第六話 リーゼの無邪気な勝利宣言
噂は、私が思うよりも静かに、そして正確に広がっていた。
王宮夜会から一週間ほどが経った朝、私は朝食室で母と向かい合っていた。
朝食室の窓際には、母が手ずから移し替えたばかりの紫の小花が、薄硝子の鉢に活けられていた。今年の春のいちばん最初に咲いた花で、母が「今年は色がいつもより濃いのよ」とおっしゃっていたものだった。
「クラリス」
母は、紅茶のカップを置いてから、私のほうへ視線を向けられた。
「今日のお茶会のことだけれど」
「はい」
「行かなくてもいいのよ」
母の声は、いつもと変わらないお声だった。けれど、私を気づかってのお言葉だということは、すぐに分かった。
今日、私はベルナール伯爵夫人のお茶会にお呼ばれしていた。
ベルナール伯爵夫人は、ヴァランス家とも、モンフォール家とも、長くお付き合いのある家のご当主夫人だった。社交界では、ローズリー伯爵夫人ほど中心にいらっしゃるわけではないけれど、お招きの席はいつも品がよく、お招きされた令嬢たちが落ち着いて過ごせる場として、評判のお茶会だった。
招待状は、婚約解消の書面が交わされる前に、私あてに届いていた。お母様も招待されていたけれど、今朝になって、お母様は急なご体調を理由に、欠席を伝えていた。
「お母様」
「あなた一人で行かせるのは、心配なのよ」
「いいえ、お母様」
私は、紅茶のカップを置いた。
「私は、社交界から逃げて婚約を降りたのではございません。私自身の判断で、婚約者を降りました。それは、社交界から離れるためではございません」
「クラリス」
「ベルナール伯爵夫人のお茶会は、私にとって、初めての試金石でございます。ご招待を、私から取り下げていただくのは、礼を欠きます」
母は、しばらく私の顔を見ていらした。
それから、わずかに微笑まれた。
「お父様に、よく似てきたわね」
「お父様にでございますか」
「ええ。あの方も、人前で判断を曲げない方なのよ」
母は紅茶のカップを取り直して、もうひと口召し上がった。
「ただ」
「はい」
「ベルナール伯爵夫人のお茶会には、ロベルト様もお招きされているのよ」
「はい、私もそのお話は伺っております」
「私が今朝、家令から伺ったところでは、ご当主様も、奥様も、お招きの面々を、急に組み替えていらっしゃるそうよ」
「組み替え、でございますか」
「ええ。週半ばに、ロベルト様の側からの追加のお返事があって、お席を増やすことになった、と」
私は、紅茶のカップに伸ばしかけた手を、止めた。
ロベルト様のお茶会への出席のお返事は、もとから決まっていた。追加のお返事、というのは、ご同伴の方の出席を、ロベルト様が改めてお知らせされた、ということだった。
「リーゼ様、でいらっしゃいますね」
「家令はそうおっしゃっていたわ」
母は、紅茶のカップを、わずかに眉を寄せて見つめられた。
「ベルナール伯爵夫人のお茶会は、ボーモン子爵家とは、それほどお親しくないはずなのだけれど」
「公爵令息のご同伴、というかたちでお席を取ってこられたのでしょう」
「公爵令息と、ご婚約者ではないお嬢様」
母のお口元から、わずかに、ため息がこぼれた。
「あの方も、まだ、お変わりにならないのね」
私は、紅茶のカップを、もう一度手に取った。
「お母様」
「はい」
「私、行ってまいります」
「クラリス」
「ベルナール伯爵夫人のお茶会で、私の立場が、社交界の側でどうご覧になるか。私自身、確かめておきたく存じます」
母は、何かを言いかけて、やめられた。
それから、ゆっくりと頷かれた。
「家令に、馬車の手配をさせるわ」
「ありがとうございます」
