第三話 三年分の席次表
公爵家の応接室に入る前、父は家令の前で一瞬だけ足を止めた。
その朝、私たちは予定どおりにモンフォール公爵邸に着いていた。
馬車寄せからの石畳は、丁寧に掃き清められていた。両側の植え込みの剪定も、いつもより念入りに整えられている。婚約者として三年通ったこの邸で、私はそれらの様子をひと目で読み取った。今朝の公爵家は、こちらを迎えるために、できる限りのことを準備していた。
家令が玄関の前で深く礼をした。
「ヴァランス侯爵閣下、クラリス様、お越しくださり、ありがとうございます」
「ご足労をかけた」
父は短く返した。父にしては、声がいつもより低い。
家令が先に立ち、玄関の広間を抜けて、応接室の前まで案内した。
その扉の前で、父の足が、ほんの半歩だけ止まったのだ。
応接室の扉は、半分ほど開かれていた。
中には、すでに人影があった。モンフォール公爵閣下と、公爵夫人エレオノール様。そして、ロベルト様。それから、もうひとつ。
水色のドレスの裾が、ソファの脇から見えていた。
リーゼ様だった。
私は反射的に、紙の束を抱える手に力を込めた。先ほどから腕に抱えていたのは、お父様と相談して選び抜いた、三年分の覚書の一部だった。
父は、扉から少し視線を逸らし、傍らに控えていた家令に、声を低くして尋ねた。
「ご当主夫妻と当事者のみと、書状ではお聞きしていたが」
「は……」
家令の声が、わずかに詰まった。
「公爵令息のご意向で、ボーモン子爵令嬢様もご同席を、と」
父は、それを聞いて、表情を変えなかった。けれど、ほんの一拍だけ、息を吸う間が長かった。
「そうか」
父は短く頷き、家令に「では、参ろう」と告げて、応接室へ足を進めた。
私は父の後ろから、紙の束を抱えたまま、扉をくぐった。
応接室の中央のソファに、公爵閣下と公爵夫人様が並んで腰かけていらした。その向かい側、こちら側に用意された席の手前で、ロベルト様が立ち上がった。少し離れた壁際の椅子で、リーゼ様もこちらに顔を向けて、立ち上がろうとしていた。
「クラリスお姉様」
リーゼ様は、私の顔を見るなり、いつもの呼び方でそう言った。
ボーモン家とヴァランス家の間に、姉妹の関係はない。三年間、私はその呼び方を訂正しないままここまで来てしまっていた。
リーゼ様は、私が紙の束を抱えていることに気づいて、少しだけ目を丸くした。それから、よく分からないという顔で、ロベルト様の側に視線を戻した。
ロベルト様は、私のほうへ歩み寄ろうとして、父の視線に気づいて、足を止めた。
「クラリス。来てくれて」
「クラリス様」
ロベルト様の言葉の途中に、公爵夫人エレオノール様の声が、静かに重なった。
「お疲れのところを、お運びいただき、ありがとうございます」
公爵夫人様は、ソファに座ったまま、私に向かって深く頭を下げた。
その動きは、ほんの一拍だけ、リーゼ様の存在をこの場から外しているかのように見えた。視線を、応接室の入口に立ったままの私と父にだけ向けて、ほかの誰も見ていない。
私は深く礼を返した。
「お招きにあずかり、恐れ入ります」
父はそのまま、用意されていたソファに腰を下ろした。私はその隣に座った。膝の上に、抱えてきた紙の束を、まだ抱えたまま乗せていた。
ロベルト様は、ようやく自分の席に座り直した。
リーゼ様は、壁際の椅子に、また腰かけた。
応接室の扉が、家令の手で静かに閉じられた。
公爵閣下が、軽く咳払いをされた。
「ヴァランス侯爵閣下。本日は、ご足労をおかけした」
「いえ」
「書状で頂戴したお話について、まずは、こちら側で確認させていただきたい」
「承知いたしました」
公爵閣下は、ロベルト様のほうを一度ご覧になり、それから、私のほうへ視線を戻した。
「クラリス嬢」
公爵閣下に名を呼ばれたのは、私はこのとき、初めてかもしれなかった。これまでは、息子の婚約者として、「ロベルトの婚約者殿」「お嬢さん」と、もう少し遠回りな呼ばれ方をされてきた。
「ご令嬢から、直接、お話を伺いたい。よろしいか」
「はい」
私は紙の束を、膝の上から、すぐ脇の小卓へ移した。
それから、いちばん上に置いていた、一枚の覚書を手に取った。
