第四話 公爵夫人は、もう気づいていらした
温室の硝子越しに、公爵夫人様の白い帽子の縁が光っていた。
公爵邸からお戻りになって二日のあいだ、私はずっと書斎にこもっていた。
書面の手続きが進むあいだに、こちらでも整えておくべき書類が、思いのほか多かった。婚約成立の際に交わした覚書、両家のあいだで動いていた贈答の年次の確認、私が公爵家で預かっていた覚書のうち、お返しすべきものと、こちらに残してよいもの。それらを家令と一つずつ分けていく作業に、丸二日かかった。
そのあいだに、公爵夫人エレオノール様から、私あての書状が届いた。
便箋は、いつもどおりだった。
私がこの三年で何度も拝見した、公爵家の白い便箋。紙の縁が、四辺ともきれいに真っ直ぐに切り揃えられていて、わずかに薔薇水の香りが残るような、あの便箋だった。
「クラリス様。お疲れのところを恐縮ですが、私から、一度、お話を伺いたく存じます。場所は、ヴァランス家のお邸であれば幸いです。日付は、ご都合のよろしい日でかまいません」
そう、書かれていた。
公爵家の温室ではなく、ヴァランス家の側で、と書かれた一文を、私はもう一度読み直した。
公爵夫人エレオノール様が、ご自分でお出向きくださる、ということだった。
これまで、私のほうから公爵家へ伺うのが当然だった三年のあいだに、こういう書状を頂戴するのは、初めてのことだった。
私はその日のうちにお返事の便箋を書き、三日後の午後、ヴァランス家の温室でお迎えする旨をお返しした。
そして、当日。
ヴァランス家の温室は、本邸の北側にある小ぶりな建物だった。母が薔薇の鉢を並べるために使われている場所で、夏のあいだは家族でお茶をいただくこともあったけれど、客人をお招きするには、少しばかり質素すぎる場所だった。
それでも、私はあえてここをお選びした。
公爵家の応接室で、革張りのソファに腰を下ろしてお話しする、というかたちでは、お互いに少し疲れる気がしたのだ。
公爵夫人様は、午後のお時間ぴったりにいらした。
馬車寄せから温室へ向かう石畳の上で、公爵夫人様は白い帽子の縁を片手で押さえながら、ゆっくりと歩いてこられた。供は侍女おひとりだけだった。馬車も、公爵家の家紋つきではなく、無紋のものを使ってこられたと、御者から後で聞いた。
「お越しくださり、ありがとうございます」
私は温室の入口で、深く礼をした。
「クラリス様」
公爵夫人様は、私の名を呼んでくださってから、白い帽子を、ご自分の手で外された。
「こんな日を、本当に申し訳なく思っております」
「公爵夫人様」
「いいえ。先に、私から、お伝えすべきことがございます」
公爵夫人様は、温室の中央に置かれた小卓のほうへ目を向けられた。母の薔薇の鉢が、卓の脇に三つ並んでいる。そのうちのひとつには、季節を外した小さな蕾が、ひとつだけ残っていた。
「お招きいただいたお礼を、まず申し上げる前に」
「公爵夫人様、どうぞ、お座りくださいませ」
私は侍女に紅茶の支度を始めるよう目で合図して、公爵夫人様に椅子をお勧めした。
公爵夫人様は、白い帽子を侍女に預けてから、椅子に腰かけられた。
私もその向かいに座った。
温室の硝子越しに、午後の光が斜めに差し込んでいた。床に長い影が落ちている。母の薔薇の鉢が並んでいる位置に、淡い金色の光が当たっていた。
侍女が紅茶を運んできた。
公爵夫人様は、紅茶のカップを片手に取られて、ひと口召し上がった。それから、ゆっくりとカップを下ろされた。
「クラリス様」
「はい」
「先日の応接室で、あなたが机に並べてくださった紙の山を、私はあの瞬間、初めて目にいたしました」
「はい」
「けれど」
公爵夫人様は、そこで一度だけ言葉を切られた。
「あの紙の中身を、私は、ずっと知っておりました」
私は、紅茶のカップに手を伸ばしかけて、その手を止めた。
「クラリス様」
「はい」
「あなたが、息子の隣の席を譲ってくださっていたこと。贈り物の格を、息子の希望に合わせて、何度も下げてくださっていたこと。茶会の進行を、いつもあなたが一人でお整えくださっていたこと。我が家の侍従頭が、毎度のお茶会のあとで、あなたのお書きになった覚書を頼りに、来年の準備を始めていたこと。あなたが我が家の何を支えてくださっていたか、私は、最初の一年のうちから、すっかり存じておりました」
公爵夫人様は、紅茶のカップに目を落とされたまま、静かに続けられた。
「それなのに、私は、長く、何も申し上げませんでした」
私は、何も言えずに、公爵夫人様のお手元を見ていた。
公爵夫人様の指が、紅茶のカップの縁を、軽く撫でられた。
「クラリス様。ひとつだけ、ご存知でいてくださることがございます」
