第十九話 ロベルトの遅すぎた謝罪
ロベルト様の馬車が門を入る音を、私は私室の窓から聞いた。
王宮の大規模夜会から、半月が経っていた。
その半月のあいだに、社交界の動きは、目に見えて変わっていた。公爵家のご当主夫妻が揃って出席なさる催事の数が、二件、立て続けに減った。ヴァランス家への招待状は、ひと月で十五通を超えた。客人帳の新しい頁は、家令と二人で、毎週書き足している。
そして半月前、公爵夫人エレオノール様のお口から、社交界の中央で、はっきりと言葉が出ていた。「我が公爵家は、最も信頼すべき令嬢を失いました」――そのひと言は、王宮の議事の控えの紙の上にも、すでに記録されている。
ロベルト様がヴァランス家を訪ねたい、と、お父様に書状が届いたのは、昨日の朝のことだった。
「クラリス」
昨日の午後、お父様の書斎で、私はその書状を受け取った。
「お父様」
「ロベルト様から、明日の午後、ヴァランス家への面会の希望が届いた。ご当主の名前を経由せず、ロベルト様ご自身の名で、書状を送ってこられた」
「公爵閣下の名前ではないのですね」
「ああ。これは、ロベルト様ご自身が、ようやく、ご自分の名で、お謝りに来られる準備が、ご自分の中で整った、ということだ」
私は、書状を、ゆっくりと卓の上に置いた。
「お父様」
「うん」
「お会いいたします」
「即答だな」
「はい」
「お前は、応接室でお会いするか、お父様の書斎でお会いするか、どちらを選ぶ」
「応接室で、お会いいたします」
私の声は、わずかに、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「もうひとつ、お父様にお願いがございます」
「うん」
「ライナス殿下に、同席をお願いしてもよろしいでしょうか」
お父様は、書面を、机の上で軽く置かれた。
「殿下のご同席は、席の重みの置き方として、はっきりしたものになる」
「はい」
「ロベルト様に、席の意味を、はっきり受け止めていただくためか」
「お父様、それも、ひとつでございます。けれど、もうひとつあります」
「うん」
「私が、ロベルト様の話を、一人で受け取って、一人で返事をするのは、もう、私には、しなくてもよろしい、と、思いました」
「クラリス」
「殿下がご同席なさるのは、私が、私の判断を、誰かと一緒に下す、ということではございません。殿下の席が、私の隣にあることで、私は、一人で立つのではない、ということを、ロベルト様にも、私自身にも、確かめたいのです」
お父様は、しばらく、私の顔を見ていらした。
それから、わずかに微笑まれた。
「殿下にお伺いを差し上げよう。ご公務の席ではないので、お返事がいただけるかどうかは、殿下のご判断だ」
「お父様、ありがとうございます」
その晩のうちに、お父様の書斎からライナス殿下へ、私的のお伺いの書状が送られた。
返事は、翌朝、いつもより早い時間に届いた。
「ヴァランス侯爵閣下
お伺いの件、承知いたしました。
ご公務の場ではないご訪問に、私が同席するのは、社交界の側で、席の意味を、わずかに重くいたします。
その重みを、クラリス嬢が、ご自分の側から求めてくださっているのであれば、私は、席の隣に立たせていただきます。
判断と発言は、最後まで、クラリス嬢にお委ねいたします。
午後、お時間に合わせて、ヴァランス家に伺います。
ライナス・グレオール」
短い返事だった。
殿下は、ご公務の場ではないことを、はっきりとご承知のうえで、席の隣に立つ、と決めてくださった。
そして、判断と発言は、最後まで、私に委ねる、と書いてくださった。
ロベルト様の馬車が、ヴァランス家の門を入った。
その音を、私室の窓辺で聞いていた私は、立ち上がって、応接室のほうへ向かった。
廊下で、家令と行き合った。
「お嬢様」
「ありがとう」
「殿下は、十分ほど前に、お父様の書斎にお着きでいらっしゃいます」
「先に、お父様の書斎へ伺います」
私は、お父様の書斎へ入った。
殿下は、お父様の机の手前の席に腰を下ろしていらした。衣装は、ご公務の席のものではなく、身軽な普段のものだった。お父様も、応接の場のための堅い衣装ではなく、いつもの書斎着のままでいらした。
「殿下、お越しくださり、ありがとうございます」
「クラリス嬢」
殿下は席を立たれた。
「席の重みを、一段、軽くしたく、私の衣装も、ご公務の格ではないものにしてまいりました」
「殿下」
「席で話が長くなる場合、席の時間に疲れが出ないように、ご公務の衣装ではないほうが、よろしいかと存じます」
殿下の声は、低く、落ち着いていらした。
