第二話 婚約者の席は、もう私のものではありません
机の上に並べた席次表は、三年分で厚さがある一冊の本になっていた。
私の朝は、いつもより一刻早く始まっていた。
夜会から帰った夜、馬車の中で「もう、降りようと思います」と呟いたあのときから、私の頭の中は、不思議なほど落ち着いていた。眠れなかったわけではない。眠ったあとで、目覚めの最初の一秒に、もう次にやることが並んでいた。それだけだ。
私は寝室を出る前に、戸棚の鍵を腰の小箱から取り出し、書斎の鍵もそこに足した。それからガウンの上に肩掛けを羽織って、廊下の灯りがまだ薄い時間に、書斎へ降りた。
書斎の戸棚を開くと、紙の匂いが立ち上った。
三年分の席次表。三年分の贈答記録。招待状の控えの束。ロベルト様との打ち合わせで取った覚書。茶会の進行表。夜会の動線図。
私はそれらを腕で抱え、机の上に積み直した。一度では運びきれず、三度往復した。
机の上に並べたものを、もう一度、年ごとに分け直す。
婚約成立の一年目の春。
私の細かい筆跡は、まだ少しだけ揺れている。文字が均等になりきっていない。お父様に「お前は字が真っ直ぐすぎるな」と笑われたあの頃の筆だった。
二年目。文字が落ち着いている。代わりに、書き込みが増えている。「ロベルト様の隣はリーゼ様にて」「ロベルト様より口頭で指示」――そういう小さな書き込みが、紙の余白に並んでいた。
三年目。書き込みがさらに増えている。
私はその書き込みの一つを、指の先でなぞった。
去年の春の夜会の席次表だった。中央の席、ロベルト様の名札の隣に、私の名前は最初から書かれていない。代わりに「ボーモン子爵令嬢様、ロベルト様より口頭で指示」と書かれている。私の字だ。
そういう書き込みを、私は三年で何枚、何十枚と残してきた。
それが、紙として、ここにあった。
「クラリス?」
書斎の入口から、お母様の声がした。
侯爵夫人は、私がこの時間に書斎に降りているとは思っていなかったらしい。寝着の上に肩掛けを羽織って、髪は朝の侍女の手が入る前のままだった。
「こんなに早く、何を」
「お母様」
私は振り返って、机の上を見せた。
「今朝、お父様にお話ししたいことがございます」
お母様は、机の上の紙の山を、一度、しっかりと見た。
それから、私の顔を見た。
何も訊かなかった。
「お父様を起こします」
短く言って、お母様は書斎を出ていった。
私は、揃えた紙の束のいちばん上に、一枚の覚書を置いた。去年の春の夜会の覚書――ロベルト様が初めて、私の隣席をリーゼ様に譲るよう「口頭で指示」した夜の覚書だった。
紙の束の高さは、両手で抱えるとちょうど顎のあたりまであった。
そのとき、私の目が、不意に一枚の紙の上で止まった。
書類の最下層から半分はみ出していた、薄い茶色の紙。王宮夜会の控えだった。
私は婚約期間中、ヴァランス家の窓口を通じて、王宮夜会の席次運営を年に四度か五度、手伝ってきた。お父様が王太子殿下の側近筋にあたるため、王宮で大きな催しがあるたびに、ヴァランス家へ「席次の整理を頼みたい」という非公式の依頼が来る。それを私が引き受けてきた。
その控えの一枚に、私の字ではない筆跡が混ざっている。
二年前の春の夜会の控え。中央席の配置案の隣に、男性の筆跡で短く書かれている。
「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ」
私はその書き込みを、これまでも何度か見ていた。王宮の側からの正式な礼の覚書は、慣例として残されるものだ。控えに残るその一行を、私は王宮の事務上の習わしだと思っていた。
紙を戻そうとして、ふと、私はその字を、もう一度見た。
横の筆運びが、少しだけ角張っている。王宮の文官筆ではない。もっと、書き手の癖が出ている字だった。
たぶん、王族の誰かが、ご自身で書かれたものだろう。
私は紙を戻して、ほかの紙の山と一緒に揃えた。
それから、お父様がいらっしゃる前に、机の端の小卓に紅茶を運ばせた。家令が一度、私の顔を見て、何も訊かずに頷いた。家令も、今朝の私の様子を、すでに少し察していたらしい。
お父様が書斎に入ってきたのは、それから少しあとだった。
「クラリス」
お父様は、寝着の上に着流しを羽織ったままだった。髪を急いで撫でつけた跡が、こめかみのあたりに残っている。
「お母様から聞いた。話があるそうだな」
私は立ち上がり、机の前の椅子をお父様のために引いた。
「お父様、お休みのところを起こしてしまって、申し訳ございません」
「いい。座れ」
私は向かいに座った。
お父様は、机の上の紙の山を、ゆっくりと見渡した。それから、いちばん上に置いた覚書に目を落とした。
「これは、三年分の席次表か」
「はい」
「贈答の記録もあるな」
「招待状の控えと、ロベルト様との打ち合わせの覚書も、すべてここに揃えてございます」
お父様は、紙の山に手を伸ばさなかった。代わりに、紅茶のカップを片手に取り、温かいうちにひと口含んだ。
「クラリス」
「はい」
「結論から言いなさい」