「はい」
「ボーモン子爵令嬢の――リーゼの母君のお話でございます」
私は、初めて、公爵夫人様のお口から、その名を伺った。
リーゼ様のお母君のお話を、ロベルト様は、私との婚約の最初の年に、ほんのひと言だけ、教えてくださったことがある。
「あの子の母君は、早くに亡くなったんだ。私は、それだけ覚えてくれ」
そう、おっしゃった。
それ以来、ボーモン子爵夫人の話題は、公爵家でも、ロベルト様との会話の中でも、ほとんど触れられることがなかった。
「リーゼの母君は」
公爵夫人エレオノール様は、紅茶のカップから手を離されて、膝の上で両手を重ねられた。
「私と、最も親しい友人でございました」
「公爵夫人様」
「子供の頃から、姉妹のように育ちました。私のほうが少し年上で、彼女は、私のあとを追ってばかりおりました。私が嫁ぐ前、彼女は、私と離れるのが寂しいと、最後まで言ってくれました」
私は、何も言えなかった。
公爵夫人様は、温室の硝子越しに、外の光を見ていらした。
「リーゼが七つになった年に、彼女は病で亡くなりました。亡くなる前の床で、彼女は、私の手を取って、ひと言だけ、お願いをいたしました」
公爵夫人様は、そこで一度、息を整えられた。
「『私が逝ったあと、リーゼを、どうか一人にしないでほしい』」
公爵夫人様のお声は、いつもと変わらない、端正なお声だった。
けれど、紅茶のカップの縁を撫でていらしたお指が、ほんの少しだけ、止まっていた。
「私は、約束いたしました」
「公爵夫人様」
「我が家の息子と、リーゼは、幼少から兄妹のように育ちました。あの子の母君がいらした頃から、二つの家のお茶会で、二人はいつも一緒にいたのです。母君が亡くなったあと、ロベルトは、リーゼの寂しさをよく分かっていました。私も、それを止めようとはいたしませんでした。むしろ、二人がそのまま育ってくれることを、亡き友のためにも、ありがたく思っていたのです」
公爵夫人様は、紅茶のカップを、卓の上にお戻しになった。
「あなたとロベルトの婚約が決まったとき、私は、ようやくこれで、ロベルトにも一人の婚約者ができる、と思いました。リーゼと幼なじみとしての時間は、ここから先は、少しずつ控えていくものだと、信じておりました」
公爵夫人様は、私のほうを、まっすぐにご覧になった。
「けれど、ロベルトは、リーゼとの距離を変えませんでした」
「はい」
「私は、初めの年に、一度だけ、息子に申しました。『リーゼとの距離を、少しお考えなさい』と」
「公爵夫人様、それは……」
「息子は、首をかしげるだけでございました。『何のことですか、母上。リーゼは家族同然です』と」
公爵夫人様は、わずかに目を伏せられた。
「『家族同然』というお言葉を、私はあの日、初めて息子の口から伺いました。リーゼの母君と私が交わした約束を、息子なりに、彼が信じている形が、その言葉なのだ、と、私は分かってしまいました」
温室の硝子の外で、庭の木の枝が、わずかに揺れた。
「クラリス様」
「はい」
「私は、それから三年、息子に、もう一度同じ言葉を申し上げることが、できませんでした」
公爵夫人様のお声は、低く落ちた。
「もう一度、息子に厳しく申し上げて、リーゼをこの家から遠ざけることもできたでしょう。けれど、そうすれば、息子は、母であった友との約束を、自分の手で破ることになると、私は思いました。それは、息子から、リーゼと一緒に育った子供の頃の記憶も、母君を慕う気持ちも、全部、奪うことになるのではないか、と」
「公爵夫人様」
「ロベルトとリーゼを切り離せば、私は、二人とも失うのではないか、と、長く恐れていたのです」
公爵夫人様は、ようやく、私のほうへ視線をお戻しになった。
「ですから、私は、あなたが自分でお選びになる日を、静かに、待っておりました」
そのお言葉の最後の音が、温室の床に落ちた。
私は、両手を膝の上で、強く重ねた。
公爵夫人様は、続けられた。
「けれど、待ちすぎました」
「公爵夫人様」
「あなたが三年で三十二の赤い印を、お一人で書き残しておられた。その時間を、私は、自分の臆病さで、長くしてしまったのでございます」
公爵夫人様は、椅子から少し前に身を寄せられて、私のほうへ、深く頭を下げられた。
「お謝り申し上げます。クラリス様」
「公爵夫人様、頭をお上げくださいませ」
「いいえ。我が家の名で、息子の名で、そして、亡き友の名でも、お謝り申し上げます」
「公爵夫人様」
私は、自分の声が、わずかに震えそうになるのを抑えながら、続けた。
「公爵夫人様のお気持ちは、伺いとうございました。お友人とのお約束を、お一人で背負っていらしたこと、それは、私には簡単に申し上げられることではございません」
