第8話 放置したことは、一度もない
朝の薬草茶が、いつもより甘かった。
ユリウスが配合を変えたのだ。私が熱を出してから、少しだけ蜂蜜を足すようになった。本人は何も言わない。でもカップの底に蜂蜜の筋が残っているからわかる。
テラスの椅子に並んで座る。もう当たり前になった朝の景色。薬草園の緑。丘の向こうの空。虫の声は秋が近づいて少しずつ減ってきたけれど、代わりに風が乾いた葉を鳴らすようになった。
ユリウスは本を読んでいた。薬草の品種改良に関する古い文献だ。ページの端に細かい書き込みがある。彼の字で。
「それ、面白い?」
「面白い。カモミールの亜種に鎮痛効果が強い品種があるらしい。種を取り寄せたい」
「どこから?」
「南方のメルツァー商会が扱っているはずだ。取引があるから、手紙を——」
「王太子殿下がお越しです」
オットーの声が、テラスの入り口から飛んできた。
声が硬い。オットーの声が硬くなるのを、初めて聞いた。
立ち上がった。ユリウスも本を閉じた。
玄関の前に馬車が止まっていた。
王太子府の紋章ではない。王家の紋章だ。金の獅子と銀の鷲。護衛が四人、馬車の周囲に立っている。
馬車の扉が開いた。
ルドヴィク殿下が降りてきた。
二ヶ月ぶりに見る顔だった。金髪が朝日に光っている。背が高い。仕立てのいい外套を羽織って、革の手袋をはめている。
変わっていなかった。
何も変わっていない。あの笑顔も、あの歩き方も。自信に満ちた——いや、自信があるように見せることに慣れた人間の歩き方。
「イレーネ」
名前を呼ばれた。
あの呼び方だ。用件をつける前の、前置きとしての名前。六年間、何百回と聞いた呼ばれ方。ユリウスの「イレーネ」とは違う。この人の「イレーネ」には、いつも続きがある。
「取り戻しに来た」
続きは、それだった。
応接間に通した。
私が。自分の家ではないのに。でもユリウスの身体では立ったまま応対できないし、玄関先で王族を追い返すわけにもいかない。
ソファに殿下が座った。向かいにユリウスと私が並んだ。オットーが茶を運んできた。客用の茶葉だ。ユリウスが補充を指示していたやつ。
殿下は茶に手をつけなかった。
「単刀直入に言う。イレーネ、王都に戻れ。お前がいなければ通商交渉が立ち行かない。外交省も財務局も混乱している」
「お断りします」
「話を聞け。待遇は見直す。補佐官として正式な地位を——」
「殿下」
ユリウスの声が割り込んだ。穏やかだった。でもあの穏やかさだ。使者を追い返した時と同じ、表面だけの穏やかさ。
「イレーネは僕の客人です」
殿下はユリウスを見た。
初めて見る、という目だった。使者の報告書では読んでいたはずだ。病弱な伯爵子息。社交界に出られない。剣も振れない。だがその文字列が、目の前の人間と結びついていないような目。
「エーレンベルク子息か」
「はい」
「聞いているぞ。貴族会議で余計なことをしたそうだな」
余計なこと。ユリウスが命を張って出した証言を、この人は「余計なこと」と呼んだ。
ユリウスの表情は変わらなかった。
「余計かどうかは、調査の結果が出ればわかることです」
「それはいい。だがイレーネは俺の——」
「元婚約者です。解消済みの」
殿下の目が細くなった。
「……随分はっきり言うな。病弱な伯爵子息にしては」
ユリウスは答えなかった。一拍だけ間を置いた。それから殿下を真っ直ぐに見た。
「殿下。お言葉ですが、一つお聞きしたい」
「何だ」
「イレーネの誕生日を、ご存知ですか」
殿下が黙った。
「六年間の婚約中に、一度でも祝われましたか」
黙ったままだった。
「夜会でエスコートされたことは。休日にお茶に誘われたことは。体調を崩した時に見舞いの言葉をかけられたことは」
殿下の顎が、わずかに引かれた。
「彼女が毎晩、いつまで書斎で仕事をしていたか。誰よりも早く出勤して、誰よりも遅く帰っていたことを。ご存知でしたか」
「……それは」
「病弱な伯爵子息に何ができる、と仰いましたね」