お父様の声は、いつもより少しだけ低かった。けれど、責めている声ではなかった。
私は、膝の上で一度だけ手を握り直して、それから顔を上げた。
「ロベルト様との婚約を、解消したく存じます」
書斎の中の空気が、ほんの少しだけ動いた。
窓の外で、まだ少し冷たい朝の鳥が鳴いた。
お父様は、紅茶のカップを音もなく卓上に置いた。それから、机の上の紙の山に、ようやく手を伸ばした。
「お前の理由は」
「机の上に並べております」
お父様は紙の山の最上段、私が置いた去年の春の覚書を、片手で取った。それから、一枚、もう一枚と、めくっていった。
書斎の中は静かだった。
私は、お父様がめくっていく紙の音だけを聞いていた。
「ロベルト様より口頭で指示」
その書き込みを、お父様は一度、二度、三度、と目で追った。
それから、二年目の春の夜会の覚書をめくり、夏の観劇の席次を見て、秋の収穫祭の茶会の進行表に目を落とした。
紙をめくる手が、途中で、一度だけ止まった。
ロベルト様の従姉妹のお披露目の茶会だった。私が用意した中央席を、当日の朝に「リーゼに座らせてやってほしい」と伝えられた日。それを覚書に、私は淡々と書き残していた。
お父様は、その覚書を最後まで読んでから、紙を元の場所に戻した。
紅茶のカップを、もう一度手に取った。
中身を半分ほど飲んでから、ようやく顔を上げて、お父様は私の目を見た。
「クラリス」
「はい」
「これは、夫人にも見せたか」
「いいえ、まだお見せしておりません」
「見せなくていい。母を悲しませる」
短く、お父様は言った。
「公爵家へ書面を出す。今朝中に、家令へ準備を命じる」
「お父様」
「お前の婚約は、お前のものだ。私はお前が我慢を始めた頃から、いつかこの話が出ると思っていた」
「申し訳ございません」
「謝ることではない」
お父様は、机の上の紙の山に、もう一度視線を戻した。
「お前が、これだけの記録を残していたことを、私は知らなかった。婚約者として、これは……」
そこで、お父様はわずかに言葉を止めた。
「立派なものだ」
その短い言葉は、夜会で受け取るどんな賛辞よりも、私の胸の奥に長く残った。
私は、膝の上の両手を、いつのまにかしっかりと握っていた。
「お父様」
「うん」
「これらの記録は、公爵家との話し合いの場でも、お見せしてよろしいでしょうか」
「もちろんだ。だが、すべて見せる必要はない。お前が選んだものだけを差し出せ。残りはお前の手元に置いておきなさい。何があっても、これはお前の三年だ」
私は深く頷いた。
お父様が書斎を出ていったあと、私は机の上の紙の山を、もう一度、上から順に揃え直した。
そのとき、私の手が、また一枚の紙の上で止まった。
二年前の春の王宮夜会の控え。
「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ」
書かれていた字を、私はもう一度、よく見た。
横の筆運びが、やはり、文官の整った筆ではなかった。少しだけ右に流れて、最後の一画が短く切れている。書き慣れているけれど、急いで書かれた字だ。
王族のどなたかだろう、と私は今朝、思った。
王太子殿下のお名前で正式な礼状が来たことは、たしかにある。けれど、控えに直筆で礼を残されることは、慣例ではあっても、王太子殿下ご本人が書かれたという話は聞いたことがなかった。
私は、紙の角を揃えて、束の下のほうへ戻した。
家令が書斎の扉を軽く叩いて、入ってきた。
「お嬢様、旦那様より、公爵家への書状の文面を確認するようにとのことでございます」
「ありがとう。すぐに伺います」
家令はそのまま下がろうとして、ふと、私の机の上を見た。
「お嬢様」
「はい」
「お顔の色が、三日前より落ち着いていらっしゃいます」
家令は、長く侯爵家に仕えてきた男だった。子供の頃、私が初めて社交界に出る前夜、震えていた私に「お嬢様、夜会は紅茶を一度落ち着いて飲めれば、もう半分終わったようなものでございます」と教えてくれた人だった。
私はその家令の顔を見て、少し笑った。
「そうかしら」
「はい。お顔だけは、私からはご報告のないお出かけのあとも、隠せませんでしたから」
家令は深く礼をして、書斎を出ていった。
私は、机の上の紙の山に、最後にもう一度だけ視線を落とした。
二年前の王宮夜会の控えが、束の中ほどで、薄く端をのぞかせている。
王族のどなたかが、私の整えた席次に、控えにまで直筆で礼を残されていた。
そう思うと、私はふと、これまで王宮夜会の手伝いをするたび、夜会の終わりにいつもひとつだけ、慣例にない小さなことが起きていたことを、思い出した。
控えに、礼の覚書が残ること。
たぶん、ずっと同じ字だった。
書斎の鍵を腰に戻し、私は紙の山を抱え直した。父の書斎へ、書状の文面を確認しに行く。
家令の言葉どおり、私の顔は、たしかに少しだけ違っているのかもしれなかった。
机の上に並べた紙の束は、今朝までは、私の三年の重さだった。
これから先は、たぶん、別の意味を持つ。
書斎の扉を閉める音は、夜会の扇を閉じる音よりも、少しだけ大きく響いた。




