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『彼女は家族同然なんだ』と繰り返すあなたへ。では、私は婚約者を辞めます  作者: 九葉(くずは)


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18/22

第十八話 公爵夫人の宣言

夜会の広間に入った瞬間、私はもう、ここで何をすべきか迷わなかった。


王宮主催の春期の大規模夜会は、王都の社交シーズンの中央に置かれる催事だった。来賓の数は六百名を超える。王家のご家族が揃って臨席なさり、王都の主要な家がほとんど招かれる。準備にかかる時間は、ふだんの王宮夜会の倍。私が王宮事務方のご公務の運営担当として、初めて担当する大規模夜会だった。


控えの間に入ったのは、開場の三時間前だった。


王宮侍従長と、文官のお二人、そしてライナス殿下が、すでに卓を囲んでいらした。


「ヴァランス侯爵令嬢、おはようございます」


「侍従長様、おはようございます」


「席次表の最終確認をお始めください」


私は、卓のうえの席次表を取り上げた。


六百席の席次表は、私が二週間かけてお父様の書斎と王宮の控えの間を往復しながら、何度も書き直してきたものだった。来賓の名簿が、開場の前日まで増減を繰り返す。最後の三十名分の席が、開場の三時間前まで決まらないのが、大規模夜会の常だった。


「クラリス嬢」


殿下の声は、いつもどおり低かった。


「殿下」


「最後の三十名のうち、二十二名分が、昨夜遅くに確定いたしました。残り八名分が、本日、開場の二時間前までの確定でございます」


「八名、ですか」


「はい」


殿下は、卓のうえに、新しい来賓の控えを置かれた。


私はその八名の家名を、ゆっくりと目で追った。


伯爵家三家、子爵家四家、そして、もう一名。


「殿下」


「はい」


「八名のうち、最後の一名のお名前は」


「モンフォール公爵夫人エレオノール様でございます」


私は、紙から目を上げた。


殿下の顔は、いつもと変わらなかった。


「公爵夫人が、本日、ご出席だ、と、昨夜遅くに、家のご家令から、王宮の侍従長へ、連絡があった」


「公爵閣下は」


「ご欠席。ロベルト様の名前も、席にない」


「公爵夫人、お一人でいらっしゃるのですか」


「はい」


王宮の春期大規模夜会で、ご当主と嫡男が欠席で、公爵夫人が一人で出席なさるのは、私の知る限り、過去十年で一度もないことだった。


「殿下」


「はい」


「席は、いかが組みましょうか」


「クラリス嬢の判断にお任せいたします」


殿下は、淡々とおっしゃった。


私は、席次表の中央付近を、もう一度、目で追った。


公爵家の席は、本来、楽団の正面、来賓の中央列の三席目に置かれていた。公爵家の名で予約されていた席は三席。当主、夫人、嫡男のための席だった。当主と嫡男が欠席ということは、その二席は、空席になる。空席を、夫人の隣に二つ並べて残すのは、社交界の慣例として、不適切だった。


「侍従長様」


「はい」


「公爵家の三席のうち、ご夫人の席を残し、当主と嫡男の席は、近隣の家の席で埋め直します」


「どちらの家を回されますか」


「ベルナール伯爵閣下の席を、一席、公爵家の側に移します。ベルナール家のおいでは、現在の席が、楽団の左側の三列目。公爵家の側に移すと、楽団の正面、来賓の中央列に上がります」


「ベルナール家の席の上がりは、一段の格上げ、ですね」


「はい。ベルナール伯爵閣下は、年配で、楽団の左側よりも、中央列のほうが、お耳に適しております。席組みの段階で、私も気になっておりました」


「もう一席は」


「カランド伯爵閣下の席を、一席、移します。カランド家も、年配の席で、中央列のほうが適しております」


侍従長は、深く頷かれた。


「クラリス嬢、席組みの修正案を、書面で整えてください」


「承知いたしました」


私は、卓のうえで、修正案を書き始めた。


修正案を書きながら、私の手は、もう止まらなかった。


公爵家の席に、ベルナール家とカランド家が移される。


それは、社交界の見る目で、はっきりとした評価の動きだった。先日のコンタール伯爵家の銀婚の催事で、贈答の取り違えで、公爵家の格は、一段下がっていた。本日の夜会で、ベルナール家とカランド家の二家が、公爵家の側に上がる。


