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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第10話 私を強いと言わないでくれて、ありがとう


今日、私は生まれて初めて、自分から誰かを好きだと言う。


朝、寝台の中でそう決めた。決めてから、しばらく動けなかった。天井を見ていた。木目の節が一つ、染みに見える。二ヶ月間ずっとこの天井を見てきたのに、あの節に気づいたのは今朝が初めてだ。


人は、余裕がある時にしか天井の節なんて見ない。


起き上がる。着替える。髪を梳かす。鏡を見た。目の腫れは引いている。一昨日泣いたのとは別の理由で、昨夜も少し泣いた。嬉しかったのだ。ユリウスが手を握り返してくれたことが。泣くほど嬉しいということが自分でもおかしくて、泣きながら少し笑った。


笑えた。


リーザに「笑わないの?」と言われた日から、ずいぶん経った。


旅行鞄を開けた。


手紙の束を取り出す。ユリウスからの十四年分。紐で括ってあるけれど、やはり少し崩れている。一番古い手紙は紙が黄ばんでいて、端が擦り切れている。八歳のユリウスの字。丸くて、大きくて、少しだけ右に傾いている。


——おてがみありがとう。ぼくはげんきです。きょうはまどからつばめがみえました。


嘘だ。元気ではなかったはずだ。あの頃のユリウスは、月の半分を寝台で過ごしていたと後で知った。でも手紙には「げんき」と書いた。八歳の男の子の、小さな見栄。


十四年分の手紙を、両腕で抱えた。


重い。紙の重さだけではない。十四年分の時間の重さだ。


書斎の扉を叩いた。


「入れ」


開ける。


ユリウスは窓際にいた。椅子に座って、本を読んでいる。いつもの光景だ。朝の光が横から差して、栗色の髪を明るく照らしている。


本を閉じた。私を見た。


目の下の隈が、昨日より薄い。少しは眠れたのだろう。


「話がある」


「……ああ」


ユリウスは本を机に置いた。表紙を少し撫でるようにして置く。癖だ。読みかけの本を閉じるとき、いつもそうする。


私は椅子に座らなかった。立ったまま、ユリウスの前に立った。


手に持っている手紙の束を、机の上に置いた。


「これは何だ」


「あなたの手紙。十四年分」


ユリウスの目が、束を見た。それから私を見た。


「全部……持ってきたのか」


「馬車に乗る時に、一番最初に鞄に入れたの。着替えより先に」


ユリウスは手紙の束に手を伸ばしかけて——止めた。指先が束の上で迷っている。


「僕の引き出しと、同じだな」


「そう。お互いに、全部持っていた」


声が震えそうになった。震えてもいい。もう、震えることを恥じない。


「ユリウス」


「ん」


「あなたが好きです」


言った。


言ってしまった。


心臓が跳ねた。一度ではなく、何度も。喉が詰まる。顔が熱い。手のひらが汗ばんでいる。こんなに格好悪い告白はないと思う。立ったまま、手紙の束を置いて、顔を真っ赤にして。


でも構わない。


「私を強いと言わないでくれて、ありがとう」


ユリウスは動かなかった。


「泣いていいと言ってくれて、ありがとう。何も聞かずに薬草茶を淹れてくれて、ありがとう。帳簿を取り上げてくれて、ありがとう。手紙の筆跡が変わったことに気づいてくれて——部屋を空けて、待っていてくれて」