二年前の春の夜会の覚書。「ロベルト様の隣はリーゼ様にて、ロベルト様より口頭で指示」と、私の字で書かれている紙だった。
「ロベルト様」
私はまず、ロベルト様のほうを向いた。
「はい」
「三年間、隣席が私のものだった回数を、数えてみました」
「クラリス、なんの話だ」
ロベルト様の声は、半分笑っていた。
私はその笑い声を、聞き流した。
「いいえ。冗談ではなく、本当に、数えてみました」
私は手にした覚書を、机の上に置いた。それから、二枚目、三枚目と、紙を並べていった。
公爵閣下と公爵夫人様の目の前に、私の三年分の覚書のうち、十数枚が、机の上に並んだ。
「これは」
公爵閣下が、身を乗り出された。
「私が婚約者として、御家でのお茶会、夜会、観劇、ご親族のお披露目、新年のご挨拶などに同伴いたしました際の、私の側の覚書でございます」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「赤い印を付けてございますのは、当日の予定に対して、ご当家でのご指示により、席が変更になった日付でございます」
公爵閣下は、机の上の紙を、ご自分の側へ引き寄せられた。それから、一枚、もう一枚と、めくっていかれた。
応接室の中の空気が、紙の擦れる音だけになった。
ロベルト様は、自分の席に座ったまま、机の上の紙の山を、私を、それから父を見た。三度目に父を見たとき、ロベルト様は、視線を逸らした。
「クラリス様」
公爵夫人エレオノール様が、静かに口を開かれた。
「赤い印は、いくつでございますか」
「三十二、ございます」
「お数えになりましたのね」
「はい」
公爵夫人様は、机の上の紙を、見ようとはなさらなかった。代わりに、私の顔を、まっすぐにご覧になっていた。その視線には、責める色がなかった。むしろ、ようやくだ、というような、奥行きの長い色があった。
「クラリス」
ロベルト様が、わずかに身を乗り出された。
「席を譲ってもらった回数を、覚書に残していたのか」
「はい」
「なぜそんなことを」
「ロベルト様」
私は、ロベルト様のほうを、しっかりとご覧になった。
「三十二回目に、もう数えなくていい、と思いました」
「クラリス」
「私は、婚約者を、降りとうございます」
応接室の中が、また静かになった。
ロベルト様は、私の言葉の意味を、半拍だけ遅れて受け取られたようだった。
それから、息を吸う前に、立ち上がろうとされた。
「クラリス、待ってくれ。冗談だろう?」
「冗談ではございません」
「お父様、ヴァランス侯爵閣下。これは、何かの行き違いでは……」
ロベルト様は、向かいの父のほうへ、半歩、足を踏み出された。
そのとき、初めて、壁際の椅子に座っていらしたリーゼ様が、何かを言いかけて、口を開かれた。
「ロベルト様」
「リーゼ、すまない。少し待っていてくれ」
「でも」
「ロベルト」
公爵閣下の声が、低く落ちた。
応接室の中で、ロベルト様の動きが、止まった。
「お前は、座っていなさい」
「父上」
「席を外しなさい」
公爵閣下は、ロベルト様にではなく、リーゼ様のほうへ視線を移された。
「ボーモン子爵令嬢」
公爵閣下のお声が、はっきりと、リーゼ様に向けられた。
「申し訳ないが、しばらくのあいだ、別の間でお待ちいただきたい。家令に案内させます」
「は、はい」
リーゼ様は、慌てて立ち上がられた。
「クラリスお姉様、私のせいで」
リーゼ様は、私のほうを見て、何かを言いかけた。
「リーゼ」
公爵夫人エレオノール様の声が、リーゼ様の名を、静かに呼ばれた。
ロベルト様の母君が、リーゼ様を呼び捨てになさった声を、私はその朝、初めて聞いた気がする。
「あなたは、別の間に。あとで、私からお話があります」
「は、はい。公爵夫人様」
リーゼ様は、ドレスの裾を持ち上げて、家令の案内で応接室を出ていかれた。
応接室の扉が、また静かに閉じられた。
公爵閣下は、机の上の紙の山に、もう一度視線を戻された。
「ロベルト」
「はい」
「お前は、これを、知っていたか」
「父上、私は……」
「赤い印が、三十二ある」
公爵閣下は、机の上の紙を、ゆっくりと、ロベルト様のほうへ向けて、押し出された。
