第二十話 王太子からの打診
父が王宮から戻った夜、応接室の蝋燭が、いつもより長く灯っていた。
ロベルト様のご訪問から、ひと月半が経っていた。
その間に、季節は夏の盛りへ入っていた。庭の薔薇は二度目の花を終え、母は次の季節のために、鉢の植え替えを始めていた。
社交界の動きは、夏期宮内茶会と地方の領地への帰省の時期に入って、ふだんよりも静かになっていた。けれど、その静けさの中で、社交界の側がひとつの方向を向いて動いていることを、私はヴァランス家の客人帳を通じて感じていた。
七月の最初の週、私は王宮事務方のご公務として、夏期宮内茶会の運営担当を務めた。茶会は滞りなく終わった。来賓の方々の評判は、王宮事務方の控えの紙の上に、丁寧に記録された。
その翌週、お父様の書斎に、王宮事務方ではなく、王太子殿下のお名前で書状が届いた。
お父様は、それをご自分の書斎の引き出しに、お入れになった。
「クラリス」
その日の夕食の卓で、お父様は書状のことを、まだお話しにならなかった。母も、お父様のお顔の色を見て、何もお訊きにならなかった。
その三日後、お父様は王宮へお出かけになった。
ご公務のお席ではなかった。王太子殿下からの、私的なお招きのお応召だった。
お父様が、いつもの馬車ではなく無紋の馬車をお選びになって、ヴァランス家を出ていく姿を、私は私室の窓辺から見ていた。
その夜、お父様が戻られたのは、いつもより遅い時間だった。
家令が、応接室に新しい蝋燭を立てた。
母も、私と一緒に、応接室でお父様の帰りを待っていた。
「クラリス」
「お母様」
「お父様のお話は、たぶん、お前と、私と、お父様の三人で聞くことになるわ」
「お母様、お話の中身を、ご存知ですか」
「いいえ。ただ、お父様がお出かけになる前に、家令を通じて『お母様にも、後で話す』とおっしゃっていた、と」
母の声は、いつもどおり落ち着いていた。
応接室の蝋燭が、ふだんよりも一本、多く灯っていた。
家令が、お父様の馬車の音を、応接室の入口で告げた。
「お嬢様、奥様。お父様、お戻りでございます」
お父様は、応接室の入口で、わずかに息を整えてから、お入りになった。
外套を家令にお預けになった時、肩のあたりに、小さな雨の粒がいくつか残っていた。王宮を出る時に、小雨が降っていたらしかった。
「お父様、お帰りなさいませ」
「うん」
「お紅茶を、いかがですか」
「ああ、頼む」
家令が、新しい紅茶を、お父様の前に置いた。
お父様は、紅茶のカップに、ゆっくりとお手を伸ばされた。それから、半分ほど、お口に含まれた。
「クラリス、奥さん」
お父様の声は、いつもより低かった。
「はい」
「王太子殿下から、お話があった」
母は、紅茶のカップに伸ばしかけていた手を、止めた。
私も、席の中で、背中をまっすぐにした。
「ご公務のお話では、ない」
「お父様」
「ライナス殿下と、クラリスの、縁談のお話だ」
応接室の中で、蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
母の口元から、小さな息が、こぼれた。
私は、卓の上の紅茶のカップを、見ていた。湯気がゆっくりと上がっていた。
「王太子殿下は、お話の最初に、ひと言、お言葉を入れてくださった」
お父様は、紅茶のカップを、もう一度お手に取られた。
「『ヴァランス侯爵閣下。社交の慣例で、縁談のお話は、ご家のお父様にお伺いするのが、先の段取りだ』と」
「左様でいらっしゃいますね」
「私は、頷いた」
「お父様」
「『けれど、本日のお話は、ヴァランス家のご令嬢が、すでにご自分で、ご自分のお席を選んでこられた。だから、お父様がご家として先に決めるお話ではない、と、私は思っている。それでよろしいか』と、王太子殿下は続けてくださった」
母の目元が、わずかに動いた。
「お父様、王太子殿下が、私の選択を、お話の最初にお置きくださったのですか」
「ああ」
「お父様、それは」
