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『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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2/22

第二話 婚約者の席は、もう私のものではありません

机の上に並べた席次表は、三年分で厚さがある一冊の本になっていた。


私の朝は、いつもより一刻早く始まっていた。


夜会から帰った夜、馬車の中で「もう、降りようと思います」と呟いたあのときから、私の頭の中は、不思議なほど落ち着いていた。眠れなかったわけではない。眠ったあとで、目覚めの最初の一秒に、もう次にやることが並んでいた。それだけだ。


私は寝室を出る前に、戸棚の鍵を腰の小箱から取り出し、書斎の鍵もそこに足した。それからガウンの上に肩掛けを羽織って、廊下の灯りがまだ薄い時間に、書斎へ降りた。


書斎の戸棚を開くと、紙の匂いが立ち上った。


三年分の席次表。三年分の贈答記録。招待状の控えの束。ロベルト様との打ち合わせで取った覚書。茶会の進行表。夜会の動線図。


私はそれらを腕で抱え、机の上に積み直した。一度では運びきれず、三度往復した。


机の上に並べたものを、もう一度、年ごとに分け直す。


婚約成立の一年目の春。


私の細かい筆跡は、まだ少しだけ揺れている。文字が均等になりきっていない。お父様に「お前は字が真っ直ぐすぎるな」と笑われたあの頃の筆だった。


二年目。文字が落ち着いている。代わりに、書き込みが増えている。「ロベルト様の隣はリーゼ様にて」「ロベルト様より口頭で指示」――そういう小さな書き込みが、紙の余白に並んでいた。


三年目。書き込みがさらに増えている。


私はその書き込みの一つを、指の先でなぞった。


去年の春の夜会の席次表だった。中央の席、ロベルト様の名札の隣に、私の名前は最初から書かれていない。代わりに「ボーモン子爵令嬢様、ロベルト様より口頭で指示」と書かれている。私の字だ。


そういう書き込みを、私は三年で何枚、何十枚と残してきた。


それが、紙として、ここにあった。


「クラリス?」


書斎の入口から、お母様の声がした。


侯爵夫人は、私がこの時間に書斎に降りているとは思っていなかったらしい。寝着の上に肩掛けを羽織って、髪は朝の侍女の手が入る前のままだった。


「こんなに早く、何を」


「お母様」


私は振り返って、机の上を見せた。


「今朝、お父様にお話ししたいことがございます」


お母様は、机の上の紙の山を、一度、しっかりと見た。


それから、私の顔を見た。


何も訊かなかった。


「お父様を起こします」


短く言って、お母様は書斎を出ていった。


私は、揃えた紙の束のいちばん上に、一枚の覚書を置いた。去年の春の夜会の覚書――ロベルト様が初めて、私の隣席をリーゼ様に譲るよう「口頭で指示」した夜の覚書だった。


紙の束の高さは、両手で抱えるとちょうど顎のあたりまであった。


そのとき、私の目が、不意に一枚の紙の上で止まった。


書類の最下層から半分はみ出していた、薄い茶色の紙。王宮夜会の控えだった。


私は婚約期間中、ヴァランス家の窓口を通じて、王宮夜会の席次運営を年に四度か五度、手伝ってきた。お父様が王太子殿下の側近筋にあたるため、王宮で大きな催しがあるたびに、ヴァランス家へ「席次の整理を頼みたい」という非公式の依頼が来る。それを私が引き受けてきた。


その控えの一枚に、私の字ではない筆跡が混ざっている。


二年前の春の夜会の控え。中央席の配置案の隣に、男性の筆跡で短く書かれている。


「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ」


私はその書き込みを、これまでも何度か見ていた。王宮の側からの正式な礼の覚書は、慣例として残されるものだ。控えに残るその一行を、私は王宮の事務上の習わしだと思っていた。


紙を戻そうとして、ふと、私はその字を、もう一度見た。


横の筆運びが、少しだけ角張っている。王宮の文官筆ではない。もっと、書き手の癖が出ている字だった。


たぶん、王族の誰かが、ご自身で書かれたものだろう。


私は紙を戻して、ほかの紙の山と一緒に揃えた。


それから、お父様がいらっしゃる前に、机の端の小卓に紅茶を運ばせた。家令が一度、私の顔を見て、何も訊かずに頷いた。家令も、今朝の私の様子を、すでに少し察していたらしい。