私は深く頭を下げた。
「お父様、殿下。応接室に、ロベルト様をお通しいたします。席の支度が整いましたら、声をおかけいたします」
「うん」
私は応接室へ向かった。
応接室で、家令がロベルト様をすでに通していた。
ロベルト様は、ソファに腰を下ろしていらした。衣装は、夜会の時の落ち着いた藍色ではなく、初夏の昼の濃灰色の上着だった。顔の色は、半月前に夜会でお会いした時より、わずかに痩せていた。
「クラリス嬢」
ロベルト様は、私の姿を見るなり、席を立たれた。
「ロベルト様、お越しくださり、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
ロベルト様も、深く頭を下げられた。
それは、これまで婚約期間中に、ご自分の席で、私に対して下げたどのお辞儀よりも、深いお辞儀だった。
「クラリス嬢」
「ロベルト様」
「席につく前に、ひとつだけ、お伝えしたい」
「はい」
「本日、ご面会の場に、ライナス殿下が同席なさる、と、家令から伺いました」
ロベルト様の声は、わずかに固くなった。
「殿下のご同席は、覚悟しております。私の側からも、席の場の意味を、深く受け止めて、お話しに参りました」
「ロベルト様」
「私の側で、ご公務ではないご訪問に、王家の席が同席することが、社交界で、どのように受け止められるか、すでに承知しております」
ロベルト様は、もう一度、深く頭を下げられた。
「それでも、本日、お会いいただけることに、感謝申し上げます」
「ロベルト様、ようこそお越しくださいました。席にお進みください」
私は、ロベルト様に席を勧めてから、家令に、お父様と殿下を呼ぶよう、頼んだ。
少し経って、お父様と殿下が、応接室にお入りになった。
殿下は、応接室の入口で、ロベルト様に頭を下げた。
「モンフォール公爵令息」
「殿下、お忙しいところを、お席を頂戴し、ありがとうございます」
ロベルト様は、席を立って、深く頭を下げられた。
殿下は、お父様の隣の席に腰を下ろした。私は、お父様と殿下の側の、もうひとつの席に腰を下ろした。
応接室の中で、家令が紅茶を運んできた。
紅茶のカップが、それぞれの前に置かれた。
ロベルト様は、紅茶のカップを手に取らなかった。両手は、膝の上で、一つに重ねていらした。
「クラリス嬢」
ロベルト様の声は、応接室の中で、静かに落ちた。
「はい」
「ヴァランス侯爵閣下、ライナス殿下にも、伺っていただきたく存じます」
「うん」
「殿下」
殿下は、わずかに頷かれた。
「本日、僕がこちらに伺いましたのは、お謝りに上がる、ということでございます」
ロベルト様は、席の中で、背中をまっすぐにされた。
私的の場であることを、ロベルト様ご自身が、一人称を「私」から「僕」に変えて、はっきり示された。
「クラリス嬢、三年の婚約期間中、僕は、一席ずつ、あなたに席を譲っていただいてまいりました。譲っていただいた回数は、三十二回、と、先日、ヴァランス侯爵閣下の席で、ご令嬢の口から、初めて伺いました」
「はい」
「僕は、その三十二回を、クラリス嬢に数えさせていたのです」
ロベルト様の声は、わずかに震えた。
「クラリス嬢が、一席ずつ数えていたのを、僕は、ようやく、自分の側で受け止めました」
「ロベルト様」
「クラリス嬢、申し訳ございませんでした」
ロベルト様は、席の中で、深く頭を下げた。
応接室の中で、しばらく、紅茶の湯気だけが、静かに上がっていた。
私は、紅茶のカップを、手に取らなかった。
「ロベルト様」
「はい」
「お謝りの言葉、頂戴いたしました」
「クラリス嬢」
「ロベルト様、ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
私は、席の中で、背中をまっすぐにした。
「ロベルト様の書斎の机の上に、一年、開かれないままで置かれていた覚書がございました」
ロベルト様の顔が、わずかに止まった。
「ロベルト様、ご記憶ですか」
「はい」
「先日、公爵閣下が、ヴァランス家にお越しくださって、その覚書を、私に返してくださいました」
「はい」
「ロベルト様は、なぜ、その覚書を、一年、お開きにならなかったのですか」
応接室の中で、ロベルト様の息が、わずかに止まった。
ロベルト様は、しばらく、紅茶のカップに目を落としていらした。
「クラリス嬢」
「はい」
「あなたの手の覚書で、席組みの仕方、贈答の品の格付け、招待状の格、それらが、整え書きされていた、というのは、机の上で一度開いた時に、僕には見えました」
「一度は、お開きになったのですね」
「はい」
