第二十一話 正式な申し入れ
王家の馬車が二台、ヴァランス家の門を入る音を、私は朝食室の窓から聞いた。
ライナス殿下のご私的訪問から、一月半が経っていた。
その間に、夏は盛りを過ぎ、初秋の空気が、王都の朝の風に混じり始めていた。庭の植え込みは、母が手入れをなさるたびに、季節の変わり目の色を、わずかに見せていた。
その一月半のあいだ、私は、ご公務を、いつもどおり務めていた。秋期の感謝祭夜会の準備のための打ち合わせを、王宮の控えの間で、三度。書面の往復は、王宮事務方の窓口を通じて、ふだんどおりに進められた。
ライナス殿下とは、控えの間で二度お会いした。話の中身は、いつものご公務の席次案と、来賓の動線。縁談の話には、お互いに、一度も触れなかった。
殿下は、第二十話のヴァランス邸でのご訪問の折に、「最後の決めまで、お時間を、頂戴いたします」という私の言葉を、そのまま預かってくださっていた。
その一月半のあいだ、私は、書斎の机の引き出しの中に、夜のうちに書いた便箋のひと言を、入れたままにしていた。
「お選びで、お進むに、決めることで、私の中で、整いつつある」
そのひと言を、私は、毎晩、机の引き出しの中から、一度だけ確かめていた。
朝の確かめが、夜の確かめに変わったのは、一月のあいだだった。
夜の確かめが、毎晩の確かめに変わったのは、ひと月の終わりだった。
毎晩の確かめが、自分の中の答えに変わったのは、その一月半が終わるころだった。
正式な申し入れの日の朝、母が朝食の卓で、わずかに微笑まれた。
「クラリス」
「お母様」
「お顔の色が、いつもの朝より、一段、落ち着いていますわね」
「お母様」
「答えは、もうご自分の中で、お決まりですね」
「はい」
母は、紅茶のカップを、卓の脇に置いて、わずかに頷いた。
「私の伯母様も、ヴァランス家にお嫁ぎになる日の朝、同じ顔の色でいらしたわ」
「お母様」
「お決めなさい」
朝食を終えてから、私はお父様の書斎で、お父様と一緒に、王家からの書面の到着の準備を進めた。
ヴァランス家の応接室は、家令と侍女が、いつもの催事の時よりも、丁寧に整えていた。母の薔薇の鉢が、卓の脇に二つ置かれていた。卓のうえには、紅茶の支度。それから、お父様の書斎の隣の控えの間ではなく、応接室の入口の側に、家令が控える小さな席が用意されていた。
「クラリス」
お父様の声は、いつもより、わずかに低かった。
「お父様」
「王家の書面が届く折、王家の使者は、ライナス殿下ご自身がお務めになる」
「殿下が、ご自身で」
「ああ。王太子殿下のお名前で、私に書状が届いている。『第一段階の書面の引き渡しは、ライナスが、自分の足で運ぶ』と」
「お父様」
「王家の慣例で、第一段階の書面は、王家の使者が運ぶ。ご当人が運ばれることは、慣例の範囲内ではあるが、王家のご令息ご自身が務めるのは、慣例の中でも、最も丁寧な形だ」
私は、深く頷いた。
応接室の窓の外で、初秋の朝の光が、庭の植え込みの上に、まっすぐに落ちていた。
馬車の音が、ヴァランス家の門を入った。
家令が、応接室の入口で、低く声を入れた。
「お父様、お嬢様。ライナス殿下、お越しでございます。王家の使者の馬車もお揃いでございます」
「お通ししなさい」
ライナス殿下がヴァランス家の玄関にお入りになったのは、その朝の少し前だった。
殿下の衣装は、ご公務の控えの間の時とも、王宮の四阿の時とも違っていた。王家の正式の使者の衣装。深い藍に、銀の小さな飾り。お側には、王家の文官の方が二名。家令と、一人の侍従。それが、王家の第一段階の書面の引き渡しの、正式の供だった。
応接室の入口で、殿下は、お父様と、私に、深く頭を下げられた。
「ヴァランス侯爵閣下、お嬢様。本日、お時間を頂戴し、ありがとうございます」
「殿下、お越しくださり、ありがとうございます」
お父様は、深く頭を下げた。
私も、深くお辞儀をした。
殿下は、応接室の中央の席に進む前に、王家の文官の方を、卓の手前に案内された。
「ヴァランス侯爵閣下」
「殿下」