「クラリス。社交の慣例の側で、王家の縁談のお話の最初のひと言で、ご令嬢の選択を中央に置くのは、ふつうの形ではない」
「お父様」
「王太子殿下は、その慣例をはっきりご承知のうえで、最初のひと言で、お前の選択を中央に置かれた」
応接室の中で、蝋燭の炎が、もう一度、わずかに揺れた。
「お父様」
「うん」
「王太子殿下が、私の選択を中央にお置きになったのは、ライナス殿下の側のお考えですか」
「ああ。私はそう尋ねた。『最初のひと言で、ヴァランス家の令嬢の選択を中央に置かれるのは、ご王家の側で決められたのですか、それとも、ライナス殿下のお側で決められたのですか』と」
「お父様」
「『ライナスの側で決めた。あの子が、ヴァランス家のお父様への話の最初の言葉で、令嬢の選択を中央に置くと、私に頼んできた。私も同意した』と、王太子殿下はお返しくださった」
紅茶のカップが、卓の上で、ゆっくりと湯気を立てていた。
ライナス殿下が、縁談のお話の最初のひと言で、私の選択を中央に置くことを、ご自分でお決めくださっていた。
社交の慣例から外れた置き方を、はっきりご承知のうえで、お選びになっていた。
私は、紅茶のカップに、ようやくお手を伸ばした。
お湯気の温かさが、両手のひらに、軽く入ってきた。
「お父様」
「うん」
「お続けくださいませ」
お父様は、深く頷かれた。
「王太子殿下から、縁談のお話の段取りも伺った」
「お席の段取り、でいらっしゃいますか」
「ああ。『王家の縁談は、二段階で進める。これが慣例だ』と」
「二段階、でいらっしゃるのですね」
「『第一段階で、王家から正式の書面を、ご令嬢のお手元に直接お届けする。ヴァランス家のご令嬢が、ご自分の判断で、ご家のお父様と相談のうえ、お返事を返される。第二段階で、宰相府の調査、国王の承認、ご家の身上の確認のあとに、王家として正式の発表を、王家の小広間で行う』」
「お父様」
「『第一段階の書面が、本日からおよそ一月半の後に、ヴァランス家にお届けする。第二段階の正式の発表は、第一段階のあと、およそ二か月の後だ』と、王太子殿下はお話しくださった」
「一月半と、二か月、ですか」
「ああ」
お父様の声は、続いた。
「王太子殿下は、お話の中で、もうひと言、はっきりお言葉を入れてくださった」
「お父様」
「『ライナスは、急がせるつもりがない。私も兄として、同意した。慣例どおりに、二か月の準備の時間をかけて、進める』」
「お父様、二か月の時間が」
「ああ。第一段階の書面が、本日からおよそ一月半の後に、ヴァランス家に届く。第二段階の正式の発表が、第一段階のあと、およそ二か月の後だ」
「お父様」
「クラリス、時間は、慣例どおりに進む」
母は、紅茶のカップを、卓の脇に、軽く置いた。
「あなた」
「うん」
「クラリスのお返事は、第一段階の書面が届く折に、ご自分のお手で、署名で決めるのですね」
「ああ」
「左様でいらっしゃいますね」
「クラリスが、お止めになる選びも、お進みになる選びも、お任せだ」
応接室の中で、蝋燭が、もう一本、続けて灯っていた。
「お父様、お母様」
私の声は、自分でも、わずかに不思議な落ち着きを持っていた。
「はい」
「ありがとうございます」
「クラリス」
母は、席の中で、両手を、わずかに重ねられた。
「ヴァランス家の母方、ベルロワ家の慣例で、令嬢が縁談の答えを、自分の手で署名する。それは、私の伯母様の代から、続いている」
「お母様」
「私もヴァランス家にお嫁ぎする折に、自分の手で署名で決めました」
「お母様」
「クラリス、選びを、自分のお手で、決めなさい」
母は、私の頭を、片手で、一度だけ、軽く触れられた。
それは、母が私に対して見せる、限られた抱きしめの形だった。
ライナス殿下がヴァランス家にお越しになったのは、お父様の王宮からのお帰りの、二日のあとだった。
ご公務のお席ではなかった。
ライナス殿下が、私的なご訪問で、ヴァランス家にお越しになるのは、これまでに、お父様の書斎にお越しになった一度のほかには、なかった。
