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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ


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第9話 もう遅いですわ、殿下


「ルドヴィク。お前は、あの娘に何をした」


父王の声は、玉座の間に冷たく響いた。


広い部屋だった。天井が高い。石壁に掛けられた歴代国王の肖像画が、こちらを見下ろしている。子どもの頃はこの部屋が嫌いだった。死んだ王たちに見られている気がして。


今も、見られている。


「お座りなさい」


父王は玉座には座っていなかった。窓辺に立っていた。逆光で表情が見えない。声だけが届く。


俺は椅子に座った。背もたれが硬い。客人用の椅子だ。息子に座らせる椅子ではない。


「貴族会議での証言を受けて、調査を行った。王太子府から提出された外交文書、財務報告、通商条約の草案——過去六年分のうち、実質的にレーヴェンシュタイン嬢が起草したと認定されたものが、七割を超えた」


七割。


数字で言われると、重い。


「お前の名義で提出されたものではない。王太子府の名義だ。だがお前は、誰が書いたかを一度も確認しなかった。説明もしなかった。社交の場でヘルダーリン嬢が”殿下のお導き”と吹聴するのを止めもしなかった」


言い返す言葉がない。


言い返す言葉がないことが、一番堪えた。嘘をついたわけではない。横取りしたつもりもない。ただ——確認しなかっただけだ。目の前に整った書類が届いて、それが誰の手で作られたか、考えもしなかった。


「あの娘を失ったのは、お前の失態だ」


父王が窓辺から離れた。逆光が消えて、顔が見えた。


怒っていなかった。


怒りよりも悪いものが、父の目にあった。失望だ。


「お前は六年間、何をしていた」


答えられなかった。


六年間。夜会に出て、演説をして、外国の要人と握手をして、マリエルと庭を歩いて。そういうことをしていた。そういうことだけを。


「ヘルダーリン嬢の側妃候補は取り消す。あの娘に王太子府の仕事は務まらん」


「それは——」


「反論があるなら、お前がヘルダーリン嬢に通商条約を教えてみるがいい。できるものならな」


できない。


俺には教えられない。俺自身が、わかっていないのだから。


父王は俺を見た。長い間。


「レーヴェンシュタイン嬢への功績帰属の訂正は、公式記録上で行う。社交界には”訂正があった”という事実のみが伝わるようにする。王家の体面は守ってやる。だが——」


「はい」


「二度目はないと思え」


椅子を立った。一礼して、退出した。


廊下に出たら、ハインリヒが待っていた。


壁際に立って、書類を抱えていた。いつもの姿勢だ。背筋が伸びていて、目が少しだけ伏せられている。


「殿下。お加減は——」


「聞いていたか」


「いえ。しかし結果は——ご表情から」


「そうか」


歩き出した。ハインリヒが後ろをついてくる。


足音が二つ、長い廊下に響く。あの娘がいた頃は三つだった。イレーネの靴音は小さくて速くて、いつも俺より半歩前を歩いていた。先に行って、扉を開けて、書類を揃えて、席を引いて。