「本日、王家の使者として、運びましたのは、第一段階の正式の書面でございます。書面の手続きを、席のうえで、まず進めます」
「承知いたしました」
殿下は、ソファの席に腰を下ろした。
お父様は、お父様の席に。私は、お父様の隣の席に腰を下ろした。
王家の文官の方が、卓のうえに、書類入れを開いた。
中から、王家の正式の封を押した、白い封筒を、一通取り出した。封蝋は、王家の家紋。封筒の表に、王家の手の正式の字で、書かれていた。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス殿」
封筒の宛名は、私の名前ひとつだけだった。
ヴァランス家の名でも、お父様の名でも、ヴァランス侯爵家としての宛名でもなかった。
「クラリス殿」
ただ、その四文字だった。
王家の文官の方が、深く頭を下げて、封筒を、卓越しに、私のほうへ差し出した。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス殿。王家より、お申し入れの書面を、預け申し上げます」
「お預かりいたします」
私は、両手で、封筒を受け取った。
封蝋の重みは、いつもの王宮事務方の控えの紙の封蝋より、ずっと重かった。
「席のうえで、開いていただきたく存じます」
王家の文官の方は、席のうえで書面を開くのが、慣例の手順だと、伝えてくださった。
私は、卓の脇のペーパーナイフを、家令から受け取った。
封蝋を、ゆっくりと、自分の手で割った。
封蝋は、ぱりっと、軽く割れた。
封筒の中から、一枚の書面が、出てきた。
王家の正式の便箋。
私は、書面を、卓のうえに、軽く広げた。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス・ヴァランス殿へ
王家、第二王子ライナス・グレオールより、お申し入れを差し上げます。
ライナス・グレオールは、貴殿との婚約を、王家として正式にお求めいたします。
本書面は、王家の縁談の慣例における、第一段階の申し入れでございます。
貴殿のお返事は、貴殿ご自身のお手で、署名のうえ、ヴァランス侯爵閣下のご立会いのもとで、本書面の脇にお記しいただきたく存じます。
お受け、お止め、いずれのお返事でも、王家として承ります。
お止めのお返事の場合、ヴァランス家と王家の社交のお席に、何の変わりもございません。
お受けのお返事の場合、第二段階の手続きを、王家の側で、慣例どおりに、二月の時間をかけて進めます。
本書面は、貴殿ご自身のお手元に、控えとして残し置きいただきたく存じます。
王家、王太子グレオール
王家、第二王子ライナス・グレオール」
書面のいちばん下に、お二人のお名前のご署名が、はっきりと書かれていた。
王太子殿下のご署名は、王家の正式の文官の手によるものではなく、王太子殿下ご自身の手の字でいらした。
ライナス殿下のご署名も、王宮事務方の控えの紙の上で、何度も見した、あの字でいらした。
私は、書面のいちばん下、ライナス殿下のご署名の脇に、わずかに余白があるのを、見た。
そこが、私のお返事の署名の場所だった。
「お父様」
「うん」
「書面、頂戴いたしました」
「読んだか」
「はい」
「お返事は」
「お受けいたします」
応接室の中で、紅茶の湯気が、続けて上がっていた。
お父様は、わずかに頷かれた。
ライナス殿下は、席の中で、何もおっしゃらなかった。けれど、紅茶のカップを、手に取られていなかった。両手は、膝のうえで、軽く一つに重ねていた。
殿下の目元が、わずかに動いた。
それは、式の場のための動きではなかった。
長く、一席の見守りを続けて来た方が、席の最後で、息を、ようやくわずかに吐いた、一席の動きだった。
「クラリス」
殿下の口から、私の名前が、初めて、名前だけで呼ばれた。
「クラリス嬢」ではなかった。
「ヴァランス侯爵令嬢」でもなかった。
ただ「クラリス」と、呼ばれた。
応接室の中で、しばらく、お互いに、何も言わなかった。
殿下は、声を続けて入れなかった。
「クラリス」とだけ呼んで、止まっていらした。