お父様が書斎に入ってきたのは、それから少しあとだった。


「クラリス」


お父様は、寝着の上に着流しを羽織ったままだった。髪を急いで撫でつけた跡が、こめかみのあたりに残っている。


「お母様から聞いた。話があるそうだな」


私は立ち上がり、机の前の椅子をお父様のために引いた。


「お父様、お休みのところを起こしてしまって、申し訳ございません」


「いい。座れ」


私は向かいに座った。


お父様は、机の上の紙の山を、ゆっくりと見渡した。それから、いちばん上に置いた覚書に目を落とした。


「これは、三年分の席次表か」


「はい」


「贈答の記録もあるな」


「招待状の控えと、ロベルト様との打ち合わせの覚書も、すべてここに揃えてございます」


お父様は、紙の山に手を伸ばさなかった。代わりに、紅茶のカップを片手に取り、温かいうちにひと口含んだ。


「クラリス」


「はい」


「結論から言いなさい」


お父様の声は、いつもより少しだけ低かった。けれど、責めている声ではなかった。


私は、膝の上で一度だけ手を握り直して、それから顔を上げた。


「ロベルト様との婚約を、解消したく存じます」


書斎の中の空気が、ほんの少しだけ動いた。


窓の外で、まだ少し冷たい朝の鳥が鳴いた。


お父様は、紅茶のカップを音もなく卓上に置いた。それから、机の上の紙の山に、ようやく手を伸ばした。


「お前の理由は」


「机の上に並べております」


お父様は紙の山の最上段、私が置いた去年の春の覚書を、片手で取った。それから、一枚、もう一枚と、めくっていった。


書斎の中は静かだった。


私は、お父様がめくっていく紙の音だけを聞いていた。


「ロベルト様より口頭で指示」


その書き込みを、お父様は一度、二度、三度、と目で追った。


それから、二年目の春の夜会の覚書をめくり、夏の観劇の席次を見て、秋の収穫祭の茶会の進行表に目を落とした。


紙をめくる手が、途中で、一度だけ止まった。


ロベルト様の従姉妹のお披露目の茶会だった。私が用意した中央席を、当日の朝に「リーゼに座らせてやってほしい」と伝えられた日。それを覚書に、私は淡々と書き残していた。


お父様は、その覚書を最後まで読んでから、紙を元の場所に戻した。


紅茶のカップを、もう一度手に取った。


中身を半分ほど飲んでから、ようやく顔を上げて、お父様は私の目を見た。


「クラリス」


「はい」


「これは、夫人にも見せたか」


「いいえ、まだお見せしておりません」


「見せなくていい。母を悲しませる」


短く、お父様は言った。


「公爵家へ書面を出す。今朝中に、家令へ準備を命じる」


「お父様」


「お前の婚約は、お前のものだ。私はお前が我慢を始めた頃から、いつかこの話が出ると思っていた」


「申し訳ございません」


「謝ることではない」


お父様は、机の上の紙の山に、もう一度視線を戻した。


「お前が、これだけの記録を残していたことを、私は知らなかった。婚約者として、これは……」


そこで、お父様はわずかに言葉を止めた。


「立派なものだ」


その短い言葉は、夜会で受け取るどんな賛辞よりも、私の胸の奥に長く残った。


私は、膝の上の両手を、いつのまにかしっかりと握っていた。


「お父様」


「うん」


「これらの記録は、公爵家との話し合いの場でも、お見せしてよろしいでしょうか」


「もちろんだ。だが、すべて見せる必要はない。お前が選んだものだけを差し出せ。残りはお前の手元に置いておきなさい。何があっても、これはお前の三年だ」


私は深く頷いた。


お父様が書斎を出ていったあと、私は机の上の紙の山を、もう一度、上から順に揃え直した。


そのとき、私の手が、また一枚の紙の上で止まった。


二年前の春の王宮夜会の控え。


「席次変更につき礼を申し上げる。次回の配置案を待つ」


書かれていた字を、私はもう一度、よく見た。


横の筆運びが、やはり、文官の整った筆ではなかった。少しだけ右に流れて、最後の一画が短く切れている。書き慣れているけれど、急いで書かれた字だ。


王族のどなたかだろう、と私は今朝、思った。


王太子殿下のお名前で正式な礼状が来たことは、たしかにある。けれど、控えに直筆で礼を残されることは、慣例ではあっても、王太子殿下ご本人が書かれたという話は聞いたことがなかった。


私は、紙の角を揃えて、束の下のほうへ戻した。


家令が書斎の扉を軽く叩いて、入ってきた。


「お嬢様、旦那様より、公爵家への書状の文面を確認するようにとのことでございます」


「ありがとう。すぐに伺います」


家令はそのまま下がろうとして、ふと、私の机の上を見た。


「お嬢様」


「はい」


「お顔の色が、三日前より落ち着いていらっしゃいます」


家令は、長く侯爵家に仕えてきた男だった。子供の頃、私が初めて社交界に出る前夜、震えていた私に「お嬢様、夜会は紅茶を一度落ち着いて飲めれば、もう半分終わったようなものでございます」と教えてくれた人だった。


私はその家令の顔を見て、少し笑った。


「そうかしら」


「はい。お顔だけは、私からはご報告のないお出かけのあとも、隠せませんでしたから」


家令は深く礼をして、書斎を出ていった。


私は、机の上の紙の山に、最後にもう一度だけ視線を落とした。


二年前の王宮夜会の控えが、束の中ほどで、薄く端をのぞかせている。


王族のどなたかが、私の整えた席次に、控えにまで直筆で礼を残されていた。


そう思うと、私はふと、これまで王宮夜会の手伝いをするたび、夜会の終わりにいつもひとつだけ、慣例にない小さなことが起きていたことを、思い出した。


控えに、礼の覚書が残ること。


たぶん、ずっと同じ字だった。


書斎の鍵を腰に戻し、私は紙の山を抱え直した。父の書斎へ、書状の文面を確認しに行く。


家令の言葉どおり、私の顔は、たしかに少しだけ違っているのかもしれなかった。


机の上に並べた紙の束は、今朝までは、私の三年の重さだった。


これから先は、たぶん、別の意味を持つ。


書斎の扉を閉める音は、夜会の扇を閉じる音よりも、少しだけ大きく響いた。


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