表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/22

第四話 公爵夫人は、もう気づいていらした

温室の硝子越しに、公爵夫人様の白い帽子の縁が光っていた。


公爵邸からお戻りになって二日のあいだ、私はずっと書斎にこもっていた。


書面の手続きが進むあいだに、こちらでも整えておくべき書類が、思いのほか多かった。婚約成立の際に交わした覚書、両家のあいだで動いていた贈答の年次の確認、私が公爵家で預かっていた覚書のうち、お返しすべきものと、こちらに残してよいもの。それらを家令と一つずつ分けていく作業に、丸二日かかった。


そのあいだに、公爵夫人エレオノール様から、私あての書状が届いた。


便箋は、いつもどおりだった。


私がこの三年で何度も拝見した、公爵家の白い便箋。紙の縁が、四辺ともきれいに真っ直ぐに切り揃えられていて、わずかに薔薇水の香りが残るような、あの便箋だった。


「クラリス様。お疲れのところを恐縮ですが、私から、一度、お話を伺いたく存じます。場所は、ヴァランス家のお邸であれば幸いです。日付は、ご都合のよろしい日でかまいません」


そう、書かれていた。


公爵家の温室ではなく、ヴァランス家の側で、と書かれた一文を、私はもう一度読み直した。


公爵夫人エレオノール様が、ご自分でお出向きくださる、ということだった。


これまで、私のほうから公爵家へ伺うのが当然だった三年のあいだに、こういう書状を頂戴するのは、初めてのことだった。


私はその日のうちにお返事の便箋を書き、三日後の午後、ヴァランス家の温室でお迎えする旨をお返しした。


そして、当日。


ヴァランス家の温室は、本邸の北側にある小ぶりな建物だった。母が薔薇の鉢を並べるために使われている場所で、夏のあいだは家族でお茶をいただくこともあったけれど、客人をお招きするには、少しばかり質素すぎる場所だった。


それでも、私はあえてここをお選びした。


公爵家の応接室で、革張りのソファに腰を下ろしてお話しする、というかたちでは、お互いに少し疲れる気がしたのだ。


公爵夫人様は、午後のお時間ぴったりにいらした。


馬車寄せから温室へ向かう石畳の上で、公爵夫人様は白い帽子の縁を片手で押さえながら、ゆっくりと歩いてこられた。供は侍女おひとりだけだった。馬車も、公爵家の家紋つきではなく、無紋のものを使ってこられたと、御者から後で聞いた。


「お越しくださり、ありがとうございます」


私は温室の入口で、深く礼をした。


「クラリス様」


公爵夫人様は、私の名を呼んでくださってから、白い帽子を、ご自分の手で外された。


「こんな日を、本当に申し訳なく思っております」


「公爵夫人様」


「いいえ。先に、私から、お伝えすべきことがございます」


公爵夫人様は、温室の中央に置かれた小卓のほうへ目を向けられた。母の薔薇の鉢が、卓の脇に三つ並んでいる。そのうちのひとつには、季節を外した小さな蕾が、ひとつだけ残っていた。


「お招きいただいたお礼を、まず申し上げる前に」


「公爵夫人様、どうぞ、お座りくださいませ」


私は侍女に紅茶の支度を始めるよう目で合図して、公爵夫人様に椅子をお勧めした。


公爵夫人様は、白い帽子を侍女に預けてから、椅子に腰かけられた。


私もその向かいに座った。


温室の硝子越しに、午後の光が斜めに差し込んでいた。床に長い影が落ちている。母の薔薇の鉢が並んでいる位置に、淡い金色の光が当たっていた。


侍女が紅茶を運んできた。


公爵夫人様は、紅茶のカップを片手に取られて、ひと口召し上がった。それから、ゆっくりとカップを下ろされた。


「クラリス様」


「はい」


「先日の応接室で、あなたが机に並べてくださった紙の山を、私はあの瞬間、初めて目にいたしました」


「はい」


「けれど」


公爵夫人様は、そこで一度だけ言葉を切られた。


「あの紙の中身を、私は、ずっと知っておりました」


私は、紅茶のカップに手を伸ばしかけて、その手を止めた。


「クラリス様」


「はい」


「あなたが、息子の隣の席を譲ってくださっていたこと。贈り物の格を、息子の希望に合わせて、何度も下げてくださっていたこと。茶会の進行を、いつもあなたが一人でお整えくださっていたこと。我が家の侍従頭が、毎度のお茶会のあとで、あなたのお書きになった覚書を頼りに、来年の準備を始めていたこと。あなたが我が家の何を支えてくださっていたか、私は、最初の一年のうちから、すっかり存じておりました」