ベルナール伯爵邸の馬車寄せに着いたのは、お茶会の始まる少し前だった。
私は、淡い水色のドレスを選んでいた。夜会ほどの格はなく、けれど、お茶会には十分な、落ち着いた一着だった。襟元の縫いは、いつも母が世話を頼んでいる仕立屋の手によるもの。
馬車寄せの石畳のうえに降り立ったとき、ご案内の侍女が深く礼をして、私を出迎えてくれた。
「ヴァランス侯爵令嬢、お越しくださり、ありがとうございます」
その挨拶に、わずかな間があった。
ふだんの挨拶よりも、半拍だけ、視線をこちらの様子に向けていた。たぶん、社交界での話を、ご当家の侍女もすでに聞いている。けれど、それを表に出さない訓練を、よく受けていらした。
私は、深くお返しした。
「お招きにあずかり、ありがとうございます」
ご案内の侍女が、私を奥のお庭へと導いた。
ベルナール伯爵家のお庭は、白い薔薇のアーチが、ちょうど見頃を迎えていた。アーチの下に、白布をかけた円卓がいくつか、丁寧に並べられている。お茶会のお席は、すでにほとんどのお招きの方が揃っていらした。
入口でひと呼吸を整えた私は、お庭へ足を踏み入れた。
「クラリスさま」
すぐにお声をかけてくださったのは、ベルナール伯爵夫人ご自身だった。
御年五十をいくつか過ぎていらっしゃるはずのご夫人は、若い頃のお美しさを、今も別の形で残していらした。お声は、落ち着いて、穏やかだった。
「お越しくださって、本当に嬉しく存じます」
「お招きにあずかり、誠にありがとうございます」
「お父様、お母様にも、よろしくお伝えくださいね」
ベルナール伯爵夫人は、わずかに私の腕に手を添えて、お席のほうへ導いてくださった。
その動きは、よく考えられていた。
私の席は、お庭の中央の円卓ではなく、薔薇のアーチに近い、少し離れた円卓だった。ご一緒するお席は、私と顔見知りの令嬢ふたりと、ベルナール家の長女の方。中央の円卓からは、目礼を交わせる距離にあるけれど、お席そのものは別になっている。
中央の円卓のほうには、ローズリー伯爵夫人と、もう二、三名の年配のご夫人が着いていらした。
そして、その隣の円卓に、ロベルト様とリーゼ様がいらした。
ロベルト様は、私が入ってきたのに気づいて、わずかに視線を上げた。
短く、目礼を交わした。
私もお返しした。
それだけの距離が、今日の私とロベルト様のあいだに、社交界が用意した距離だった。
私は、お席についた。
ご一緒の令嬢たちは、ヴァランス家とお親しい家のお嬢様方だった。挨拶を交わしたあと、お互いに当たり障りのないお話から始めた。
お茶会の進行は、お庭の白い薔薇のアーチを話題にしたところから、ベルナール伯爵家のお庭師のお話、最近お読みになった詩集、と、ゆっくり進んでいった。
そのうちに、私の耳に、隣の円卓のお声が、はっきりと届いた。
「ロベルト様」
リーゼ様のお声だった。
「やっと、私が、ロベルト様の隣に座れます」
リーゼ様のお声は、抑えていらっしゃるおつもりだったのかもしれない。けれど、お庭の中央でお茶会の音が一旦切れた、その瞬間に、響いてしまった。
お席の周りの空気が、ほんの一拍だけ、止まった。
ローズリー伯爵夫人の円卓で、扇のひとつが、静かに開かれた音がした。
私は、紅茶のカップに目を落とした。
ご一緒の令嬢たちは、お互いに目配せをして、何事もなかったかのように、薔薇のアーチのお話を続けようとした。
「あの薔薇は、お庭師の方が」
「ええ、本当に、毎年見事に」
けれど、そのお声は、わずかにぎこちなかった。
中央のローズリー伯爵夫人の円卓では、年配のご夫人方の扇が、お一人、お二人と、静かに開かれていった。