殿下の馬車は、無紋の馬車だった。お供も、一人だけだった。
応接室に、家令が殿下をお通しした。
私は、お父様の書斎ではなく、応接室で、一人で、殿下をお迎えした。
お父様は、応接室の隣の小さな控えの間で、別の書面を整えながら、控えていらした。お話の中には入らないけれど、家の中で、私が一人ではない、ということを、家令を通じて、殿下にも伝わるように、と。
応接室の中で、私と殿下と、二人だけになった。
家令が紅茶を運んできて、応接室の入口を、軽く閉めた。
「クラリス嬢」
殿下の声は、いつもどおり、低かった。
控えの間で頂戴したご公務の声でもなく、王宮の庭園の四阿で頂戴したお紅茶の席の声でもなかった。
一文ずつ、短く区切ってお話しになる声だった。
「殿下」
「縁談のお話、お父様からお伺いになりましたか」
「はい、頂戴しております」
「お話の中身を、ヴァランス家の中で、お父様からお聞きになりましたか」
「はい」
「第一段階のお時間が、一月半の後。第二段階のお時間が、第一段階から、二か月の後でございます」
「伺っております」
殿下は、紅茶のカップを、卓の上で、軽くお置きになった。
「クラリス嬢」
「殿下」
「私から、ご自分の口で、一言、お伝えに参りました」
「殿下」
「クラリス嬢が、第一段階の書面で、お断りの答えをお返しになる場合、私はお断りを、そのままお受けいたします」
応接室の中で、紅茶の湯気が、薄く、続けに上がっていた。
「クラリス嬢が、第二段階の発表までの間に、お考えが変わって、申し入れを取り下げをお求めになる場合も、王家の側で、取り下げの手続きを進めます」
「殿下」
「クラリス嬢の選びを、最後まで、ご自由にしていただけるよう、王家の側で、お席を整えてございます」
殿下の声は、短かった。
私は、紅茶のカップを、手に取らないままで、殿下を、見上げた。
「殿下」
「はい」
「ひとつだけ、お伺いしてもよろしゅうございますか」
「はい」
「私がお断りの答えをお返しした場合、王家とヴァランス家の社交のお席は、何か変わりますでしょうか」
殿下は、わずかに、微笑まれた。
それは、安心の色のある微笑みだった。
「クラリス嬢」
「殿下」
「お断りでも、ヴァランス家と王家の社交は、何も変わりません」
「殿下」
「ヴァランス家のご令嬢の王宮事務方のご公務も、お断りで、お続いてまいります」
「殿下」
「ご公務は、ヴァランス家のご令嬢のお仕事のお値打ちに対する、王家の側の、別のお席の評価です。縁談のお話とは、別のお話でございます」
殿下の声は、短く、続いた。
「縁談をお断りなさることで、ヴァランス家のご令嬢が、王家の側のお仕事を失う、というような形には、決して、いたしません」
「殿下」
私は、紅茶のカップに、ようやく手を伸ばした。
紅茶の温かさが、両手の指の内側に、軽く、入ってきた。
「殿下」
「はい」
「お言葉、頂戴いたします」
殿下は、深く頷かれた。
「クラリス嬢の選びを、最後まで、ご自由にしていただいたうえで、私から、ひとつだけ、お伝えしたいことがございます」
「殿下、お伺いいたします」
「クラリス嬢が、お席のお仕事を、続けて、整えていらしたお時間を、私は、二年以上、見続けてまいりました」
「殿下」
「最初は、敬意でございました」
「殿下」
「敬意が、時間をかけて、深まりまして、王宮の庭園の四阿で、お疲れのお言葉を、ご自分のお口でお話しくださった折に、敬意が、別の形に変わりました」
「殿下」
「分かち合いの席に、変わりました」
殿下は、紅茶のカップを、軽く卓の上に戻された。
「クラリス嬢」
「殿下」
「縁談の申し入れは、その分かち合いの席を、これから先も、続けてまいりたい、という、私の側からの、申し入れでございます」
「殿下」
「お選びは、最後まで、ご自由でございます」
応接室の中で、紅茶の湯気が、続けに上がっていた。
私は、紅茶のカップを、両手のひらの中で、軽く包んだ。
