第五話 婚約解消が受理されました
婚約解消の書面に押された封蝋は、思ったよりも軽い音で割れた。
その朝、ヴァランス家の書斎で、書面の最後の確認をしているところだった。
両家のあいだを行き来していた書面は、ようやく最終稿として、お父様の手元に届いていた。
公爵家側の署名はすでに済んでいた。残るのは、こちら側、ヴァランス家当主としてのお父様の署名と封蝋だけ。家令が、署名のための羽根ペンと、ヴァランス家の家紋の判子を、卓上に整えていた。
「クラリス」
お父様は、書面に目を通しながら、私を呼ばれた。
「はい」
「お前も、もう一度、読んでおきなさい」
私はお父様の隣に立ち、書面を上から読んでいった。
「両家の合意に基づき、本日をもって、モンフォール公爵家嫡男ロベルト・モンフォール殿と、ヴァランス侯爵家令嬢クラリス・ヴァランス嬢の婚約は、円満に解消される」
「円満に、と書かれてございますね」
「ああ。公爵家側の文面案だ。私はそのままにした」
「お父様、よろしいのですか」
「お互いの家の名誉を、これ以上削る理由はない。社交界での扱いは、これから自然に決まる」
お父様は、書面の最後の頁に、ご自分の名を書かれた。
それから、封蝋の蝋をろうそくの火で温め、家紋の判子をひと息で押された。
蝋が固まる前に、ぽきり、と音がした。
封蝋が、軽く割れた。
軽く、というのは、私の感覚だった。三年のあいだ、両家の取り交わしの書面に押されてきた、もっと重たい封蝋の音を、私は知っていた。今朝の封蝋は、それより、明らかに軽かった。
「これで、両家の合意は成立した」
お父様は、書面を家令に渡された。
「本日中に、公爵家へ正本をお届けする。控えは、ヴァランス家の書庫に納める」
「承知いたしました」
家令は深く礼をして、書面を持って書斎を出ていった。
その背中を見送ったあと、お父様は、卓の上で、もうひとつの書状をお開きになった。
「クラリス」
「はい」
「お前あての招待状が、王宮から届いている」
「王宮、でございますか」
「春季夜会だ。今宵、王宮で開かれる。お前は来賓としての招待を受けている」
私は、軽く息を吸い込んだ。
王宮の春季夜会は、毎年、貴族の家に招待状が回ってくる催しだった。これまでも、ヴァランス家の令嬢として、私は何度か出席している。けれど、今回の招待状の宛名を見て、私はすぐに気づいた。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス殿」
招待状には、私の名前だけが書かれていた。ロベルト様の婚約者として、ではなかった。
「お前あてに、お前一人として、来賓の招待が来た」
「お父様、それは、本日の婚約解消と、お話を合わせて出されたものでしょうか」
「だろうな」
お父様は、招待状を私に渡しながら、軽く頷かれた。
「王宮の手回しは、王太子殿下のご差配だろう。お前の名を、今日この日に、来賓の側で確かに残しておく――そういう、ご配慮だと、私は受け取った」
「お父様」
「王宮夜会の手伝いを、お前はこれまで何度も務めてきた。けれど、お前自身の名で招待を受けるのは、初めてだ。今宵は、ヴァランス家の令嬢として、堂々と参じなさい」
私は、招待状を両手で受け取った。
紙の角は、寸分の狂いもなく、四辺がきっちりと揃えられている。王宮の正式な招待状の形だった。
夕刻、王宮へ向かう馬車の中で、私は窓の外を見ていた。
ドレスは、深い藍色の落ち着いた一着を選んだ。社交界での目を引きすぎず、けれど、ヴァランス家の令嬢として恥ずかしくない格のもの。母が、出かける前に、襟元の縫い直しを侍女にひと言だけ命じてくれた。
「クラリス、今宵はいつもの夜会と違うのよ」
そうおっしゃってから、母はもう何も言わなかった。
王宮の馬車寄せに着くと、案内係が深く頭を下げて、私を迎えてくれた。
「ヴァランス侯爵令嬢、お越しくださり、ありがとうございます」
その案内係の言葉に、ロベルト様のお名前は、もうついていなかった。
私は、ひとつ、肩の力を抜いた。
控えの間に通された。
王宮の控えの間は、貴族の方々が広間へ入る前に、身なりを整えたり、上着を預けたりするための部屋だった。今夜の控えの間は、ふだんよりも整理が行き届いていた。来賓を席に案内するための席次表の控えが、入口近くの卓に置かれている。それは、私がこれまで何度か整えてきた、王宮夜会の席次表だった。
控えの卓に近づこうとして、私はふと、手を止めた。
私はもう、王宮夜会の運営を頼まれてきた立場ではない。今宵の私は、来賓のひとりだった。控えの席次表を、勝手に確認するのは、立場として違う。
私は、控えの卓から、半歩引いた。
「ヴァランス侯爵令嬢」
そのとき、低い男のお声が、私の背後でした。
