第二十二話 私の隣
王宮の小広間に入った時、紅茶のカップの形に、見覚えがあった。
正式な申し入れから、二月が経っていた。
その二月のあいだ、季節は秋の半ばに進んでいた。庭の植え込みは、葉の色を、わずかに金色に染め始めていた。母の薔薇の鉢は、すべて温室に運ばれ、来年の春のための、長い静かな時間に入っていた。
二月のあいだ、ライナス殿下は、ヴァランス家へ六度お越しになった。すべて、お父様の書斎で、ご公務の打ち合わせの形を取りながら、私と、応接室で、紅茶を一杯ずつ召し上がった。話の中身は、王宮事務方のご公務のこと、ヴァランス家の社交事業の覚書のこと、季節の植え込みのこと、母の薔薇のこと。婚約の話そのものに、お互いに、一度も触れない時間が続いた。
殿下は、その二月のあいだ、私をいつも「クラリス」と呼ばれた。「クラリス嬢」ではなく、ただ「クラリス」と。
私もまた、その二月のあいだに、殿下を「ライナス様」と呼ぶことを、少しずつ、自分の中で慣らしていった。最初は、書斎で一人になった時に、便箋の上で。次に、母にだけ聞こえる小さな声で。それから、お父様の前で、一度。そして、ようやく、殿下のお側で、一度、声に出した。
殿下は、その時、わずかに微笑まれただけだった。けれど、その微笑みは、私が、これまで殿下の席で頂戴したどの微笑みより、長く続いた。
王家の正式の発表の日は、秋の半ばの、よく晴れた日だった。
ヴァランス家を出る朝、母が、玄関の手前で、私のドレスの襟元を、一度だけ整えてくれた。
「クラリス」
「お母様」
「お行きなさい」
「はい」
「私も、お父様も、王宮で、待っているわ」
「ありがとうございます」
王宮の小広間は、王家の家族と、限られた来賓のための、小さな広間だった。
王家の春期大規模夜会の広間とは違って、席の数は六十ほど。お招きの方は、王太子殿下、王太后陛下、ライナス殿下のご家族のお席のほか、両家の親族の席、社交界の中央のうち、特にお親しい家だけが、お呼ばれしていた。
ヴァランス家のお父様と、お母様。それから、私。
公爵夫人エレオノール様も、席にいらしていた。
公爵閣下は、席にはいらしていなかった。エレオノール様お一人でのご出席だった。ロベルト様の名前も、席にはなかった。
小広間の入口で、エレオノール様が、私を見て、わずかに頷かれた。衣装は、夏の王宮春期大規模夜会の時の深い灰色ではなく、秋の落ち着いた青の一着。首元の銀の飾りは、あの夜と同じものだった。
「クラリス様」
エレオノール様は、私の席の手前で、声を低く入れた。
「公爵夫人様、お越しくださり、ありがとうございます」
「席のご招待を、ヴァランス家から頂戴いたしました」
「私から、お父様にお願いいたしました。ぜひ、席に入っていただきたく」
「クラリス様」
エレオノール様の口元に、わずかな微笑みが浮かんだ。
「私が、今日の席にいることは、過分の光栄でございます」
「公爵夫人様、過分ではございません」
「クラリス様」
「公爵夫人様が、ヴァランス家の三年を、いちばん長く見ていてくださった方でいらした。今日の席に、いらしていただかないわけにはまいりませんでした」
エレオノール様は、目を、わずかに伏せられた。
それから、もう一度、わずかに微笑まれた。
「クラリス様、ありがとうございます」
「公爵夫人様」
私は、深く頭を下げた。
小広間の中央の席で、王太子殿下のお開会のご挨拶があった。
王太后陛下のお言葉が続いた。
それから、ライナス殿下が、席を立たれた。
殿下の衣装は、王家の正式の発表のためのもの。深い藍に、銀の細工。第二十一話の正式の使者の時の衣装と、ほぼ同じ形だった。
殿下は、小広間の中央の席の手前で、私のほうへ、一歩進まれた。
「クラリス・ヴァランス嬢」
殿下の声は、いつもより、わずかに高かった。
小広間の中で、席の皆様に届く高さだった。
「はい」
