第7話 無理するな
ユリウスが目を覚ましたのは、倒れてから七日目の朝だった。
私はその時、彼の寝室の椅子で帳簿をつけていた。ユリウスの領地帳簿ではない。あれは取り上げられたままだ。自分用の薬草園の記録だ。どの畝に何を植えたか、いつ摘んだか、乾燥にかけた日数。ノートに書き留めている。何もしていないと頭がおかしくなるから、始めた習慣だった。
ペンを走らせていたら、寝台の毛布がかさりと鳴った。
目を上げる。
ユリウスの目が開いていた。天井を見ていた。しばらくそのまま動かなかった。それから、ゆっくりとこちらを向いた。
「……何日だ」
「七日」
「そうか」
声が掠れていた。一週間、水と薬湯しか口にしていないのだから当然だ。
「心配かけたな」
笑おうとした。口の端が少し上がって、すぐに止まった。笑うだけの力がないのだろう。
私は帳簿を閉じた。ペンを机に置いた。インクの蓋を締めた。
「もう二度とあんな無茶をしないで」
言ったとき、自分の声が低いことに気づいた。怒っている。七日間、この椅子に座りながらずっと溜めていたものが出ている。
「君が怒るのは正しい」
「正しいかどうかの話じゃないの」
「すまない」
「謝ればいいという話でもないの」
ユリウスは黙った。天井を見たまま、少し考えているようだった。
「……貴族会議では、証拠を提出できた。功績帰属の調査が始まる。筆跡鑑定と外交官グレーフェンの証言も得た」
「今はそんな報告いらない」
「いらないか」
「いらない」
また黙った。
それからぽつりと言った。
「薬草茶が飲みたい」
怒っている最中に、そういうことを言う。この人はいつもそうだ。大事な話の途中で、急に生活のことを言う。手紙でもそうだった。外交情勢についての私の長い分析の返事に「蜂蜜が切れた。買いに行きたいが膝が痛い」と書いてきたことがある。
結局、茶を淹れに立った。怒りながら淹れた。湯の温度が少し高すぎたかもしれない。
ユリウスの回復は遅かった。
医師は「安静に」としか言わなかった。心臓の病は薬草で症状を抑えることはできても、根本的には治せない。この世界にそういう治療法はない。
三日ほどで起き上がれるようになったけれど、まだ顔色は悪いし、階段は一人では降りられない。杖をついて書斎まで歩くのがやっとだ。
私はユリウスの世話を焼いた。食事を運び、薬湯を作り、窓を開け、毛布を直す。六年間、王太子府で人の世話を焼くことに慣れてしまった身体が勝手に動いた。
ユリウスは最初は黙って受け入れていた。でも四日目に、少しだけ渋い顔をした。
「イレーネ。僕の世話はオットーの仕事だ」
「私がやりたいの」
「君は客人で——」
「客人が主人の薬湯を作ってはいけないという法はないわ」
「……法の話をし始めたら君に勝てる人間はいない」
諦めた顔だった。ユリウスが議論で折れるのは珍しい。よほど反論の余地がなかったのか、あるいは体力がなかっただけか。
異変が起きたのは、ユリウスが目覚めてから五日目の朝だった。
薬草園に出ようとして、玄関で足が止まった。
目眩がした。
視界が傾いて、壁に手をついた。石壁が冷たい。額に汗が浮いている。
おかしい。昨夜は普通に眠れたはずだ。食事も摂った。特に無理はしていない——と思う。
「お嬢様?」
オットーの声が遠い。
「大丈夫、少し立ちくらみが」
大丈夫ではなかった。次の瞬間、膝が折れた。
目が覚めたら、自分の部屋の寝台にいた。
窓から午後の光が差している。ずいぶん眠っていたらしい。
医師が横に座っていた。ユリウスの主治医だ。白髪の穏やかな老人で、この一週間ですっかり顔馴染みになっている。
「過労です」
「過労……」
「はい。慢性的な疲労の蓄積が、環境の変化で一気に表面化したものと思われます。お嬢様は、どれくらいの期間、十分な休息を取っておられませんでしたか」