「これは、お前の婚約者が、お前のために、お前の側の指示によって、三十二回、ご自身の席を譲られた、という記録だ」
「父上、それは……リーゼがいつも不安そうにしていて」
「ロベルト」
「はい」
「席を外しなさい」
ロベルト様は、何かを言いかけて、やめられた。
それから、ゆっくりと立ち上がり、私のほうを一度ご覧になった。
「クラリス」
「はい」
「あとで、話を聞いてほしい」
「ロベルト様」
私は、ロベルト様の目を、しっかりとお返しした。
「私の答えは、机の上の紙の中に、すべてございます」
ロベルト様は、もう一度何かを言いかけて、結局、何も言わずに、応接室を出ていかれた。
扉が閉まったあと、応接室の中は、四人だけになった。
私と父。公爵閣下と公爵夫人様。
机の上には、三十二の赤い印が、まだ並んでいた。
「ヴァランス侯爵閣下」
公爵閣下は、机の上の紙を、ご自分の側で揃えてから、深く一礼された。
「我が家の名で、まずは、申し訳のなさをお伝え申し上げる」
「公爵閣下」
父は、わずかに頭を傾けるだけで、頭は下げなかった。
「お謝りいただくのは、私ではございません」
公爵閣下は、その言葉を受けて、視線を私のほうへ移された。
そして、もう一度、深く頭を下げられた。
「クラリス嬢」
「公爵閣下」
「我が家の名で、改めて、お謝り申し上げる」
私は、その瞬間、なぜか胸の奥がほんの少しだけ熱くなった。
それは、満足ではなかった。報われた、というのとも、少し違った気がする。
たぶん、初めて、誰かに、見ていただけた、と思った。
公爵夫人エレオノール様も、深く頭を下げてくださった。
その姿を見ていらした父は、しばらく黙ったまま、何かを考えていた。
それから、ようやく口を開いた。
「公爵閣下。本日の話し合いは、書面の準備のためのものと、私は承知して参りました」
「は、もちろんでございます」
「ですので、お謝りのお言葉は、書面の交わしのあと、改めて、ご令息ご自身のお口から、娘に伝えていただきたい」
「承知いたしました」
「本日のところは、婚約解消のお話を、お互いの家で正式に進める、その合意までを、お願いしたく存じます」
「お引き受けいたします」
応接室の中の話は、それからしばらく、書面の手続きと、両家の対外的な発表の段取りに関するものになった。
私は、机の上の紙の山を、いくつかは公爵閣下のお手元に残し、残りはまた私の側に戻した。
すべての紙を出さなくていい、と父に言われていたとおりに、私は、必要な分だけを置いた。残りは、私の三年として、私の手元に残した。
帰りの馬車に乗ったのは、昼を少し回った頃だった。
馬車の窓から、公爵邸の門が遠ざかっていく。
「お父様」
「うん」
「先ほど、応接室にお入りになる前に、家令にお尋ねでしたね」
「ああ」
父は、馬車の背もたれに、ようやく身体を預けた。
「ボーモン子爵令嬢の同席は、書状では知らされていなかった」
「公爵令息のご意向、とのことでした」
「あれは、家令の判断ではない」
父は、低く呟くように言った。
「公爵閣下も、ご存知ではなかったろう。お顔色を見れば、分かる」
私は、馬車の窓の外を見ていた。
「お父様」
「うん」
「ありがとうございました」
「何の礼だ」
「家令にお尋ねくださったことです」
父は、しばらく黙っていた。
それから、視線は窓の外に向けたまま、低く言った。
「クラリス」
「はい」
「お前は、三年、よく耐えた」
そのひと言で、私は何かを言いかけて、けれど、馬車の中で泣くつもりはなかったから、口を結んだ。
父は、それ以上、何も言わなかった。
馬車が、ヴァランス侯爵邸の門をくぐる前に、父はもう一度、思い出したように言葉を足した。
「公爵夫人が、後日あらためてお前と話したい、とおっしゃっていた」
「公爵夫人様が、ですか」
「お前一人でな」
馬車の車輪が、ヴァランス家の門の石畳を踏んだ。
公爵夫人エレオノール様が、私と二人だけで話したい、とおっしゃっている。
私は、馬車の窓に映る自分の顔を、もう一度だけ見た。
夜会で見ていた、婚約者の顔ではなかった。
三年分の紙を抱えていない、たぶん、私自身の顔だった。