ベルナール伯爵夫人は、お庭の入口のほうから、ゆっくりと、お席のあいだを歩いていらした。お茶のおかわりをお勧めなさるためのお歩きだったけれど、その足は、ロベルト様とリーゼ様の円卓のところで、わずかに止まった。
「ボーモン子爵令嬢」
ベルナール伯爵夫人は、リーゼ様のほうへ、お声を低くお向けになった。
「お茶のおかわりは、いかがでございますか」
「あ、いえ、まだ大丈夫ですわ」
「左様でございますか」
ベルナール伯爵夫人は、リーゼ様の円卓から、一歩、お引きになった。
それから、お庭の中央のローズリー伯爵夫人の円卓のほうへ、お歩みを進められた。
ローズリー伯爵夫人は、扇を半分ほど閉じて、ベルナール伯爵夫人のお越しを迎えた。
「ベルナール様」
「ローズリー様、お紅茶は、もう一杯」
「ありがとう存じます。けれど、私から、ひとつだけ」
ローズリー伯爵夫人は、扇の端を、わずかに口元に近づけられた。お声を、お庭の中央のお席のあいだだけに、お留めなさる仕草だった。
けれど、その声は、私の席のほうへも、はっきりと届いた。
「子爵令嬢が、公爵令息の隣席に居続ける作法を、今度、お茶の席で、丁寧にお教え差し上げる必要がございますわね」
ローズリー伯爵夫人のお声は、低かった。
抑えていらしたお声で、けれど、お庭の中央のあたりにいらした方々のお耳には、確かに届いていた。
ローズリー伯爵夫人は、お声を上げて何かをおっしゃる方ではなかった。社交界で長く中心にいらした方が、こうして抑えたお声でひと言だけお口にされる――それが、社交界では、いちばん重い種類のお言葉だった。
ロベルト様の円卓のほうで、リーゼ様の頬が、わずかに赤くなった。
ロベルト様は、リーゼ様の隣で、紅茶のカップを音もなく置いた。それから、ご自分のお席のままで、視線を、お庭の中央のほうへ向けた。
ローズリー伯爵夫人は、もう、こちらをご覧にはならなかった。
ベルナール伯爵夫人は、薄く微笑んで、ローズリー伯爵夫人の円卓から、ゆっくりとお引きになった。
お庭の白い薔薇のアーチの下で、お茶会の音が、また元の調子に戻った。
ご一緒の令嬢たちは、もう、薔薇のアーチのお話を続けなかった。代わりに、先週のヴァランス家の御者のお話、ヴァランス家の母のお庭の手入れのお話、と、いつのまにか、私のお家のお話を、丁寧に持ち上げてくださっていた。
私は、紅茶のカップに、もう一度、唇を寄せた。
紅茶は、お茶会の前半で淹れていただいたものだった。けれど、まだ、お茶のあたたかさが、ほんの少しだけ残っていた。
お茶会の後半になって、ご一緒の令嬢のひとりが、低くお声をかけてくださった。
「クラリス様」
「はい」
「お疲れになっていらっしゃらないかしら」
「ありがとうございます。けれど、大丈夫でございます」
「クラリス様のお席にお座りできて、私たち、本当に嬉しゅうございます」
そのお言葉は、たぶん、薔薇のアーチの話題よりも、ずっと自然なお言葉として、私の中に届いた。
お茶会の終わり、ベルナール伯爵夫人が、お席のあいだをお歩きになりながら、お見送りのお声をかけていらした。
私の席にお越しになったとき、ベルナール伯爵夫人は、わずかに腰を低くなさって、私の手元の近くに、顔を寄せられた。
「クラリスさま」
「はい」
「今宵は、お疲れさまでございました」
「お招き、ありがとうございました」
「私から、ひとつだけ」
ベルナール伯爵夫人は、扇を片手で軽くお開けになりながら、低くお続けになった。
「ローズリー様が、今宵のおもてなしのあとで、王宮の侍従長のもとへ、ひとつご連絡なさるそうでございますわ」
「ローズリー様が、ご連絡を、でございますか」
「ええ。あなた様のお仕事のことで、もう少し、正式にお頼みしたい、と」