「一度開いただけで、その後は、続けなかった」
「はい」
「なぜ、続けなかったのですか」
ロベルト様は、しばらく、紅茶のカップを見ていらした。
「クラリス嬢」
「はい」
「あなたの手の書きを、一席ずつ、自分の側で読み直すと、一席のことが、見えてしまうのです」
「一席のこと、ですか」
「あなたの手の書きで、席組みが、リーゼの席を、お母様の代わりの席に置き続けることで、続いていた、ということが、見えました」
ロベルト様の声は、わずかに低くなった。
「僕が、あなたの手の書きを、続けて読んでいくと、リーゼのお母様の代わりの席を、僕が、あなたの席の紙の上で、続けて頼んできたことが、見えてしまうのでございました」
「ロベルト様」
「僕は、机の上で、一度開いて、それから、続けて読むことが、できないままでいました」
ロベルト様の声は、わずかに途切れた。
「机の上で、続けて眠らせたままにしていたのは、僕が、見たくない、ということでございました」
応接室の中で、紅茶のカップの湯気が、ゆっくりと薄くなっていた。
「クラリス嬢」
「はい」
「あなたの席の仕事を、僕は、見ない、ということを、一年、続けてまいりました」
ロベルト様は、席の中で、もう一度、深く頭を下げた。
「申し訳、ございませんでした」
私は、紅茶のカップを、ようやく手に取った。
紅茶は、まだ温かかった。
「ロベルト様」
「はい」
「見ない、ということを、一年続けていらしたのが、ロベルト様の側の、いちばん重い落ち度でいらした」
「クラリス嬢」
「見ない、ということで、私の三年が続いていたのが、私が、最後に降りることに、つながりました」
「クラリス嬢」
「ロベルト様」
「はい」
私は、紅茶のカップを、卓の上に軽く戻した。
「お謝りの言葉、お受けいたします」
ロベルト様の顔が、わずかに上がった。
「けれど、ロベルト様」
「はい」
「お謝りの言葉をお受けすることと、席に戻ることは、別の話でございます」
応接室の中で、ロベルト様の目が、わずかに動いた。
「クラリス嬢」
「ロベルト様、私は、もう、戻りません」
私の声は、応接室の中で、静かに落ちた。
ロベルト様は、頭を、わずかに下げた。
「クラリス嬢」
「はい」
「戻っていただくことを、僕は、求めに参ったのではございません」
「ロベルト様」
「お謝りに参ったのでございます。戻りの話を、求めに参ったのではございません」
ロベルト様の声は、わずかに震えた。
「クラリス嬢、戻りを求めないで、本日、席に伺いました」
「ロベルト様」
「戻りの話が、僕が、あなたの席の仕事を、見ないままでいたことの、続きになる、と、僕は、自分の側で分かりました」
「ロベルト様」
「ご令嬢から、戻らない、と、はっきりおっしゃっていただくことで、僕は、自分の側で、見ないままでいたことに、ようやく、向き合うことに入ります」
ロベルト様は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
応接室の中で、しばらく、誰も、言葉を入れなかった。
殿下は、席の中で、黙っていらした。
お父様も、黙っていらした。
ロベルト様が、ご自分の口で、「戻りの話を、求めに参ったのではない」と、はっきり言葉を入れていらした。
それは、ロベルト様が、私の側の判断を、最後まで尊重なさる、一席の言葉だった。
「ロベルト様」
「はい」
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「リーゼ様の席は、今、いかがでいらっしゃいますか」
ロベルト様の口元が、わずかに動いた。
「リーゼは、先の席で、ヴァランス家に伺った、と、聞きました」
「はい」
「リーゼが、自分の口で、お母様の代わりの席を止める、と、僕に伝えました」
「左様でございますか」
「リーゼが、お母様の代わりの席を、僕に頼まないところに進んでいる、ということでございます」
ロベルト様は、紅茶のカップを、ようやく手に取った。
「僕が、リーゼに、お母様の代わりの席を、続けて整えていたことで、リーゼが、一人で席を選ぶのが、一年、遅うございました」
「ロベルト様」
「リーゼが、本月、ボーモン家のお茶会の席を、自分で組まれた、と、聞きました」
「はい」
「ボーモン家として、リーゼが、一席ずつ、正しい席に戻っていらっしゃる、ということでございます」
ロベルト様の口元が、わずかに微笑になった。
それは、一席の、疲れた微笑だった。
「クラリス嬢」
「はい」
「リーゼが、自分の手で席を選ぶところに入っていたのが、あなたの席の仕事に続いていた結果でいらした、と、僕は、ようやく分かりました」