その二家は、過去ひと月で、公爵家の席を辞退なさった二家だった。


家の動きとして、二家の席が、公爵家の側に上がるのは、辞退をなさった二家が、ご自分の席で、公爵家の格を超えていく、という、はっきりとした方向だった。


「殿下」


「はい」


「公爵夫人様の席の左隣に、ベルナール伯爵閣下の席を移したく存じます」


「ベルナール家の席を、公爵夫人の左隣に」


「はい」


「カランド伯爵閣下の席は」


「公爵夫人様の席の右隣に移します」


殿下の口元が、わずかに動いた。


それは、一席の微笑だった。


「クラリス嬢、席組みの修正案、ご公務の正式案として進めてください」


「殿下」


「公爵夫人の席の両隣に、ベルナール家とカランド家が並ぶのは、社交界の見る目で、はっきりとした意味を持ちます」


「はい」


「公爵夫人が、本日、一人でいらっしゃる意味を、席組みで引き受けてくださっている、と、王宮事務方として受け止めます」


私は、深く頷いた。


席次表の修正案を、家令と侍従長で確認していただいた。両家とも、席の格上げに、喜びの返事を、開場の二時間前までに返してくださった。


開場の刻限が、来た。


私は、ご公務の運営担当として、広間の入口の脇に立っていた。来賓が、一席ずつ、広間に入っていらっしゃる。一人ずつ、席へ進まれる。


公爵夫人エレオノール様がお入りになったのは、開場から、ちょうど半刻が経った頃だった。


家令と、一人の侍女だけを連れていらした。衣装は、深い灰色の落ち着いた一着。首元には、小さな銀の飾り。社交界の中央の席で、一人で立つことに、最もふさわしい品の格だった。


私は、広間の入口の脇で、深く頭を下げた。


「公爵夫人様、お越しくださり、ありがとうございます」


「ヴァランス侯爵令嬢、おはようございます」


公爵夫人様の声は、いつもどおり、落ち着いていた。


「席は、ご準備済みでございます。中央列の、両隣のご家のおいでは、本日の朝に席を移すことで、喜びの返事を頂戴しております」


「左様でございますか」


公爵夫人様の目元が、ほんの少しだけ動いた。


それは、驚きではなく、納得だった。


「クラリス様」


「はい」


「席組みの修正、ありがとうございます」


公爵夫人様は、小声で、私のほうへ伝えてくださった。


「ヴァランス家の側で、席組みが見えていらした、と、本日の席で、一段整っております」


「公爵夫人様」


「席に進みます」


公爵夫人様は、深く頭を下げてから、広間の中央の席のほうへ進まれた。


ベルナール伯爵閣下と、カランド伯爵閣下が、すでにご自分の席に腰を下ろしていらした。両家のおいでで、公爵夫人様が進むのに合わせて、席を立って迎えた。


公爵夫人様は、ベルナール伯爵閣下と、カランド伯爵閣下の両方に、深く頭を下げられた。


それは、社交界の中央の席で、一席の目を引く動きだった。


公爵家が、伯爵家の両家に、公の場で深く頭を下げる。本来であれば、社交界の格の動きで、逆のお礼の場面だった。


広間の中で、来賓の視線が、わずかに動いた。


夜会の始まりの時刻が、来た。


王家のご家族が、広間にお入りになった。


王太子殿下、ライナス殿下、そして、王太后陛下。


王太子殿下のお開会の挨拶のあと、楽団の演奏が始まった。


最初の踊りの輪が、席の正面で、ゆっくりと回り始めた。


私は、広間の入口の脇から、席の動線を見ていた。


夜会の半ばまで、席は、一席の乱れもなく進んだ。


ベルナール伯爵閣下と、カランド伯爵閣下が、公爵夫人様の両隣の席で、席の話を交わしていらした。話は長くは続かなかった。けれど、話が席で続いていたことが、広間の他の席にも、はっきりと見えていた。