振り返ると、王宮の侍従ではなかった。
濃灰の上着を着た背の高い男性が、控えの間の入口に立っていらした。襟元の小さな飾り徽章は、王家の紋。腰の剣帯にも、王家の意匠が小さく刻まれている。
王族の方だった。
私はすぐに膝を折って、深く礼をした。
「殿下」
「お顔をお上げください」
声を低く、けれど、急がせる調子のないお声だった。
私は顔を上げた。
第二王子ライナス殿下、でいらっしゃった。
殿下のお姿は、これまで王宮夜会の手伝いに出向くたび、広間の中央でお見かけしていた。けれど、こうしてまっすぐにお声を頂戴するのは、私は今宵が初めてだった。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス殿、で、お間違いはございませんね」
「はい、殿下」
「お招き申し上げました。本日のご来賓を、心より歓迎いたします」
「お招きにあずかり、誠に光栄に存じます」
殿下は、控えの間の中ほどへ、ゆっくりと進まれた。
侍従が殿下のお手にあった小さな書類入れを受け取り、卓の上に置いた。
「クラリス嬢」
殿下は、書類入れの紐をほどきながら、私のお名前を、別の呼び方でお呼びになった。
ヴァランス侯爵令嬢、ではなく、クラリス嬢、と。
私は、その呼ばれ方の違いに、わずかに身を硬くした。
「先ほど、両家の合意書面が、王宮の事務方にも届いて参りました」
「おはようございます」
「公爵家から、私的に王宮へお預けくださったものです。両家のご都合で、今日のうちに、こちらでも内々に通知をお受けするように、と」
「お心遣い、痛み入ります」
「お疲れでいらっしゃいましょう」
そのお言葉に、私はわずかに目を瞬かせた。
殿下は、書類入れから一枚の紙を取り出して、卓の上にお置きになった。
それは、私には見覚えのある紙だった。
二年前の春の、王宮夜会の控えだった。
中央の席次の配置案。それから、その配置案を、当日の急な席替えで、私が一晩で整え直したときの覚書。
紙の余白には、男性の筆跡で、短く、こう書かれていた。
「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ。L.G.」
私は、紙の上のその一行を、ゆっくりと読んだ。
L.G.
ライナス・グレオール。
殿下のお名のご署名が、その紙には、はっきりと残されていた。
「クラリス嬢」
殿下は、卓越しに、私のほうへ視線をお向けになった。
「お気づきでしたか」
「申し訳ございません。私は、王宮の事務方の慣例のひとつかと、長く思っておりました」
「いいえ。これは、私が一筆ずつ、お返ししていたものでございます」
殿下のお声は、低く、けれど、誇示する色は一切なかった。むしろ、お申し訳ないと思っていらっしゃるような、抑えたお声だった。
「あなたがヴァランス家を通じて、王宮夜会のお手伝いに来てくださるようになってから、二年以上が経ちます。私は、王宮夜会の席次表が、ある時期から、急に整えやすくなったことに気づきました。来賓の動線が、わずかな違いで、混まなくなった。贈答の取り違えが、ぴたりと止まった。当日の急な席替えへの対応が、誰の手によるものか、最初の年は、私は知らずにおりました」
殿下は、その紙のうえに、もう一枚を重ねて置かれた。
別の年の、王宮夜会の控えだった。
そちらにも、同じ筆跡の、短いお礼の覚書が残されていた。
「二年前の春の夜会で、ようやく、私は、王宮の事務方から、お名前を伺いました。ヴァランス家のご令嬢が、ヴァランス侯爵閣下のお声がかりで、こうして整えてくださっている、と。それ以降、控えに残されているお仕事に、私から、一筆ずつお返ししておりました」
「殿下」
「私の礼は、王宮の正式な礼状にはなり得ません。あなたは、王宮の事務方として雇われていたわけではないからです。ですから、控えに残るかたちで、せめてひと言だけ返しておりました」
殿下は、卓の上の紙を、私のほうへ少しお寄せになった。
「これらは、王宮の控えの原本でございます。本日、お席に着かれる前に、ぜひ、お持ちいただきたく存じます」
「殿下、私には」
「あなたのお仕事です」
殿下のお言葉は、短かった。
「あなたの三年が、王宮夜会の二年以上を、確かに変えてくださいました。それを、私は、ずっと拝見しておりました」
私は、卓の上の紙を、両手で受け取った。
紙の感触は、つい先ほどまで私が触っていた婚約解消の書面とは違って、すこし古い、王宮の控え用の厚みのある紙だった。
殿下は、卓の脇に控えていた侍従に、目で合図をされた。侍従が、銀の盆に紅茶のカップをひとつだけ載せて、卓の隅にそっと置いた。
「お疲れでいらっしゃいましょう。お席にお戻りになる前に、ひと息、入れてください」