「本日、王家として、クラリス・ヴァランス嬢を、第二王子ライナス・グレオールの婚約者として、席の皆様に、ご紹介申し上げます」
小広間の中で、席の皆様が、わずかに頭を下げた。
公爵夫人エレオノール様も、席で、深く頭を下げられた。
その姿は、第十八話の春期大規模夜会で、社交界の中央で深く頭を下げられたあの夜の姿と、同じだった。けれど、今日の頭の下げ方は、あの夜のお謝りの形ではなかった。
お祝いを、心からお下げになる、一席の形だった。
殿下は、私の席の手前で、もう一度、言葉を入れられた。
「クラリス」
「ライナス様」
「これから先、よろしく、お願い申し上げます」
「ライナス様、こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
小広間の中で、席の皆様が、席を立たれて、お祝いのご挨拶を続けて頂戴した。
その挨拶の席の終わりに、王太子殿下が、わずかに微笑まれて、席の皆様に声を入れられた。
「ご紹介申し上げた婚約の席は、これにて成立いたします。席の皆様、ご来駕、ありがとうございました。お祝いの続きは、王宮の北棟の庭園で、紅茶の席を用意しております。席の皆様の移動を、お願い申し上げます」
小広間の席の皆様が、ゆっくりと、北棟の庭園のほうへ進んでいった。
ヴァランス家のお父様と、お母様も、席を立たれた。
母は、私の席の手前で、もう一度、私の頭を、片手で、軽く触れられた。
「クラリス」
「お母様」
「庭園のお紅茶を、お楽しみなさい」
「お母様」
母の口元に、わずかな微笑みが浮かんだ。
それは、第二十話の夜の応接室で頂戴した微笑みと、第二十一話のお父様の書斎の入口で頂戴した微笑みの、続きの形だった。
王宮の北棟の庭園は、私が、第十六話で、殿下から羽根ペンの贈り物を頂戴した、あの四阿のある庭だった。
二月のあいだに、庭の植え込みの色は、わずかに変わっていた。白い薔薇は、今は咲いていなかった。けれど、植え込みの間に、秋の小さな野菊が、白く咲いていた。
四阿の中央の卓のうえに、紅茶の席の支度が、整えられていた。
紅茶のカップが、席の人数のぶん、並んでいた。
私の席の前のカップを、私は、一度、見上げた。
そのカップに、私は見覚えがあった。
第五話の、王宮夜会の控えの間で、殿下が運んでくださった、あのカップだった。
カップの縁の、淡い金色の細い線。受け皿の裏側の、王家の家紋の控えの小さい印。同じ意匠のカップ。同じ受け皿。
「ライナス様」
「クラリス」
「このカップは」
「あの夜の、控えの間の席で、運ばせていただいたものでございます」
殿下の声は、いつもどおり、低かった。
「あの夜のあと、王宮の事務方に、預けて保管しておりました。今日のお祝いの紅茶の席で使いたく、王宮の事務方から、取り戻してまいりました」
「ライナス様」
「あの夜、控えの間で席に腰を下ろされたお姿が、私の中で、長く記憶に残っていらした、ということでございます」
「ライナス様」
「紅茶の湯気が、頬のあたりまで上がっていたのが、今日のお祝いの紅茶として、続いてまいります」
私は、カップに、両手を伸ばした。
カップの縁を、両手のひらで、軽く包んだ。
紅茶の湯気が、頬のあたりまで、ゆっくりと上がってきた。
第五話の夜の、控えの間で、一人で頂戴した紅茶のカップ。
第十六話の夏の、四阿で、二人で頂戴した紅茶のカップ。
そして、今日の秋の、北棟の庭園で、席の皆様のお祝いの中で頂戴する、同じ意匠の紅茶のカップ。
三度の紅茶のカップが、一席ずつ重なって、私の両手のひらの中に、今、ある。
「ライナス様」
「クラリス」
「紅茶のカップの意匠を、第五話のあの夜から、続けて預けてくださっていたのですね」
「はい」
「今日まで、一席ずつ」
「はい」
「ありがとうございます」
殿下は、わずかに微笑まれた。
「クラリス」
「ライナス様」
「席を立たれて、庭園の小道の側へ進んでいただいてもよろしゅうございますか」