夜会の半ばの少し前、楽団の演奏が、一段、ゆっくりとした曲に変わった。


その時のことだった。


公爵夫人エレオノール様が、席を立たれた。


侍女が、後ろに続いて動こうとなさった。けれど、公爵夫人様は、手のひと振りで、侍女を席に戻させた。


公爵夫人様は、お一人で、広間の中央の席から、動きを始められた。


進む方向は、楽団の側ではなかった。


王家のご家族の席の側でもなかった。


広間の入口の脇――私が運営担当として見ていた、その位置のほうへ、進んでいらした。


私は、席で動きを止めて、頭を下げた。


公爵夫人様は、私の前で、立ち止まられた。


それから、小さい侍女に、短く声を入れた。


「ヴァランス侯爵令嬢の席で、一席、話があります。お時間を、頂戴したく存じます」


侍女は、深く頭を下げて、席の側に離れた。


公爵夫人様は、私の目を、見上げられた。


「クラリス様」


「公爵夫人様」


「席で、お話を頂戴してもよろしゅうございますか」


「はい」


公爵夫人様は、息を整えた。


それから、声を、わずかに高くされた。


広間の入口の脇で、話の声が、席の来賓の方々の耳に届く高さだった。


「ヴァランス侯爵令嬢クラリス様」


公爵夫人様の声は、楽団の演奏の薄い間を、選ばれていた。


「本日の席で、私が一人で席に立つことが、本日の席組みで、一段、整いを頂戴しました」


公爵夫人様の口元は、落ち着いていらした。


広間の中で、楽団の側で、楽団長が、わずかに、演奏の速さを落とした。


「席組みで、ベルナール伯爵閣下、カランド伯爵閣下の両家を、私の両隣に置いてくださっていたのは、本日の席で、お話を頂戴することにつながりました」


広間の中で、来賓の方々の席で、紙の薄い扇の動きが始まった。


「ヴァランス侯爵令嬢クラリス様の席組みで、一席ずつ整いを頂戴してまいりましたのは、今日の席だけのことではございません」


公爵夫人様の声は、一段、続いた。


「私が、本日、出席することで、社交界に、正式にお伝えしたいことが、ございます」


広間の中で、楽団の演奏が、小さく続いていた。


公爵夫人様は、首を、わずかに広間の中央のほうへ向けられた。


そして、はっきりと、声を続けられた。


「我がモンフォール公爵家は、先の席で、最も信頼すべき令嬢を、失いました」


広間の中の空気が、わずかに止まった。


ベルナール伯爵閣下の席で、扇が、はっきりと開かれた。


カランド伯爵閣下の席で、席の紙で、ゆっくりと頷きが入った。


ローズリー伯爵夫人の席で、小さな扇の角度が、わずかに止まった。


楽団の演奏は、続いていた。けれど、広間の中の来賓の席で、会話が、わずかに止まっていた。


公爵夫人様の声は、続いた。


「先の席で、失礼を、続けてご無礼をおかけしてまいりましたことを、本日の席で改めて、ヴァランス家のクラリス様に、お謝り申し上げます」


公爵夫人様は、私の前で、深く頭を下げられた。


広間の中央の席で、夫人が、席で深く頭を下げるのは、社交界の中央の見える場面で、一席の歴史の記憶に残る動きだった。


「公爵夫人様」


私は、深く頭を下げた。


「頭を、お上げくださいませ」


「クラリス様」


「本日のお言葉、頂戴いたします」


公爵夫人様は、頭を、わずかに上げられた。


そして、息を続けて整えられた。


「ヴァランス家で、席組みを、続けて整えていらした令嬢に、社交界として、一席、紙のうえで、正式にお礼を申し上げます」


「公爵夫人様」


「私が、本日の席で、一人でいらしたのは、お礼を、本日の席で、正式にお伝えするためでございました」


広間の中で、楽団の演奏の音が、ゆっくりと続いていた。


ライナス殿下が、王家のご家族の席から、立ち上がった。


そして、席から、広間の中央の通路を、進まれた。


公爵夫人様の側ではなく、私の側へ、進まれた。


殿下は、私の右隣の位置で、立ち止まられた。


それは、席の見守りでも、護衛でもなかった。


ただ、席に立つ、というだけのことだった。


公爵夫人様は、殿下の動きを見上げられた。


それから、もう一度、私の目を、見上げられた。


「クラリス様」


「公爵夫人様」


「席の見守りが、一席並んでいるのが、ヴァランス家の令嬢が、一席ずつ、正しい席に進んでいくのが、社交界として、見えております」


公爵夫人様の口元が、わずかに微笑になった。


それは、式の場のための微笑みではなかった。


長く、娘として、息子の側の席で、続けて整えていらした令嬢を、今、社交界として、別の家の席で、一席ずつ見上げていらっしゃる、母の微笑だった。


「公爵夫人様」


「お言葉、頂戴申し上げます」


公爵夫人様は、深く頭を下げてから、席で、後ろに、一歩引かれた。


それから、席の戻りで、席の向きを変えられた。