公爵夫人様は、ようやく頭をお上げになった。
その目元が、ほんの少しだけ、潤んでいるように見えた。けれど、お涙を流される方ではなかった。
公爵夫人様は、紅茶のカップを、もう一度お手に取られた。
「ですから、クラリス様」
「はい」
「これから先、正式な解消手続きが進みますあいだ、私の側でも、あなたを支えとうございます」
「ありがとうございます」
「あなたが書いてくださった紙の中で、ご返却が必要なもの、ご当家にお戻しすべきもの、お互いのお名前を社交界からどう整えていくか。そういう手続きの一切は、私から、家令と、当家の侍従頭に厳しく申し付けてございます」
「お心遣い、痛み入ります」
公爵夫人様は、紅茶を飲み終えてから、温室の中をゆっくりと見渡された。
母の薔薇の鉢に、視線が止まった。
「お母様の鉢でございますか」
「はい」
「季節を外した蕾が、可愛らしゅうございますこと」
「夏に咲きそびれたものでございます」
「咲きそびれましてもなお、自分の時に咲こうとする花は、私は好きでございます」
公爵夫人様は、白い帽子を侍女からお受け取りになり、ふたたびご自分の手で被られた。それから、椅子から立ち上がられた。
「クラリス様」
「はい」
「ひとつだけ、最後にお伝えしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「我が家の運営は、おそらく、これからしばらく、難しくなります」
公爵夫人様は、温室の入口へ向かいながら、ゆっくりとお続けになった。
「席順、贈答、招待状の格付け。そういうことの一切を、息子は、お一人ではお決めになれません。私が支えるにしても、あなたの三年の代わりにはなりません」
「公爵夫人様」
「あなたを失うことが、我が家にとってどれだけの損失かを、息子はまだ、ほんとうには、ご存知ありません。私は、それを、息子に分からせて差し上げるところから始めなければなりません」
公爵夫人様は、温室の入口で立ち止まられ、私のほうへ振り返られた。
「ですので、クラリス様」
「はい」
「これから先、しばらくのあいだ、社交界でいろいろなお話が、お耳に届くやもしれません。我が家の名で、お気持ちを煩わせてしまうことが、必ず起こります。そのときに、どうか、ご自分をお責めにならないでくださいませ」
「公爵夫人様」
「自業自得、というお言葉を、私は今日、初めて、自分の家のために使うことになると、思っております」
公爵夫人様のお口元には、初めて、わずかな笑みが浮かんだ。
それは、お悲しみの底にあるけれど、お覚悟の据わった、母の方の笑みだった。
公爵夫人様は、温室の出口で、最後にもうひとつだけ、お言葉を足された。
「クラリス様。これは、ほんの噂のような話でございますが」
「はい」
「王宮の第二王子殿下が、あなたのお仕事を、たいそう高くご覧になっていらっしゃるそうです」
「私の、お仕事を」
「ご無理に意味をお考えにならなくて、結構でございますわ」
公爵夫人様は、それだけおっしゃると、ふんわりと微笑まれて、馬車寄せのほうへ歩いていかれた。
侍女が、白い帽子の縁を整えながら、公爵夫人様のあとを追っていく。
私は温室の入口に立って、お見送りした。
馬車の扉が閉まり、馬車寄せの石畳の上で、車輪の音が遠ざかっていった。
温室の中に戻ると、紅茶のカップが二つ、卓の上に残っていた。
公爵夫人様のお召し上がりになったカップには、お紅茶がほんの少しだけ残っていた。私はそれを、すぐに片付けようとは思えなかった。
母の薔薇の鉢の前で、私はしばらく、立ったままでいた。
季節を外した小さな蕾は、まだ咲いていなかった。
公爵夫人様のお声が、まだ温室の中に残っている気がした。
亡き友とのお約束を、お一人で三年抱えていらした方。
私の三年は、その方のお時間と、たぶん、長く重なっていた。
私は薔薇の鉢のひとつに、そっと指を触れた。鉢の縁は、母が普段から手入れをしているからか、つやつやとしていた。
王宮の第二王子殿下が、私の仕事を、高くご覧になっていらっしゃる。
公爵夫人様のお声が、温室の硝子越しの光と一緒に、私の中に残った。
私は、その意味をすぐには考えなかった。
ただ、今朝の書斎で書き直していた書類の山を、もう一度、お父様と一緒に整え直そう、と思った。
温室の扉を閉めて、私は本邸へ戻った。
廊下を歩きながら、誰にも見えない場所で、私はようやく、長く止まっていた息を、ひとつ吐いた。
公爵夫人様が、私の三年を、ずっと見ていてくださった。
それを知ることができただけで、今日は、十分すぎるほどだった。