「はい」
殿下は、先に席を立たれた。
私も、席を立った。
紅茶のカップは、卓のうえに、軽く置いた。
四阿の中に、席の皆様が、続けて席に腰を下ろしていらした。エレオノール様も、お父様も、お母様も、席で、紅茶を、一席ずつ、楽しんでいらした。
殿下と私は、四阿の入口を、一席ずつ出た。
庭園の小道は、続けて、庭の奥のほうへ続いていた。
小道の側を、ゆっくりと、二人で進んだ。
庭の奥に、小さい池があった。第十六話で殿下がお話しになっていた、白い羽根の鳥が年に二度、羽根を落とすあの池だった。
池の手前に、小さな石のベンチが、一つあった。
殿下は、小さな石のベンチの手前で、一度立ち止まられた。
それから、振り返って、私の目を、見上げられた。
「クラリス」
「ライナス様」
「ひとつ、お伝えしたいことがございます」
「はい」
殿下は、両手を、膝の前で、一度重ねられた。
「席の発表が、王宮の小広間で続いてまいりました」
「はい」
「席の皆様にご紹介申し上げました」
「はい」
「けれど、席の発表とは別に、自分の口で、お伝えしたいことがございます」
殿下の声は、短かった。
「クラリス」
「ライナス様」
「席の仕事で、一席ずつ整えていらした手が、今、私の隣にいてくださることに、ございます」
「ライナス様」
「席の手が、私の隣に、続けていてくださいませ」
「ライナス様」
「席の仕事で、一席ずつ続けて整えていらしたあなたが、席の皆様で見続けてこられたのが、今、私の隣に、続けていらっしゃいませ」
殿下の声は、いつもより、短く、区切れていた。
私は、両手を、膝の前で、軽く重ねた。
「ライナス様」
「クラリス」
「席の手は、ライナス様の隣に、続けてございます」
私の声は、自分でも、わずかに落ち着いていた。
「席の仕事は、続けて、王宮事務方のご公務として、続いてまいります。ヴァランス家の社交事業も、家の側で、続けてございます」
「はい」
「これから先、席の手を置く場所が、変わることで、自分の手の重さの中身が、一席ずつ変わってまいりますことが、ございます」
「はい」
「席の手の重さの中身が、変わってまいりましても、席の仕事の手は、ライナス様の隣で、続けて続いてまいります」
殿下は、深く頷かれた。
「クラリス」
「はい」
「ありがとうございます」
殿下は、一度、頭を下げられた。
それから、顔を上げて、私の目を、見上げられた。
「クラリス、ひとつだけ、言葉を続けに入れさせていただきたく存じます」
「ライナス様」
「席の仕事で、これから先、疲れることが、続いてまいりますことが、ございます」
「はい」
「疲れた時に、声に出していただく相手として、私を、続けて加えていただきたく存じます」
「ライナス様」
「ヴァランス家のお父様、お母様、家令、王宮事務方の皆様。その側の一席の位置に、私を加えていただきたく存じます」
「ライナス様」
殿下の声は、第十六話の四阿で頂戴した言葉の続きだった。
あの夏の四阿で、殿下が「私を、一人にお加えていただければ、光栄に存じます」と、小さくおっしゃっていた、あの言葉の。
「ライナス様」
「はい」
「加えさせていただきます」
私の声は、短く、けれど、はっきりと、庭園の小さな池の手前で、落ちた。
殿下は、深く頷かれた。
殿下の口元に、深い微笑みが浮かんだ。
それは、式の場のための微笑みでも、控えの間のご公務の場の微笑みでもなかった。
長く、続けて見ていてくださった方が、席の区切りで、安堵を見せる、深い、個人の微笑みだった。
「クラリス」
「ライナス様」
「これから先、よろしく、お願い申し上げます」
「ライナス様、こちらこそ、お願い申し上げます」
殿下は、両手を、差し出された。
私も、両手を差し出した。
殿下の両手のひらが、私の両手のひらを、一度、包んだ。
それは、お父様の手の包み方とは、別の形の、一席の包み方だった。