公爵夫人様は、紅茶のカップに目を落とされたまま、静かに続けられた。


「それなのに、私は、長く、何も申し上げませんでした」


私は、何も言えずに、公爵夫人様のお手元を見ていた。


公爵夫人様の指が、紅茶のカップの縁を、軽く撫でられた。


「クラリス様。ひとつだけ、ご存知でいてくださることがございます」


「はい」


「ボーモン子爵令嬢の――リーゼの母君のお話でございます」


私は、初めて、公爵夫人様のお口から、その名を伺った。


リーゼ様のお母君のお話を、ロベルト様は、私との婚約の最初の年に、ほんのひと言だけ、教えてくださったことがある。


「あの子の母君は、早くに亡くなったんだ。私は、それだけ覚えてくれ」


そう、おっしゃった。


それ以来、ボーモン子爵夫人の話題は、公爵家でも、ロベルト様との会話の中でも、ほとんど触れられることがなかった。


「リーゼの母君は」


公爵夫人エレオノール様は、紅茶のカップから手を離されて、膝の上で両手を重ねられた。


「私と、最も親しい友人でございました」


「公爵夫人様」


「子供の頃から、姉妹のように育ちました。私のほうが少し年上で、彼女は、私のあとを追ってばかりおりました。私が嫁ぐ前、彼女は、私と離れるのが寂しいと、最後まで言ってくれました」


私は、何も言えなかった。


公爵夫人様は、温室の硝子越しに、外の光を見ていらした。


「リーゼが七つになった年に、彼女は病で亡くなりました。亡くなる前の床で、彼女は、私の手を取って、ひと言だけ、お願いをいたしました」


公爵夫人様は、そこで一度、息を整えられた。


「『私が逝ったあと、リーゼを、どうか一人にしないでほしい』」


公爵夫人様のお声は、いつもと変わらない、端正なお声だった。


けれど、紅茶のカップの縁を撫でていらしたお指が、ほんの少しだけ、止まっていた。


「私は、約束いたしました」


「公爵夫人様」


「我が家の息子と、リーゼは、幼少から兄妹のように育ちました。あの子の母君がいらした頃から、二つの家のお茶会で、二人はいつも一緒にいたのです。母君が亡くなったあと、ロベルトは、リーゼの寂しさをよく分かっていました。私も、それを止めようとはいたしませんでした。むしろ、二人がそのまま育ってくれることを、亡き友のためにも、ありがたく思っていたのです」


公爵夫人様は、紅茶のカップを、卓の上にお戻しになった。


「あなたとロベルトの婚約が決まったとき、私は、ようやくこれで、ロベルトにも一人の婚約者ができる、と思いました。リーゼと幼なじみとしての時間は、ここから先は、少しずつ控えていくものだと、信じておりました」


公爵夫人様は、私のほうを、まっすぐにご覧になった。


「けれど、ロベルトは、リーゼとの距離を変えませんでした」


「はい」


「私は、初めの年に、一度だけ、息子に申しました。『リーゼとの距離を、少しお考えなさい』と」


「公爵夫人様、それは……」


「息子は、首をかしげるだけでございました。『何のことですか、母上。リーゼは家族同然です』と」


公爵夫人様は、わずかに目を伏せられた。


「『家族同然』というお言葉を、私はあの日、初めて息子の口から伺いました。リーゼの母君と私が交わした約束を、息子なりに、彼が信じている形が、その言葉なのだ、と、私は分かってしまいました」


温室の硝子の外で、庭の木の枝が、わずかに揺れた。


「クラリス様」


「はい」


「私は、それから三年、息子に、もう一度同じ言葉を申し上げることが、できませんでした」


公爵夫人様のお声は、低く落ちた。


「もう一度、息子に厳しく申し上げて、リーゼをこの家から遠ざけることもできたでしょう。けれど、そうすれば、息子は、母であった友との約束を、自分の手で破ることになると、私は思いました。それは、息子から、リーゼと一緒に育った子供の頃の記憶も、母君を慕う気持ちも、全部、奪うことになるのではないか、と」


「公爵夫人様」


「ロベルトとリーゼを切り離せば、私は、二人とも失うのではないか、と、長く恐れていたのです」


公爵夫人様は、ようやく、私のほうへ視線をお戻しになった。


「ですから、私は、あなたが自分でお選びになる日を、静かに、待っておりました」


そのお言葉の最後の音が、温室の床に落ちた。


私は、両手を膝の上で、強く重ねた。


公爵夫人様は、続けられた。


「けれど、待ちすぎました」


「公爵夫人様」


「あなたが三年で三十二の赤い印を、お一人で書き残しておられた。その時間を、私は、自分の臆病さで、長くしてしまったのでございます」


公爵夫人様は、椅子から少し前に身を寄せられて、私のほうへ、深く頭を下げられた。


「お謝り申し上げます。クラリス様」


「公爵夫人様、頭をお上げくださいませ」


「いいえ。我が家の名で、息子の名で、そして、亡き友の名でも、お謝り申し上げます」


「公爵夫人様」


私は、自分の声が、わずかに震えそうになるのを抑えながら、続けた。


「公爵夫人様のお気持ちは、伺いとうございました。お友人とのお約束を、お一人で背負っていらしたこと、それは、私には簡単に申し上げられることではございません」


公爵夫人様は、ようやく頭をお上げになった。


その目元が、ほんの少しだけ、潤んでいるように見えた。けれど、お涙を流される方ではなかった。


公爵夫人様は、紅茶のカップを、もう一度お手に取られた。


「ですから、クラリス様」


「はい」


「これから先、正式な解消手続きが進みますあいだ、私の側でも、あなたを支えとうございます」


「ありがとうございます」


「あなたが書いてくださった紙の中で、ご返却が必要なもの、ご当家にお戻しすべきもの、お互いのお名前を社交界からどう整えていくか。そういう手続きの一切は、私から、家令と、当家の侍従頭に厳しく申し付けてございます」


