当家の書庫ではなく、私の手元に置いておきます』」


「奥様のお手元に」


「私もそれだけは、お聞き申しました」


侍従頭は、卓の上の紙の束を、軽くお揃えになった。


「お嬢様」


「はい」


「私は、本日、ひとつだけ、お詫び申し上げに参りました」


「お詫び、でございますか」


「お預け申し上げておりました覚書を、お返しに上がるのが、もう少し早ければ、私のほうで書き写し、当日のお席をお組みするときに、せめてベルナール家の長女様のお席を、楽団の真横ではないお席にご用意申し上げることができたのではないか、と」


私は、軽く首を振った。


「侍従頭」


「はい」


「それは、侍従頭の責任ではございません」


「いえ」


「お茶会のお席を、当日、最終的にお決めになったのは、ロベルト様と、リーゼ様でいらっしゃいます」


私の声は、思っていたよりも、落ち着いていた。


「侍従頭の覚書だけで、お茶会の運営はおまわしになれない。これは、私が、三年お側にいて、よく存じております。それを、最後の最後で、お分かりにならなかったのは、侍従頭ではなく、ロベルト様でいらっしゃいます」


侍従頭は、わずかにお頭をお下げになった。


そのお頭の下げ方は、お詫びではなく、お深く、お礼に近いものだった。


「お嬢様」


「はい」


「公爵夫人様が、贈答記録の控えをお手元にお置きになるとき、私のほうへ、もうひと言、おっしゃいました」


「はい」


「『侍従頭、クラリス様の控えがあれば、こうはならなかったのでしょうね』」


私は、紅茶のカップに、ふたたび手を伸ばすことができなかった。


ろうそくの炎が、ほんの少しだけ、揺れた。


侍従頭は、ご自分のお手元の紙を、書類入れにお戻しになった。


「公爵夫人様には、本日、お預けの覚書をお返しすることだけを、お伝えしてございます」


「奥様には、お伝えくださっていらっしゃるのですね」


「公爵夫人様のお許しを頂戴したうえで、本日、参っております」


私は、深く息を吐いた。


公爵夫人エレオノール様のお人柄が、また、私の中に、別の角度から見えてきた。


応接室の中で、ろうそくの蝋が、ひと滴、卓の縁に落ちた。


侍従頭は、卓の上のお返しの覚書を、私のほうへ揃えてお置きになった。


「お嬢様」


「はい」


「お預けくださっていた覚書は、こちらの十二枚でございます。お受け取りくださいませ」


「ありがとうございます」


私は、覚書の束を、両手で受け取った。


紙の重みは、私が三年、書き溜めてきた紙の重みと、変わらなかった。


侍従頭は、お席をお立ちになる前に、もう一度、お頭を下げてくださった。


「お嬢様」


「はい」


「公爵家のお茶会は、おそらく、これからしばらく、お客様の数が、少しずつ、お減りなさいます」


「侍従頭」


「あなた様がいらっしゃらない夜会、茶会、観劇の席を、私はこれから先、何度もご経験申し上げることになります。それは、私の三年の、痛みでもございます」


私は、覚書の束を、軽く抱え直した。


「侍従頭」


「はい」


「お疲れにならないでくださいませ」


私の声は、声帯のうえで、わずかに揺れた。


「お疲れになりませんように、と、お伝え申し上げるのが、本当はずっと前から、私の役目だったように、思うのでございます」


侍従頭は、初めて、わずかに、お目を伏せられた。


それから、もう一度だけ、深くお辞儀をなさって、応接室をお出になった。


家令が、玄関までお見送りに出た。


応接室の中に、私だけが残った。


卓の上には、ろうそくが二本、まだ揺れていた。


ろうそくの炎の、わずかな揺れの中で、私は、覚書の束に、両手をのせていた。


紙の表紙の角は、すこしだけ折れていた。たぶん、公爵家でお預かりいただいているあいだに、誰かが何度かお手にお取りになったのだろう。


公爵夫人様が、ご自分のお手元にお置きになった、と侍従頭はおっしゃっていた。


紙の角の折れ方は、私が公爵家でお預けしたときの折れ方より、少しだけ、優しくなっていた。


私は、応接室をひとり、出た。


廊下に出たところで、玄関先で家令が、何か新しい書状を受け取っているところを見た。


「お嬢様」


「いま、また何か届いたの」


「はい。王宮の侍従長様からのお預けでございます」


家令は、その書状の封蝋を、私のほうへお見せした。


王宮の家紋、王太子殿下のご署名のあるご公務の封蝋だった。


「公爵家からの侍従頭様の馬車と、ほぼ同じ刻限に、王宮のお使いの方が、別の馬車で、お運びくださいました」


私は、覚書の束を片腕に抱えたまま、その書状を受け取った。


封蝋を割る前に、ふと、廊下の窓の外を見た。


雲の重い空が、ようやく薄く割れて、午後の光が、ヴァランス家のお庭の隅に、わずかに落ちていた。


公爵家からのお返しと、王宮からのお預け。


同じ刻限に、私の側に、別々の道から届いた書状を、私は両手のいっぱいで持っていた。


侍従頭のおっしゃっていた「公爵家のお茶会は、お客様の数が、少しずつ、お減りなさいます」というお言葉は、まだ、社交界の表ではなかった。けれど、社交界の表よりも、ずっと先のところで、公爵夫人様も、王宮も、もう動き始めていた。


私は、書斎へ歩きながら、王宮の封蝋に、軽く指で触れた。


封蝋の角は、王宮の判子で押された、まっすぐなお形をしていた。


廊下の終わりで、家令が低く頭を下げた。


「お嬢様」


「ありがとう」


「お父様、奥様には、私から、お茶のお時間にお伝え申し上げてもよろしゅうございますか」


「ええ。お願い」


私は、書斎の扉を開いた。


机の上に、覚書の束を、軽く置いた。


その隣に、王宮の書状を、お並べした。


公爵家の側から戻ってきた、私の三年。


王宮の側から、これから始まろうとしている、別の何か。


私は、書斎の窓の外、午後の薄い光のほうに、しばらく目を向けていた。


家のお茶のお時間が来ても、私は、紅茶を一杯だけお願いして、書斎を動かなかった。


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