私は、ベルナール伯爵夫人のお顔を、見上げた。
ベルナール伯爵夫人は、わずかに微笑まれた。
「お返事は、近々、王宮からあなた様のお手元に、直接いらっしゃいますわ」
「ベルナール様」
「ヴァランス家のお父様、お母様にも、よろしくね」
ベルナール伯爵夫人は、もう一度深くお辞儀をなさって、次のお席のほうへ、お歩きになった。
私は、馬車寄せまでお見送りいただきながら、お庭の中央の円卓のほうを、一度だけ振り返った。
ロベルト様とリーゼ様の円卓は、いつのまにか、半分ほど空いていた。何人かのお客様が、お早めにお席を離れていらしたようだった。
ロベルト様は、リーゼ様の隣に、お一人で座っていらした。リーゼ様は、ロベルト様の上着の袖の端を、軽く指で抓んでいらした。
ロベルト様は、私の視線に気づかれて、ふと、こちらのほうへお顔を向けた。
私はもう一度だけ、目礼を返した。
それ以上のことはなかった。
馬車寄せで、私は侍女の手を借りて、馬車に乗った。
馬車の扉が閉まる前に、ベルナール伯爵夫人が、もう一度、私のほうへお声をかけてくださった。
「クラリスさま」
「はい」
「お元気でね」
短いお言葉だった。
その短さは、今日のお茶会の中で、私の聞いたどのお言葉よりも、いちばん深く、私の中に届いた。
馬車が、ベルナール伯爵邸の門を出た。
窓の外で、白い薔薇のアーチが、わずかに遠ざかっていく。
「やっと、私が、ロベルト様の隣に座れます」
リーゼ様のお声を、私は、もう一度だけ、頭の中で繰り返した。
リーゼ様は、本当に、嬉しそうにおっしゃっていた。
ご自分のおっしゃったことが、お庭の中央のご夫人方の扇を、何本も同時に開かせる種類の言葉だ、ということを、たぶん、ご存知ではなかった。
その無邪気さは、これまで、ロベルト様の優しさで、ずっと守られてきたものだった。
今日、初めて、社交界の側が、その無邪気さを、扇の角度ひとつで返した。
私は、馬車の窓の外を見ながら、ふと、王宮の控えの間の卓の上を思い出した。
「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ。L.G.」
殿下のお手紙の控え。
殿下の側でも、私は、見ていてくださった。
社交界の中心にいらしたローズリー伯爵夫人の側でも、私は、見ていてくださった。
そして、ベルナール伯爵夫人のような、社交界の品格をお守りになる方の側でも、私は、見ていてくださった。
三年間、ロベルト様のお側で、たぶん、何人もの方が、私の三十二回を、扇の角度で数えてくださっていた。
私は、馬車の窓の硝子に、軽く額をつけた。
冷たい硝子の感触が、ようやく、目の奥のほうの熱を、少し下げてくれた。
馬車は、王都の道を、ゆっくりとヴァランス家のほうへ戻っていった。
家に着いたとき、家令がお迎えに出てきて、低く頭を下げた。
「お嬢様」
「ありがとう」
「お母様が、お庭にいらっしゃいます」
「お庭に」
「先ほど、紫の小花の鉢を、もうひとつ、温室から運び出すようにとのことで」
私は、ドレスの裾を持ち上げて、お庭のほうへ歩いた。
お庭の真ん中で、母は、薄硝子の鉢を、お手ずから日の当たる場所に動かしていらした。
「お母様」
「お帰りなさい、クラリス」
「ベルナール様のお茶会、行ってまいりました」
「お疲れさま」
母は、薄硝子の鉢の縁を、軽く撫でられた。それから、私のほうを振り返って、わずかに微笑まれた。
「お顔を見れば、分かりますよ」
母は、それ以上、何もお訊きにならなかった。
私は、お庭の真ん中で、母の隣に立った。
紫の小花は、お庭の日の当たる場所で、また少しだけ、色を濃くしているように見えた。