「お心遣い、痛み入ります」


公爵夫人様は、紅茶を飲み終えてから、温室の中をゆっくりと見渡された。


母の薔薇の鉢に、視線が止まった。


「お母様の鉢でございますか」


「はい」


「季節を外した蕾が、可愛らしゅうございますこと」


「夏に咲きそびれたものでございます」


「咲きそびれましてもなお、自分の時に咲こうとする花は、私は好きでございます」


公爵夫人様は、白い帽子を侍女からお受け取りになり、ふたたびご自分の手で被られた。それから、椅子から立ち上がられた。


「クラリス様」


「はい」


「ひとつだけ、最後にお伝えしてもよろしいでしょうか」


「はい」


「我が家の運営は、おそらく、これからしばらく、難しくなります」


公爵夫人様は、温室の入口へ向かいながら、ゆっくりとお続けになった。


「席順、贈答、招待状の格付け。そういうことの一切を、息子は、お一人ではお決めになれません。私が支えるにしても、あなたの三年の代わりにはなりません」


「公爵夫人様」


「あなたを失うことが、我が家にとってどれだけの損失かを、息子はまだ、ほんとうには、ご存知ありません。私は、それを、息子に分からせて差し上げるところから始めなければなりません」


公爵夫人様は、温室の入口で立ち止まられ、私のほうへ振り返られた。


「ですので、クラリス様」


「はい」


「これから先、しばらくのあいだ、社交界でいろいろなお話が、お耳に届くやもしれません。我が家の名で、お気持ちを煩わせてしまうことが、必ず起こります。そのときに、どうか、ご自分をお責めにならないでくださいませ」


「公爵夫人様」


「自業自得、というお言葉を、私は今日、初めて、自分の家のために使うことになると、思っております」


公爵夫人様のお口元には、初めて、わずかな笑みが浮かんだ。


それは、お悲しみの底にあるけれど、お覚悟の据わった、母の方の笑みだった。


公爵夫人様は、温室の出口で、最後にもうひとつだけ、お言葉を足された。


「クラリス様。これは、ほんの噂のような話でございますが」


「はい」


「王宮の第二王子殿下が、あなたのお仕事を、たいそう高くご覧になっていらっしゃるそうです」


「私の、お仕事を」


「ご無理に意味をお考えにならなくて、結構でございますわ」


公爵夫人様は、それだけおっしゃると、ふんわりと微笑まれて、馬車寄せのほうへ歩いていかれた。


侍女が、白い帽子の縁を整えながら、公爵夫人様のあとを追っていく。


私は温室の入口に立って、お見送りした。


馬車の扉が閉まり、馬車寄せの石畳の上で、車輪の音が遠ざかっていった。


温室の中に戻ると、紅茶のカップが二つ、卓の上に残っていた。


公爵夫人様のお召し上がりになったカップには、お紅茶がほんの少しだけ残っていた。私はそれを、すぐに片付けようとは思えなかった。


母の薔薇の鉢の前で、私はしばらく、立ったままでいた。


季節を外した小さな蕾は、まだ咲いていなかった。


公爵夫人様のお声が、まだ温室の中に残っている気がした。


亡き友とのお約束を、お一人で三年抱えていらした方。


私の三年は、その方のお時間と、たぶん、長く重なっていた。


私は薔薇の鉢のひとつに、そっと指を触れた。鉢の縁は、母が普段から手入れをしているからか、つやつやとしていた。


王宮の第二王子殿下が、私の仕事を、高くご覧になっていらっしゃる。


公爵夫人様のお声が、温室の硝子越しの光と一緒に、私の中に残った。


私は、その意味をすぐには考えなかった。


ただ、今朝の書斎で書き直していた書類の山を、もう一度、お父様と一緒に整え直そう、と思った。


温室の扉を閉めて、私は本邸へ戻った。


廊下を歩きながら、誰にも見えない場所で、私はようやく、長く止まっていた息を、ひとつ吐いた。


公爵夫人様が、私の三年を、ずっと見ていてくださった。


それを知ることができただけで、今日は、十分すぎるほどだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
母親が自分の息子に対して「お一人ではお決めになれません(尊敬語)」「ご存知ありません(尊敬語)」「分からせて差し上げる(過剰な謙譲・恩着せがましい表現)」などを使っており、違和感が凄いです。 物語は楽…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