全部、あいつがやっていた。


「ハインリヒ」


「はい」


「お前は——あいつが辞める前に、止められなかったのか」


足音が止まった。ハインリヒの足音だけが。俺は歩き続けた。


「殿下」


背後から声がした。いつもより低い声だった。


「レーヴェンシュタイン嬢は——私が止めていれば、まだ殿下のおそばにいたかもしれません」


振り向いた。


ハインリヒが頭を下げていた。深く。書類を抱えたまま。


「私にも非がございます。六年間、あの方の仕事を見ていながら——一度も、殿下にお伝えしなかった。あの方がどれだけのことをなさっていたか。お伝えしていれば——」


「やめろ」


「殿下」


「お前のせいじゃない」


言ってから、自分の声の響きに驚いた。怒りではなかった。ただの事実だった。


ハインリヒのせいではない。止められなかったのは、俺だ。止めるも何も——止める必要があることすら、気づいていなかった。


「困るのは君だろう」と、あの日、俺は言った。


困ったのは俺だった。


最初から、ずっと。


王太子府の執務室に戻った。


机の上に書類が積まれている。隣国への返答書。財務報告の修正案。社交行事の日程調整。どれもイレーネがいれば半日で片がつくものだ。


窓の外を見た。


秋の空が高い。雲がゆっくり動いている。


イレーネは今頃、何をしているのだろう。あの辺境の領地で。あの病弱な伯爵子息の隣で。


あいつが泣いていた。


あの日の涙を、まだ覚えている。六年間、一度も見たことのない涙だった。鉄の令嬢が泣くのを。


俺は彼女に泣く場所すら与えなかった。


取り戻せない。


この机の上の書類なら、時間をかければどうにかなる。ハインリヒと二人で、一つずつ片づければいい。だがイレーネ本人を取り戻す方法は——もうない。


わかっている。


わかっていることが、一番苦しい。


エーレンベルク伯爵邸。


ユリウスが距離を取って、三日が経っていた。


食事は別々に摂るようになった。テラスの朝の薬草茶もない。ユリウスは書斎にこもって出てこない。オットーが食事を運び、帳簿のやり取りをし、来客の対応をする。


まるで私が来る前の日常に戻ったかのようだった。


手紙のやり取りだけで繋がっていた頃。窓の中にいるユリウスと、窓の外にいる私。


冗談ではない。


三日間、考えた。考えて、考えて、考えた。


ユリウスは「僕では足りない」と言った。幼馴染でいるべきだと。ふさわしくないと。


全部、嘘だ。


嘘というのは言い過ぎか。本気でそう思っているのだろう。でも、本気で思っていることが正しいとは限らない。六年間「強い子だ」と言い続けた父の言葉が本気だったように。本気だからこそ的外れだということは、ある。


四日目の朝、書斎の扉を叩いた。


返事がなかった。


もう一度叩いた。


「ユリウス。開けて」


間があった。長い間だった。


扉が開いた。ユリウスが立っていた。杖をついて。顔色は悪くないけれど、目の下に隈がある。眠れていないのだ。


「入るわ」


返事を待たずに入った。


書斎は三日前と変わっていなかった。インクの瓶が三つ。蓋の緩いやつはまだ緩いままだ。本棚の前に椅子。机の上に帳簿。


ユリウスは窓辺に立ったまま、私を見ていた。


「逃げないで」


「逃げていない」


「逃げている。書斎に閉じこもって、食事を別にして、朝のお茶もやめて。それは逃げているのと同じよ」


ユリウスの唇が薄く引き結ばれた。反論を探しているのだ。でも見つからない。自分でもわかっているからだ。


「私はもう、強い女を演じない」


一歩近づいた。ユリウスは動かなかった。


「だからあなたも、弱い男のふりをしないで」


「ふりじゃない。事実だ。僕は——」


「事実は、あなたが貴族会議に行ったこと。心臓発作を起こすかもしれないのに、それでも行ったこと。殿下に向かって”放置したことはない”と言ったこと」


ユリウスが目を逸らした。


「それは——」


「弱い人にはできないわ」


声が少し震えた。怒りではない。もっと別の何かだ。


「あなたは弱くない。病弱なだけよ。身体が弱いことと、人として弱いことは違う」


ユリウスは黙った。窓の外を見ていた。秋の光が横顔を照らしている。


返事がない。


でも、目が——少しだけ揺れた。


その午後、玄関に馬車が止まった。


またか、と思った。また王太子府か。だが紋章が違った。


レーヴェンシュタイン家。公爵家の紋章だ。


父が来た。


グスタフ・フォン・レーヴェンシュタイン。四十八歳。背が高くて、背筋がまっすぐで、白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけている。厳格な顔。いつも厳格な顔だ。笑っている時でさえ厳格に見える人だった。