「ロベルト様」
「あなたが、席の仕事を続けて整えていらしたことで、リーゼが、自分の手で席を選ぶところに入っていたことで、僕は、席の上で、居場所を失いました」
「ロベルト様」
「それも、僕の、当然のことでございます」
ロベルト様は、紅茶のカップを、卓の上に軽く戻された。
「クラリス嬢」
「はい」
「僕が、お母様の代わりの席を、続けて整えていたのは、僕の、居場所の作り方でいらした、と、今、分かりました」
「ロベルト様」
「リーゼに、お母様の代わりの席を、続けて整えることで、僕は、居場所を一席、持っていたのでございました」
ロベルト様の声は、わずかに途切れた。
「ご令嬢の、席の仕事で席を整えていたことに、僕は、居場所を、長く、依存していたのでございました」
「ロベルト様」
「ご令嬢が降りて、リーゼが、自分で席を選ぶところに入って、僕は、居場所を失いました」
「ロベルト様」
「それは、僕の、一席の、学びでございます」
ロベルト様は、深く頭を下げた。
応接室の中で、紅茶の湯気が、もう、ほとんどなかった。
「ロベルト様」
「はい」
「居場所が、見つかりますように」
私の声は、短く、応接室の中に落ちた。
ロベルト様は、わずかに頭を上げた。
「クラリス嬢」
「はい」
「お言葉、頂戴申し上げます」
ロベルト様は、席を立たれた。
応接室の入口で、もう一度、深く頭を下げた。
「ヴァランス侯爵閣下、ライナス殿下、お席を頂戴し、ありがとうございました」
「うん」
殿下は、席のままで、わずかに頭を下げた。
ロベルト様は、応接室の入口で、もう一度、私に向き直って、深く頭を下げた。
「クラリス嬢」
「ロベルト様」
「お幸せに、おなりください」
その短い言葉のあとで、ロベルト様は、応接室を出られた。
家令が、玄関まで見送りに出た。
応接室の中で、お父様と殿下と、私と、紅茶のカップだけが残った。
馬車の車輪の音が、ヴァランス家の門の外で、ゆっくりと遠ざかっていった。
「クラリス」
お父様は、紅茶のカップを、卓の上に軽く戻された。
「お父様」
「お前は、応接室の扉を、自分で閉めなさい」
「お父様」
「お謝りの言葉をお受けすることと、席に戻らないことは、別の話だ。お前が、応接室の扉を、自分で閉めることが、その別の話の、区切りになる」
私は深く頷いた。
家令が、お父様と殿下に、紅茶をもう一度淹れ直すために、応接室を出た。
私は、応接室の入口に立った。
応接室の扉は、家令が、ロベルト様を見送りに出た時から、半分ほど開いていた。
私は、扉の手に手をかけた。
ゆっくりと、自分の手で、扉を閉めた。
扉の閉まる音は、応接室の中で、小さく響いた。
夜会で扇を閉じた音よりも、席の重みのある音だった。
応接室の中に戻ると、お父様と殿下が、紅茶のカップを、手に取っていらした。
「クラリス嬢」
殿下の声は、いつもより、短かった。
「殿下」
「席で、一席ずつ、続けて務めていただいたことで、本日の席が整いました」
「殿下、席で見守りいただきました、ありがとうございました」
殿下は、わずかに頷かれた。
「席で、言葉を入れることが、一度もございませんでした」
「殿下、見守りいただいたことが、私が、席で、一席ずつ続けて話を続けるのに役に立ちました」
「クラリス嬢の席の決断は、見事でいらした」
殿下の声は、短かった。
けれど、声の奥に、席で、一席ずつ見ていた、深い見守りが入っていた。
「お父様」
「うん」
「ロベルト様が、最後に、『お幸せに、おなりください』と、言葉を入れてくださいました」
「ああ」
「あの言葉は、一席の、区切りの言葉でございました」
「だな」
お父様は、紅茶のカップを、卓の上に軽く戻された。
「クラリス」
「はい」
「お前が、応接室の扉を、自分の手で閉めたことで、席の区切りが、一席、整った」
「お父様」
「お前は、席で、一席ずつ続けて務めなさい」
私は、深く頭を下げた。
その晩、書斎で、私は、客人帳の頁を開いた。
ヴァランス家の客人帳の本月の席に、ロベルト様の、本日の訪問を、一席書き加えた。
「モンフォール公爵令息ロベルト様、ご私的訪問。お話の中身、お謝りのこと。席で、区切りの確認。」
その下に、一行だけ、短く書き足した。
「席で、戻りの話には、出ない、と確認。」
書斎の窓の外で、初夏の遅い夜の空気が、ゆっくりと深くなっていた。
書斎の扉を、軽く閉めた。
応接室で、自分の手で扉を閉めた音が、まだ、自分の中で響いていた。
その音は、夜会で扇を閉じた音よりも、ずっと重く、確かな音だった。