息を吸った。吐いた。


「あなたの隣が、私の帰る場所です」


書斎が静かだった。窓の外で鳥が鳴いている。遠くでリーザたちの声がする。薬草園の方角だ。日常の音だ。何も特別ではない朝の音。


ユリウスは——椅子に座ったまま、目を伏せた。


長い睫毛が影を落とした。手が膝の上で握られている。左手の小指のインクの染みが見えた。


「……僕でいいのか」


声が低かった。掠れていた。


「病弱で、君を夜会にも連れていけない。剣も振れない。馬にも乗れない。馬車で三日の距離を往復しただけで倒れる。守れるものが少ない。君に与えられるものが——」


「あなたがいい」


遮った。


「剣なんていらない。夜会もいらない。馬にも乗らなくていい」


一歩近づいた。ユリウスの膝の前に立つ。


「薬草茶を淹れてくれるあなたがいい。手紙を全部取っておいてくれるあなたがいい。カモミールの亜種に興奮するあなたがいい。蜂蜜が切れたと嘆くあなたがいい」


ユリウスが顔を上げた。


目が赤かった。


泣いてはいない。でも、赤い。そこにあるのは涙ではなく——もっと長い時間をかけて溜まったものだった。十四年分の。


「十四年間——」


声が途切れた。喉が動いた。飲み込んで、もう一度。


「十四年間、ずっと好きだった」


静かな声だった。告白というより、ようやく降ろせた荷物を地面に置くような声だった。


「一度も言えなかった。言う資格がないと思っていた。君は公爵令嬢で、王太子の婚約者で——僕は窓の中から手紙を書くことしかできない人間だった」


「ユリウス——」


「手紙が届くたびに嬉しくて、嬉しいことが苦しかった。返事を書くたびに、書けないことがあった。好きだと。会いたいと。ここに来てほしいと。全部——書けなかった」


インクの染みのある左手が、持ち上がった。


私の手を取った。


両手で包んだ。


ユリウスの手は温かかった。あの出発の朝の冷たさはなかった。震えてもいなかった。ただ確かに、私の手を包んでいた。


「僕でいいなら——」


「いいとか悪いとかじゃない」


「……何だ」


「あなたがいいの。あなただけが」


ユリウスが立ち上がった。杖をつかずに。片手で机の縁を支えて、もう片方の手——左手——は、私の手を握ったまま。


近い。


こんなに近くで顔を見たことがなかった。睫毛の長さも、瞳の中の茶色の濃淡も、頬のわずかな窪みも。全部、初めて見る距離だ。


「目を——閉じてくれ」


「……なぜ」


「緊張している。見られていると——たぶん失敗する」


おかしかった。こんな時にそんなことを言うのがおかしくて、少しだけ笑ってしまった。笑いながら目を閉じた。


唇に、温かいものが触れた。


柔らかくて、少しだけ乾いていて、ほんの一瞬で離れた。


短かった。不器用だった。たぶん本当に緊張していたのだろう。


でも——十分だった。


目を開けた。


ユリウスの耳が赤かった。顔ではなく、耳。耳たぶが真っ赤になっている。


「……下手だったか」


「わからない。比べる相手がいないから」


「そうか」


「でも——もう一度してくれたら、判断できるかもしれない」


ユリウスは目を見開いた。それから——笑った。


口の端だけではなく、目も。目尻に皺が寄って、少しだけ歯が見えて。


初めて見る笑顔だった。


二度目のキスは、もう少しだけ長かった。


窓の外で、リーザの声がした。


「ユリウスさま、おねえちゃん、おひるですよー!」


書斎の窓から身を乗り出したオットーが「坊ちゃまとお嬢様はお取り込み中です」と返しているのが聞こえた。


「おとりこみって何ー?」


「大人のお話をしているということです」


「ふうん」


ユリウスが小さく笑った。私も笑った。


後日のことを、少しだけ。


王都で、ルドヴィクが正式に謝罪した。


場所は王太子府ではなく、王城の一室だった。ハインリヒが手配したのだろう。中立的な場所で、形式的でなく。


ルドヴィクは立ったまま頭を下げた。


「すまなかった」


短い言葉だった。続けようとして、やめた。それからもう一度、別の言葉を探すように口を動かした。