これから先、続けて、同じ席の時間の中で、一席ずつ続いていく手の、一席の、最初の包み方だった。
「ライナス様」
「クラリス」
「一席ずつ、続けて続いてまいります」
「はい」
「一席ずつ、頂戴申し上げます」
殿下は、深く頷かれた。
池の手前の小さな石のベンチの手前で、庭園の小さな野菊が、一度、風で、わずかに揺れた。
「席に戻りましょうか」
「はい」
殿下は、小道のほうへ、先に進まれた。
私も、続けて、小道を進んだ。
四阿の側に戻ると、席の皆様が、紅茶の席で、一席ずつ、お祝いの話を交わしていらした。
エレオノール様が、お母様の席の隣で、紅茶のカップを、両手に軽く持っていらした。
エレオノール様と母が、席で、お互いに、深く頭を下げあう、短い仕草が、私の目に入ってきた。
それは、二人の母の、一席の、初めての、お祝いの形だった。
王宮の北棟の庭園で、秋の午後の光が、四阿の中央の卓のうえに、ゆっくりと落ちていた。
私の席に戻った時、紅茶のカップの中の紅茶が、まだ温かかった。
「ライナス様」
「クラリス」
「紅茶が、まだ、温かうございます」
「一杯、頂戴いたしましょう」
私は、紅茶のカップを、両手のひらで、もう一度軽く包んだ。
紅茶の湯気が、頬のあたりまで、続けて上がっていた。
第五話の夜の控えの間のあのカップ。第十六話の夏の四阿のあのカップ。今日の秋のお祝いのこのカップ。三度のカップが重なって、私の両手のひらの中で、今、温かかった。
ヴァランス家のお父様が、席の中で、お母様の顔を、一度、見上げられた。
お母様が、お父様に、わずかに微笑まれた。
その微笑みは、ヴァランス家のお父様とお母様が、娘の席を、今、ようやく一席の隣に置いていらした、深い頷きの形だった。
四阿の中で、席の皆様のお祝いの話が、続けて続いていった。
殿下は、私の席の隣で、紅茶のカップを、一席頂戴していらした。
私も、紅茶のカップを、両手のひらで、続けて温めていた。
紅茶の温かさが、両手のひらの内側に、ゆっくりと、続けて入ってきた。
ヴァランス家の覚書、王宮事務方のご公務、ライナス様の隣の席。三つの席が、同じ時間の中で重なって、今日から始まっていく。
庭園の小さな池の手前で、白い羽根の鳥の羽根が、一度、風で軽く動いた。
殿下の手が、卓のうえで、私の手に、一席、近づいた。
手が重なる前の位置で、一度、止まった。
席の慣例で、席の皆様の前で、手が重ならないのが、一席の礼の形だった。
私は、手を、卓のうえで、軽く一度動かした。
殿下の手の、一席の距離の手前で、止まった。
お互いの手が、卓のうえで、近い距離で並んでいた。
席の皆様の前で、一席の距離で並んでいる手が、これから先、二人の席の時間で、重なっていく、一席の始まりだった。
紅茶のカップの湯気が、頬のあたりで、続けて上がっていた。
「クラリス」
「ライナス様」
「一席ずつ、続けて続いてまいります」
「はい」
殿下の声は、短かった。
私の声も、短かった。
王宮の北棟の庭園の秋の午後の光が、四阿の中央の卓のうえで、ゆっくりと、続けて落ちていた。
ご公務の控えの紙のうえで、一席ずつ続けて整えていらした手が、今日、ライナス様の席の手の隣に、続けて続いていく、一席の時間が、ヴァランス家のうえで始まった。
紅茶の湯気の温かさが、両手のひらの内側に、続けて入ってきた。
その温かさが、お父様の書斎で、家令から「お顔の色が、いつもより落ち着いていらっしゃる」と頂戴した、第一話の朝の、自分の顔に、続いていく、一席の温かさだった。
私の席の隣で、ライナス様の紅茶のカップが、続けて湯気を上げていた。
私の両手のひらの中で、私の紅茶のカップも、続けて湯気を上げていた。
二つの紅茶のカップが、卓のうえで、一席ずつ並んで、湯気を上げていた。
紅茶のカップの中で、紅茶は、まだ温かかった。
これから先の席で、続けて、温かさが続いてまいりますことが、私の両手のひらの中で、一席、ようやく分かりました。