ユリウスの声は変わらなかった。怒りで高くなることも、震えることもなかった。ただ、一段だけ低くなった。
「できることは少ない。それは仰る通りです」
杖を握る右手に、少しだけ力が入ったのが見えた。
「だが——彼女を放置したことは、一度もない」
応接間が静まった。
オットーが入り口の近くに立っていたが、動かなかった。護衛も窓の外で立ったまま動かなかった。
殿下の表情が、初めて変わった。
笑みが消えた。余裕も消えた。その下にあったのは、怒りではなかった。もっと扱いにくいもの——認めたくない事実を突きつけられた人間の顔だった。
「一度も」と殿下が繰り返した。小さな声で。
「十四年間、毎月手紙を書きました。返事がなかった月は一度もありません。筆跡が変われば気づきました。体調が悪ければ薬草を送りました。彼女が限界に近いことは、二年前からわかっていました」
殿下は何も言えなかった。
言えるはずがない。六年間、隣にいて気づかなかった人間に、三日かかる辺境から気づいていた人間の言葉を、否定する手段がない。
私は、二人の会話を聞いていた。
聞いていたはずだった。でも途中から、音が遠くなっていた。ユリウスの声は聞こえている。殿下の沈黙も。でもそれが、水の底から聞いているみたいに遠い。
放置したことは、一度もない。
二年前からわかっていた。
そうだ。
この人はわかっていたのだ。手紙の字が水平になっていることに。私が壊れかけていることに。でも何も言わなかった。言っても手紙の向こうの私には何もしてやれないから。だから部屋を空けて、待っていた。
六年間、誰にもわかってもらえなかった。
強いから大丈夫。強いから放っておいていい。強いから一人でいい。
違った。
一人じゃなかった。
わかっていた人がいた。気づいていた人がいた。何もできない代わりに、ずっと——
涙が出た。
自分でも驚いた。六年間、泣かなかった。泣けなかった。泣いたら終わりだと思っていた。泣いたら弱い人間だと認めることになると。
でも今、止められなかった。
声は出なかった。ただ目から水が流れた。頬を伝って、顎から落ちて、膝の上の手の甲に落ちた。温かかった。自分の涙が温かいことを、初めて知った。
「イレーネ」
殿下の声だった。
顔を上げた。殿下がこちらを見ていた。
涙を流す私を見て、殿下は——戸惑っていた。当然だ。鉄の令嬢が泣くところを、この人は一度も見たことがないのだから。
「殿下」
自分の声が出た。掠れていた。でも出た。
「あなたは六年間、私に何をしてくださいましたか」
殿下が口を開きかけた。閉じた。また開きかけた。
言葉が出てこないのだ。六年分の答えが、一つもないのだ。
「私は泣きたかった。六年間、ずっと」
「……イレーネ」
「でも泣ける場所がなかった。あなたの隣には」
殿下の顔が歪んだ。怒りではない。もっと深い場所にある何かだ。見たことのない表情だった。六年間、一度も見せなかった顔。
でも、もう遅い。
「お引き取りください」
殿下は立ち上がった。何か言おうとした。口が動いた。でも音にはならなかった。
そのまま踵を返して、応接間を出ていった。革靴が廊下の石畳を打つ音が遠ざかっていく。馬車の扉が閉まる音。車輪が動き出す音。
消えた。
ユリウスの腕が、私の肩に触れた。
触れただけだった。引き寄せたのではない。肩に、手を置いただけだ。
でもそれだけで、堰が切れた。
声を上げて泣いた。
生まれて初めてだと思う。こんなふうに、人の前で。声を出して。抑えることを諦めて。
ユリウスは何も言わなかった。背中をさすりもしなかった。ただ肩に手を置いたまま、隣に座っていた。
どれくらい泣いたのかわからない。長かったのか短かったのか。涙が止まった時、目が腫れていて、鼻が詰まっていて、喉が痛かった。こんなに見苦しい顔を人に見せたのは初めてだ。
「……ごめんなさい」
「何が」
「こんな、みっともない——」
「泣いていい。もう、強くなくていい」
静かな声だった。命令ではない。許可だった。六年間、誰もくれなかった許可。
泣いていい。