紅茶の温かさが、両手のひらの内側に、ゆっくりと、入ってきた。
「殿下」
「はい」
「第一段階の書面が、ヴァランス家に届く時に、私は、自分の手で、署名で、答えを決めます」
「クラリス嬢」
「殿下、最後の決めまで、お時間を、頂戴いたします」
「ご自由でございます」
殿下は、席の中で、わずかに頭を下げた。
応接室の中で、お父様の控えの間の側で、家令が、小さく声を入れた。
「お嬢様、殿下、紅茶のお代わりは、いかがですか」
「いえ」
殿下は、家令にお返事を向けた。
「お時間を頂戴しております。お父様に、お入りいただくのを、お待ち申し上げます」
家令は、深く頷いて、お父様の控えの間のほうへ、進んだ。
少し経って、お父様が、応接室にお入りになった。
殿下は席を立たれて、お父様に頭を下げた。
「ヴァランス侯爵閣下」
「殿下、お話は」
「クラリス嬢に、第一段階の書面の申し入れの、お席の準備を、お伝えいたしました」
「左様でございますか」
「クラリス嬢の選びを、お止めも、お進みも、最後まで、ご自由に整えてございます」
殿下は、お父様にも、深く頭を下げた。
「ヴァランス家の社交のお席は、お断りでも、何も変わりません」
「殿下、お言葉、頂戴申し上げます」
お父様は、深く頭を下げた。
殿下は、席を立たれる準備で、応接室の入口の近くに、進まれた。
応接室の入口で、もう一度、私の目を、見上げられた。
「クラリス嬢」
「殿下」
「お選びを、最後まで、ご自由になさいませ」
殿下の声は、短かった。
「殿下、お言葉、頂戴申し上げます」
殿下は、頭をわずかに下げて、応接室をお出になった。
家令が、玄関までお見送りに出た。
応接室の中で、お父様と、私と、紅茶のカップだけが残った。
「お父様」
「うん」
「ライナス殿下は、お言葉を、一文ずつ、短く区切ってお話しくださいました」
「ああ」
「短い言葉で、私は、一文ずつ、受け止める時間を、頂戴いたしました」
「クラリス」
「お父様」
「お前の選びを、お止めも、お進みも、お父様は同意だ」
「お父様、ありがとうございます」
応接室の中で、蝋燭が、続けて灯っていた。
「お父様」
「うん」
「第一段階の書面が、一月半の後にヴァランス家に届く折に、私は、自分の手で、署名で、決めたく存じます」
「ああ」
「答えの中身は、一月半の間に、自分の中で、整えてまいります」
お父様は、深く頷かれた。
「クラリス。お父様は、お前の選びを、見続けている」
その晩、書斎で、私は客人帳の頁を開いた。
七月のお席の覧に、ライナス殿下のご訪問を、一行、書き加えた。
「ライナス殿下、ご私的訪問。縁談の申し入れの、第一段階の準備のお伝え。私の選択が、お話の中央に置かれていることを、ご自分のお口で、確認。」
その下に、もう一行、短く書き足した。
「一月半の後、第一段階の書面が、ヴァランス家に届く。答えは、自分の手で、署名で、決める。」
書斎の窓の外で、夏の夜の空気が、ゆっくりと、深くなっていた。
ご公務のお席で、一つずつ、続けて整えてきたことが、一月半の後に、第一段階の書面で、自分の手で、署名で、決めることに、つながる。
その時の私の気持ちが、今夜の書斎の机の蝋燭よりも、明るくなることが、自分の中で、わずかに、見えていた。
書斎の蝋燭を、吹き消す前に、私は、机のうえの便箋を、一枚整えた。
ライナス殿下にお返事を書くのではなかった。
第一段階の書面の折に、自分の手で署名で決める、その時の自分の気持ちを、今夜のうちに、自分の中で確かめるための、一行の覚書だった。
「自分の手で選び、自分の足で進むと決めることで、私の中の答えは、少しずつ整いつつある。」
そのひと言を、机のうえに、軽く置いた。
書斎の蝋燭を、吹き消す前に、もう一度、便箋の覚書を、見上げた。
お進むに、決めることで、私の中で、整いつつあった。
書斎の蝋燭を、ようやく、吹き消した。
ヴァランス家の門の外で、夏の夜の虫の音が、続けて響いていた。