侍女が、席に続いて動いた。


公爵夫人様は、広間の中央の席の戻りで、ゆっくりと進まれた。


来賓の視線が、一席、動いた。


ベルナール伯爵閣下と、カランド伯爵閣下が、席の迎えで、席を立たれた。


公爵夫人様が、席に戻られた。


楽団の演奏が、一段、速さを戻した。


広間の中の空気が、ゆっくりと、動き直した。


私の右隣の位置で、ライナス殿下が、まだ立っていらした。


「殿下」


「クラリス嬢」


「席で、ご公務を続けさせていただきます」


「お続けくださいませ」


殿下は、私の側の位置で、もう一席、続けて立っていらした。


それから、短く、私の目に、頷きを一席、入れてくださった。


そして、王家のご家族の席へ、戻られた。


夜会の席は、続いた。


夜会の終わりまで、一席の乱れもなかった。


来賓が、一席ずつ、馬車寄せへ戻っていく見送りで、私は、席の動線を、最後まで見ていた。


ローズリー伯爵夫人が、馬車寄せの側で、一席、止まられた。


「クラリスさま」


「ローズリー様」


「本日のお席、見事に」


「ローズリー様、お言葉、頂戴申し上げます」


「席の見守りが、本日の席で、社交界として、一席の歴史に残る席でいらした」


「ローズリー様」


「今後、王宮で席組みを続けて整えてくださることで、社交界が、一席ずつ、変わっていきます」


ローズリー伯爵夫人は、わずかに微笑まれて、馬車の側へ引かれた。


ベルナール伯爵閣下が、見送りで、もう一席、止まられた。


「ヴァランス侯爵令嬢、本日の席組みで、楽団の側ではなく、中央列に上がることで、お礼を申し上げます」


「ベルナール様」


「席組みで、年配の席で、楽団の音が耳に適していると考えてくださっていたから、本日の席が、楽でございました」


ベルナール伯爵閣下は、深く頭を下げて、馬車の側へ引かれた。


カランド伯爵閣下も、見送りで、もう一席、止まられた。


「ヴァランス侯爵令嬢、本日の席で、お言葉、頂戴申し上げます」


「カランド様」


「先の席で、コンタール家の銀婚の席で、贈答記録の話が、ございました」


「はい」


「本日の席で、公爵夫人様が、一席、正式にお礼を申し上げていらしたことで、社交界として、一席の記録が整いました」


カランド伯爵閣下は、深く頭を下げて、馬車の側へ引かれた。


夜会の見送りが、すべて終わった頃には、夜が深くなっていた。


控えの間に戻って、王宮事務方の控えの紙の束を、返しの手続きで揃え直した。


ライナス殿下が、控えの間の入口で、立ち止まられた。


「クラリス嬢」


「殿下」


「本日のお席、本当に、見事でいらっしゃいました」


「殿下、見守りの席で、ありがとうございました」


殿下は、わずかに頭を下げられた。


「お疲れでいらっしゃいましょう」


「はい」


「ご公務の席の本日の記録は、王宮事務方から、正式の書面で整えます」


「お願い申し上げます」


殿下は、控えの間の側の廊下で、もう一席、止まられた。


「クラリス嬢」


「殿下」


「公爵夫人様の席で、本日、一席、動きがございました」


「はい」


「席で一人でいらしたことで、社交界として、正式にお礼を申し上げてくださった」


「殿下」


「ヴァランス家の令嬢として、本日の席組みが、社交界の歴史の記録の席に残ります」


殿下の声は、いつもより短かった。


「お気をつけてお帰りなさい」


「殿下、こちらこそ、本日のお席、頂戴申し上げました」


私は、深く頭を下げてから、王宮の馬車寄せのほうへ進んだ。


ヴァランス家の馬車の中で、席に腰を下ろした。


足の裏が、痛みを軽く出していた。


夜の空気が、馬車の窓の外で、ゆっくりと流れていた。


公爵夫人エレオノール様が、本日、一人でいらした。


ベルナール伯爵閣下と、カランド伯爵閣下の両家が、公爵家の側の席に上がっていた。


ローズリー伯爵夫人の席で、扇の角度が、わずかに止まっていた。


ライナス殿下が、席で、私の右隣に立っていらした。


すべてが、王宮の春期大規模夜会で、一晩のうちに、ゆっくりと並んでいた。


社交界として、一席の記録が、本日の席で、正式に整っていた。


私の三年の席の仕事が、一席の歴史の席に、記録として残った。


馬車の車輪の音が、王都の石畳のうえを、規則正しく響いていった。


ヴァランス家の門が見えてきた頃には、夜の空気が、ようやく深くなっていた。


社交界の視線が一斉に動くのを、私は遠くから自分のことのように眺めた。


その遠さが、今夜、席のなかで、本当に自分の席として整っていた、という確かさを、馬車の中で、自分の中で受け止めた。


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