その言葉が、胸の奥に沈んでいった。
翌日。
テラスに出ると、ユリウスの椅子が空だった。
書斎を訪ねた。扉を叩いた。返事がなかった。もう一度叩いた。
「入れ」
開けると、ユリウスは窓のほうを向いていた。こちらを見ない。
「おはよう」
「……ああ」
何かがおかしかった。声が平らすぎる。いつもの少し眠そうな声ではなく、意識して平らにしている声だった。
「昨日は——」
「イレーネ」
遮られた。ユリウスはまだ窓のほうを見ている。
「僕は君の幼馴染でいるべきだ」
空気が変わった。
「……どういう意味」
「昨日、僕は越えてはいけない線を越えた」
「線って何」
「君は傷ついている。六年間、ずっと。そこに僕が——」
言いかけて、止まった。喉が動いた。飲み込んだのだ。
「僕では、君の隣に立てない」
振り向いた。目が合った。
いつもの少し困ったような目ではなかった。もっと深い場所にある、痛みのような光だった。
「病弱で、剣も持てない。夜会に連れていくこともできない。馬車で三日の距離を往復しただけで倒れる人間だ。君に——ふさわしくない」
「ユリウス」
「僕は幼馴染でいるべきだ。それが君のためだ」
言い切った。目を逸らした。窓の外に目を戻した。
距離を取ろうとしている。
昨日の夜、私が泣いた後で何かが変わったのだ。いや——変わったのではなく、ユリウスの中にずっとあったものが表に出たのだ。劣等感。自分では足りないという、ずっと抱えていた思い。
十四年間、手紙を書き続けた。でも自分からは一度も踏み込まなかった。踏み込めなかった。踏み込む資格がないと思っていたから。
「ユリウス——」
「書斎を使いたい。一人にしてくれ」
冷たい声ではなかった。冷たくしようとして、なりきれていない声だった。
扉を閉めた。廊下に立った。足が動かなかった。
どれくらい立っていたのかわからない。
「お嬢様」
オットーの声だった。
振り向くと、老侍従が盆に茶器を載せて立っていた。坊ちゃまに届けるつもりだったのだろう。
「お嬢様、少し——お話してもよろしいですか」
オットーは盆を棚に置いて、私のほうを向いた。いつもの穏やかな顔だけれど、目が少し赤い。昨日、私が泣いていたのを見ていたのかもしれない。
「坊ちゃまは今、ご自分を責めておいでです」
「……わかっている」
「“僕では足りない”と。幼い頃から、ずっとそう思っておいでだった。社交界に出られない。友人もいない。できることが少ない。その中で——お嬢様のお手紙だけが、坊ちゃまの世界の窓でした」
オットーの声は穏やかだった。でも目元に皺が寄っている。この人はユリウスを赤ん坊の頃から知っているのだ。
「窓から外を見ることはできても、外に出ることはできない。坊ちゃまはずっと、そう思っておいでです」
「でも、出たじゃない。貴族会議に」
「ええ。あれが——坊ちゃまにとっては、たぶん初めてでした。窓の外に出たのは」
オットーは少し間を置いた。
「お嬢様。どうか——諦めないでくださいませ」
目を見られた。温かい目だった。父の目とは違う温かさ。父の温かさには「強くあれ」という圧が混じっていた。オットーの目にはそれがなかった。ただ「幸せになってほしい」という祈りだけがあった。
「坊ちゃまは不器用でございます。お嬢様もご存知の通り。でも——あの方が窓の外に出ようとしたのは、お嬢様のためだけです」
廊下の窓から、午後の光が差していた。
埃が光の中を漂っている。何でもない光景だ。でも今は、その光が少しだけ眩しかった。
「諦めない」
声に出した。オットーに向かって言ったのか、自分に向かって言ったのかわからない。
「諦めないわ」
オットーが微笑んだ。皺だらけの笑顔だった。
「それをお聞きできて、安心いたしました」
盆を取り上げて、書斎へ向かっていった。
私は廊下に立ったまま、窓の光を見ていた。
追いかけるのだ。
六年間、私は待つ側だった。待って、耐えて、強くいて、それでも報われなかった。
もう待たない。
今度は、私が動く番だ。