「お気遣い、ありがとうございます」
殿下は、その紅茶のカップに、ご自分のお手でお触りにならなかった。
ただ、私のほうに、軽く頷かれた。
「クラリス嬢」
「はい」
「私から、もうひとつだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「今宵の席次表を、お席に着かれる前に、お目通しいただいてもよろしいでしょうか」
私は、その短いお言葉の中の、いくつもの含みに、わずかに息を呑んだ。
王宮夜会の席次表を、来賓のひとりが事前に確認することは、本来はない。
けれど、殿下のおっしゃっているのは、私が今宵、来賓の側に座る、そのお席を、私自身が一度ご覧になっていただきたい、ということだった。
「拝見いたします」
殿下は、ご自分のお手で、控えの卓から、今宵の席次表を取られた。
私のほうへ、お渡しになった。
私は、卓のほうへ少し身を寄せて、紙を開いた。
中央付近に、私の名札の位置があった。
それは、これまで私が王宮夜会の手伝いで作っていたとき、来賓のための席のいちばん落ち着く列だった。広間の入口から最も遠く、楽団の音が直接当たらず、けれど、お招きする側からの目礼の動線にはきちんと入る位置。
私が、この三年で、王宮夜会のお客様のために、いちばん丁寧に整えてきた席。
その席に、私の名前が、置かれていた。
「殿下」
「お席は、お気に召しましたでしょうか」
「殿下、これは……」
「私が、侍従長と相談して、お選びいたしました」
殿下のお声は、いつもどおり、低く落ち着いていた。
「来賓配慮として、王宮の慣例の範囲を、外しておりません」
「ありがとうございます」
私は、その紙を、お返しした。
殿下は、紙を受け取られたあと、わずかに微笑まれた。それは、お式の場で見せるための微笑みではなく、お疲れのお仕事を終えたあとの、ほんの少しだけ素のお顔だった。
「クラリス嬢」
「はい」
「あなたが王宮で整えていてくださった仕事を、私は、ずっと見ておりました」
殿下は、それだけおっしゃった。
それ以上、お言葉を続けられなかった。
控えの間の入口で、侍従が小さく咳払いをした。広間のほうで、楽団の音合わせが始まる時刻だった。
殿下は、軽く頷いて、書類入れを侍従に渡された。
「では、お席で、お会いいたしましょう」
「殿下」
殿下は、控えの間の入口で立ち止まられて、もう一度だけ振り返られた。
「クラリス嬢」
「はい」
「お疲れの夜が、今宵で終わりますように」
短いお言葉を残されて、殿下は控えの間をお出になった。
控えの間の中に、私と、侍女と、卓の上の紅茶のカップだけが残った。
紅茶のカップから、まだ湯気が立っていた。
私は、紅茶のカップに、すぐに手を伸ばすことができなかった。
卓の上には、殿下から頂戴した、二年前の春の王宮夜会の控えが、まだ残っていた。
「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ。L.G.」
L.G.
ライナス・グレオール。
私は今朝、書斎の戸棚から、その紙を見て、これは王宮の事務方の慣例だと思っていた。
違った。
殿下が、ご自分のお手で、私の仕事に、一筆ずつ、ずっと、お返しくださっていた。
二年以上、ずっと、だった。
私は、卓の上の紙の角を、軽く整えた。
それから、紅茶のカップを、ようやく手に取った。
湯気が、私の頬のあたりまで上ってきた。
紅茶は、まだ熱かった。
殿下が控えの間をお出になってから、おそらくほんの一分も経っていなかった。
私はそのとき、ようやく気づいた。
殿下は、王宮の正式な礼状ではない形で、二年以上、私の仕事に、お返事をくださっていた。
そして、今宵、王宮夜会の控えの間で、ご自分のお口で、初めて、お礼をくださった。
それは、おそらく、王宮の事務方の慣例には、もはや含まれていないことだった。
紅茶のカップの縁に、私はそっと唇を寄せた。
熱かった。
その熱さが、なぜか、目の奥のほうに、ゆっくりと届いた。
控えの間の外で、楽団の音合わせが始まった。低い弦の音が、王宮の床を伝って、私の踵にも届いた。
夜会の始まる、ちょうどその合図だった。
私は紅茶のカップを置いて、卓の上の紙を、丁寧に揃え直した。
王宮夜会の控えの紙は、侍女に頼んで、今宵お預けの上着と一緒に、家へ持ち帰る手はずにした。
席次表は、殿下のおっしゃったとおり、来賓配慮の範囲で、私のために整えられていた。
私はその席へ、これから歩いていく。
控えの間の扉を出る前に、私はもう一度だけ、卓の上の、空にはなっていない紅茶のカップを、振り返った。
殿下が控えの間を出られたとき、湯気がまだ残っていた紅茶。
その湯気は、まだ消えていなかった。