庭で会った。応接間に通す気力がなかった。庭のベンチなら、逃げ場がある。


父は立ったまま、私を見下ろしていた。


「イレーネ」


「お父様」


「手紙を出した。返事がなかった」


「ええ」


「帰ってきなさい。縁談を——」


「お父様」


遮った。父の目が少し見開かれた。私が父の言葉を遮ることは、ほとんどない。十七の冬以来かもしれない。


でも今日は遮る。


「お父様は、貴族会議の記録をお読みになりましたか」


父の表情が変わった。


読んだのだ。貴族会議の記録は各公爵家に送付される。あの中に、ユリウスの証言がある。私が六年間、外交文書の起草を一人で行っていたことが記されている。


「……読んだ」


「それで、何をお感じになりましたか」


父は黙った。顎が引かれた。あの厳格な顔の奥で、何かが動いているのが見えた。


「お父様。殿下がこの領地に来たことはご存知ですか」


「聞いている」


「“取り戻しに来た”と仰いました。私を便利な道具として取り戻しに。お父様の”別の縁談”も、同じことではないですか」


風が吹いた。庭の薬草が揺れた。ラベンダーの香りが微かに流れてきた。


父は——座った。


ベンチに。私の隣に。


父がベンチに座るのを、初めて見た。この人はいつも立っている人だった。書斎でも、食事の時でも、背筋を伸ばして立っている人。座るのは執務机の前だけだ。


「すまなかった」


声が低かった。


「お前を——強い子だと決めつけて。泣くことすら、許さなかった」


父の手が膝の上で組まれていた。指が白い。力が入っている。


「十七の冬、お前は言ったな。婚約を解消したいと」


覚えているのか。覚えていたのか。


「あの時、私は聞くべきだった。なぜ解消したいのかを。お前の言葉を、最後まで」


父の声が揺れた。


この人の声が揺れるのを、初めて聞いた。母の葬儀の時でさえ揺れなかった声が。


「貴族会議の記録を読んで——お前がどれだけのことをしていたか、初めて知った。六年間、お前一人で。誰にも認められずに。それを知って——あの王太子がまだお前を利用しようとしていると聞いて」


言葉が途切れた。


「……許せなかった。自分自身が、一番」


父の目が赤かった。泣いてはいない。でも赤い。


「遅いですわ、お父様」


自分の声が、思ったより穏やかだった。


怒っていないわけではない。十七の冬に退けられた夜のことは、まだ胸の底にある。あの暖炉の火が爆ぜた音は消えない。


でも——父もまた、不器用なだけだったのだ。強くあることでしか娘を守れないと思い込んでいた人。母が死んでから、泣き方を忘れた人。


私と同じだ。


「遅いですわ。でも——ありがとう」


父が私を見た。


私が微笑んでいることに、驚いた顔をした。そうだろう。この人の前で笑ったのは、いつ以来だろう。


父が帰った後、廊下でオットーに会った。


「お嬢様。少し——お耳に入れておきたいことが」


オットーは声を落とした。


「坊ちゃまが貴族会議にお出かけになった日のことでございますが」


「ええ」


「お医者様がお止めになったのは、お嬢様もご存知ですね。長旅は心臓に負担がかかると」


「知っている。だから私は反対したの」


「はい。ですが——坊ちゃまがお医者様に仰った言葉を、お嬢様はご存知ないかと」


知らない。ユリウスは何も言わなかった。


「“死んでも構わない”と——仰っておいででした」


廊下の空気が止まった。


死んでも構わない。


「“彼女の名前を取り戻せるなら、僕の命など安いものだ”と」


安いものだ。


この人は——自分の命を、私の名前より軽いと言ったのか。


足が動いた。


書斎に向かっていた。走ってはいない。でも早足だ。裾を踏みそうになった。構わなかった。


扉を叩かずに開けた。


ユリウスが顔を上げた。驚いている。


私は真っ直ぐ歩いて、机の前に立った。ユリウスの手を取った。


左手だ。インクの染みがある手。あの朝、私の手を握った手。震えていた手。


「死んでも構わない、なんて——」


声が震えた。怒りだ。怒りと、それ以外の何かだ。


「誰に聞いた」


「そんなことはどうでもいい」


「オットーか。あの人は——」


「ユリウス」


手を握る力を強くした。


「二度と言わないで。あなたの命が安いなんて」


ユリウスは私を見ていた。手を振りほどかなかった。


「私から——言わせてほしい」


何を言うのか、自分でもまだわからなかった。わからないのに、口が動こうとしていた。言葉になる前の何かが、胸の底から上がってきていた。


でも今日はまだ、言えなかった。


言葉にするには、もう少しだけ時間が必要だった。


だから手を握ったまま、ユリウスの目を見た。


「明日。明日、ちゃんと話す」


ユリウスは——何も言わなかった。


でも手を、握り返した。


今度は無意識ではなかった。確かに、指が私の手を包んだ。


それだけで——十分だった。


今日は、それだけで。

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公爵はあの世で妻に引っ叩かれれば良いんじゃないかな
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