私は、卓のうえの書面に、目を落とした。
ライナス殿下のご署名の脇の、わずかな余白。
そこに、自分の手で、署名を入れる。
「お父様」
「うん」
「署名のためのペンを、頂戴できますか」
お父様は、家令に目で合図をされた。
家令が、卓のうえに、お父様の書斎で使われていた羽根ペンを、一本、置いた。
その時、ライナス殿下が、ようやく、言葉を一席、入れられた。
「クラリス」
「殿下」
「署名のためのペンを、私からも、一本、差し出してもよろしいでしょうか」
「殿下」
殿下は、お側の文官の方に、目で合図をされた。
王家の文官の方が、書類入れの中から、小さな包みを、一つ取り出された。
包みは、薄い藍の絹で、丁寧に巻かれていた。
殿下は、その包みを、ご自分の手で取り上げて、お父様の席ではなく、私の席のほうへ差し出された。
「クラリス」
「殿下」
「お受け取りください」
私は、両手で、包みを受け取った。
絹の包みを、ゆっくりと解いた。
中から、一本の羽根ペンが、出てきた。
羽根は、白く、長い羽根だった。
ペン軸は、銀の細工。小さい、けれど、丁寧な細工が、軸の先のあたりに、一つだけ入っていた。
その細工は、小さい文字だった。
「Verite」――真実、という意味の、古い言葉。
「殿下」
「クラリス」
「この羽根ペンは」
「王宮の北棟の庭の、小さな池のあたりに、年に二度、白い羽根の鳥が、羽根を落としていきます」
「殿下」
「その羽根を、私が、年に二度、一本ずつ、預けて集めておりました」
「集めて、いらしたのですか」
「はい」
殿下の声は、いつもどおり、低かった。
「集めの羽根の中から、一本、ペンに仕立てました」
「殿下」
「軸の細工の文字は、私の手で、一字ずつ選びました」
「Verite、ですね」
「はい」
「真実、という言葉ですね」
殿下は、深く頷かれた。
「クラリス」
「殿下」
「席のうえで、席の仕事を、一席ずつ、続けて整えていらした手で、署名で、真実を、紙のうえに記してくださることに、ございます」
「殿下」
「この羽根ペンを、署名で、一席、お使いいただきたく存じます」
私は、羽根ペンを、両手のうえに、軽く持ち直した。
軸の銀の細工が、応接室の窓からの光で、わずかに光った。
「殿下」
「はい」
「お言葉、頂戴いたします」
「ありがとうございます」
私は、羽根ペンを、自分の手で、取り上げた。
家令が、墨を、小さく、卓のうえに置いてくださった。
羽根ペンの先を、墨に、軽く浸した。
書面の、ライナス殿下のご署名の脇の余白に、私の手で、自分の名を、一字ずつ、書き入れた。
「クラリス・ヴァランス」
署名の最後の一字を、書き終えた。
羽根ペンを、卓のうえに、軽く置いた。
応接室の中で、家令と王家の文官の方が、一席ずつ、頭を下げた。
「ヴァランス侯爵令嬢クラリス・ヴァランス殿」
王家の文官の方が、声を入れた。
「署名、たしかに頂戴いたしました。本書面の控えは、ヴァランス家でお預けくださいませ。王家の側で、正本をお持ち帰りいたします」
「お願いいたします」
王家の文官の方は、書面の正本を、書類入れに丁寧に収めた。
殿下は、席の中で、紅茶のカップを、ようやく手に取られた。
紅茶を、半分ほど口に運ばれた。
「クラリス」
「殿下」
「お受けくださり、ありがとうございます」
殿下の声は、短かった。
「ありがとうございます」
その短い言葉のあとで、殿下は、席を立たれた。
お父様も、席を立たれた。
私も、席を立った。
応接室の中央で、殿下は、私の目を、見上げられた。
「クラリス」
「殿下」
「第二段階の正式の発表まで、二月の時間がございます」
「はい」
「その時間に、私の側で、続けて、お会いさせていただきたく存じます」
「殿下」
「ご公務でも、ご公務の外でも、続けてお会いしたく」
殿下の声は、続いた。
「ご公務の外でお会いするのは、ヴァランス家のお父様の席の形で、続けてまいります」
「殿下」
「お父様の席の形で、ヴァランス家にお越しさせていただくのが、続いてまいります」