「六年間——君がしてくれていたことに、何一つ気づかなかった。気づこうともしなかった。それは、謝って済む話じゃないと——わかっている」


私は椅子に座ったまま、殿下を見上げていた。


怒りは、もうなかった。あったのかもしれないけれど、薄れていた。この人は悪人ではない。ただ鈍い人だった。恵まれた場所に立ちすぎて、足元が見えなくなった人。


「殿下。もう遅いですわ」


殿下の顔が少し歪んだ。


「でも——前を向いてください。私がいなくても回せる仕組みを、ハインリヒ殿と一緒にお作りになって。今度は、一人に任せきりにしないで」


殿下は顔を上げた。


「ハインリヒは——“自分にも非がある”と言った」


「あの方は、正直な方です。殿下のおそばに、ああいう方がいらっしゃること。それは、恵まれていることですわ」


殿下は少し笑った。自嘲ではなかった。もっと小さくて、脆い笑みだった。


「……お幸せに」


その言葉だけは、本気だった気がする。


父が、ユリウスとの婚姻を認めた。


伯爵邸を訪ねてきた父は、ユリウスの前で長いこと黙っていた。ユリウスも黙っていた。二人とも不器用な人間だ。沈黙が長かった。


最初に口を開いたのは父だった。


「エーレンベルク殿。娘をよろしく頼む」


「はい」


「降嫁になる。世間は色々言うだろう。だが——」


父は少し迷ってから、言った。


「あの男は、お前を泣かせてくれる男だ。それでいい」


泣かせてくれる。


変な褒め言葉だ。でも、父なりの最大限だとわかった。泣けなかった娘を泣かせてくれた人間を、父は認めたのだ。


ユリウスは小さく頭を下げた。


「泣かせるだけでなく——笑わせることも、できるようになりたいと思っています」


父の眉が動いた。少しだけ——ほんの少しだけ——口元が緩んだ。


「……期待している」


エーレンベルク伯爵邸。秋の終わり。


テラスに椅子が二つ。


私はカップを両手で包んでいる。薬草茶。甘い花の香りに、少しだけ蜂蜜。


隣でユリウスが本を読んでいる。薬草の品種改良の本。南方から種を取り寄せる手紙を、昨日一緒に書いた。私が文面を起草して、ユリウスが修正した。「君の文章は外交文書みたいに堅い」と言われた。「あなたの文章は手紙に蜂蜜の話を混ぜすぎ」と返した。


テーブルの上に、手紙の束が二つ。


片方は私の字。片方はユリウスの字。十四年分ずつ。書斎の引き出しから出して、並べてみた。同じくらいの厚さだった。同じくらい角が擦り切れていた。


リーザが庭を走っている。歯がまた一本抜けたらしい。「おねえちゃん見て見て」と叫んでいる。


オットーが洗濯物を干している。白いシーツが風に膨らんでいる。


丘の向こうに、林檎園が見える。花はもう散って、小さな実がつき始めている。


「ユリウス」


「ん」


「お茶、もう一杯淹れてくれる?」


「自分で淹れろ」


「病人の頼みよ」


「君はもう病人じゃない。先週、医者にそう言われただろう」


「じゃあ、好きな人の頼み」


ユリウスの耳が赤くなった。本で隠そうとしたけれど、遅い。


「……卑怯だ」


「知ってる」


立ち上がった。杖をついて、台所に向かう。途中で振り返った。


「甘いのでいいか」


「甘いので」


ユリウスの背中が台所に消えていく。少しだけ足を引きずっている。でも背筋はまっすぐだ。


窓から風が入ってきた。


薬草の匂いがする。ラベンダーと、カモミールと、名前を知らない何か。


テーブルの上の手紙の束を見た。十四年分と十四年分。合わせて二十八年分の手紙。これからは手紙ではなく、声で。隣で。毎日。


カップの底に、蜂蜜の筋が残っている。


甘い。


甘いので、いい。

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― 新着の感想 ―
AIを使うにしても、一度目を通して修正ぐらいしてほしいものです。 ランキング上位の方だと、もっとテンポ良く読み心地良いようにまとめてますよ あと、夜会でかっさん発表とかそもそもの場面設定がおかしすぎ…
素敵な2人に幸あれ! 末永く笑ってお過ごしになるように^ ^
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