殿下は、お父様のほうへ、頭を向けられた。
「ヴァランス侯爵閣下」
「殿下」
「二月の時間で、続けてヴァランス家にお越しさせていただくお願いを、差し上げます」
「承知いたしました」
お父様は、深く頭を下げた。
「殿下、ヴァランス家として、お受けいたす」
「ありがとうございます」
殿下は、応接室の入口で、もう一度、深く頭を下げられた。
王家の文官の方が、書類入れと、預けの正本を運ばれた。王家の供は、玄関で、別の馬車に控えていらした。
応接室の入口で、私は、もう一度、深く頭を下げた。
殿下のお側で、家令と、文官の方と、侍従の方が、続けて頭を下げた。
殿下は、応接室の入口で、私の目を、最後に見上げられた。
「クラリス」
「殿下」
「これから先、よろしく、お願い申し上げます」
殿下の声は、短かった。
私は、深く頭を下げた。
「殿下、こちらこそ、よろしく、お願い申し上げます」
殿下の馬車の音が、ヴァランス家の門の外で、ゆっくりと遠ざかっていった。
応接室の中に、お父様と、私と、紅茶のカップだけが残った。
「お父様」
「うん」
「署名、終わりました」
「ああ」
「お父様、お母様にも、伝えたく存じます」
「うん」
家令が、応接室の入口で、声を入れた。
「お父様、お嬢様。奥様が、お父様の書斎の入口で、お待ちでいらっしゃいます」
「お母様が」
「はい。先ほど、ライナス殿下の馬車の音をお聞きで、書斎の入口の席で、お待ちでいらっしゃいます」
私は、応接室を出て、お父様の書斎の入口へ進んだ。
書斎の入口の側で、母が、椅子に腰を下ろしていらした。
「お母様」
「クラリス」
「署名、いたしました」
母は、しばらく、私の顔を見上げていらした。
それから、わずかに微笑まれた。
それは、第二十話の夜の応接室で頂戴した、限られた抱きしめの形より、わずかに広い、母らしい微笑みだった。
「クラリス、お進みなさい」
「お母様、ありがとうございます」
「お母様の伯母様が、ベルロワ家から、お母様に預けてくださっていた覚書に続いていくのが、今、始まりましたわね」
「お母様」
「お母様も、お父様も、続けて見ています」
母は、私の頭を、片手で、一度、軽く触れられた。
書斎の入口で、お父様が、私たちの側に来てくださった。
「クラリス、奥さん」
「お父様」
「あなた」
お父様の声は、いつもどおり、落ち着いていた。けれど、声の奥に、長く娘を見続けてきた父の、一席の深い頷きが入っていた。
「ヴァランス家として、今日、二月の準備の時間に入った」
「お父様」
「お母様が、ベルロワ家の伯母様から受け継いできた覚書を、娘が、自分の手で続けてまいります」
「お父様」
「お父様は、ヴァランス家として、続けて見上げています」
私は、両手を、お父様に、差し出した。
お父様が、私の手を、両手で、一席、包んだ。
それは、お父様が、娘に見せる、一席の抱きしめの形だった。
その晩、私は、自分の書斎で、机のうえに、新しい便箋を一枚整えた。
ライナス殿下から預けでいただいた羽根ペンを、卓のうえに、軽く置いた。
軸の細工の「Verite」の字が、書斎の蝋燭の光で、わずかに光っていた。
その羽根ペンで、第一段階の書面の控えの脇に、私の名の、今日の署名の記録を、一行書き込んだ。
「第一段階の書面に、自分の手で署名を入れた日。」
その下に、一行、短く書き添えた。
「ヴァランス家として、選びで、進むに決めることが、整った。」
書斎の蝋燭の光が、机のうえで、続けて灯っていた。
第二段階の発表まで、二月の時間が、ヴァランス家に続いていく。
その時間に、ライナス殿下が、お父様の席の形で、ヴァランス家にお越しになるのが、続いていく。
書斎の窓の外で、初秋の夜の空気が、ゆっくりと、深くなっていった。
ヴァランス家の門の外で、ライナス殿下の馬車の音は、もう残っていなかった。
机のうえの羽根ペンの軸の細工が、書斎の蝋燭の光で、最後に、わずかに光っていた。
「Verite」
真実、というひと字の意味が、机のうえで、夜の深い空気に、静かに、続けて光っていた。