六年間、と言いかけて、やめた。
「少し……長い間」
「でしょうな。身体は正直です。走り続けた分だけ、止まった時に倒れます」
走り続けた分だけ。
父の「お前は強い子だ」が頭をよぎった。強い子は倒れない。倒れてはいけない。倒れたら——
「三日ほどは安静に。無理をなさらないように」
医師が去った後、扉が開いた。
ユリウスだった。杖をついて、ゆっくりと入ってくる。まだ本調子ではない足取りで。
「……あなたこそ安静にしていなさいよ」
「君に言われたくない」
椅子を寝台の横に引いて、座った。六日前、私がユリウスの寝台の横でそうしたように。
「熱は」
「微熱だそうよ。大したことない」
「大したことないと言う人間ほど大したことがある、というのは僕が証明済みだ」
反論できなかった。
ユリウスは何も言わずに、枕元の水差しから水をコップに注いだ。差し出される。受け取る。飲む。水が冷たくて、喉が楽になった。
「寝ろ」
「でも——」
「薬草園はオットーに任せた。リーザたちには僕が伝える。君は寝ろ」
命令口調だった。普段のユリウスは「〜したほうがいい」「〜してくれ」という言い方をする。「寝ろ」と命じるのは珍しい。
目を閉じた。
閉じたけれど、眠れなかった。ユリウスが隣にいるのがわかる。椅子の軋む音。時折、ページをめくる音。本を読んでいるらしい。
六年間、私が倒れたことは一度もなかった。倒れる余裕がなかった。王太子府には代わりがいなかったから。倒れたら仕事が止まる。止まったら殿下に迷惑がかかる。かかっても殿下は気づかないだろうけれど。
ここには代わりがいる。オットーがいる。ユリウスがいる。リーザたちがいる。
だから倒れられたのかもしれない。安心して倒れられる場所を、身体が勝手に見つけたのかもしれない。
そんなことを考えながら、いつの間にか眠っていた。
深い夜に、一度だけ目が薄く開いた。
暗い部屋に、蝋燭が一本だけ灯っていた。
椅子にユリウスがいた。本は膝の上に閉じてある。眠ってはいない。私のほうを見ていた。
——いや。見ていた、というのは正確ではないかもしれない。
目が覚めかけの曖昧な視界の中で、ユリウスの手が動いたのが見えた。左手が、私の額に向かって伸びていた。
指先が近づいてくる。
触れる——直前で、止まった。
指が、宙で止まった。
そのまま数秒。
それから、ゆっくりと手が引っ込められた。
ユリウスは目を伏せた。それから窓のほうを向いた。
私は目を閉じた。見ていたことを知られたくなかった。なぜかはわからない。知られたら、何かが変わってしまう気がした。
あの指先が触れていたら、どうなっていたのだろう。
額に。
考えてはいけない。今は熱がある。判断力がおかしい。これは熱のせいだ。
熱のせいだということにして、目を閉じた。
王都では、その頃——。
秋の夜会が開かれていた。
マリエル・フォン・ヘルダーリンは、大広間の中央に立っていた。今夜の主役は彼女だった。少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
「皆様、本日は王太子殿下に代わり、わたくしが四半期の財務概況をご報告いたします」
ざわめきが走った。
夜会で財務報告をするのは、これまでイレーネの役目だった。正式な役職ではないが、慣例としてそうなっていた。イレーネが去って以来、報告者が不在だった。マリエルが自ら名乗り出たのだ。
帳簿を開く。数字が並んでいる。イレーネが残した帳簿の写しだ。
「歳入の項目でございますが、本年度の税収は前年比で——」
手が止まった。
数字が読めない。いや、読めるのだが、それが何を意味しているのかがわからない。歳入と歳出の区別はつく。でも前年比の計算が合わない。いや、合っているのかもしれない。自分の計算が正しいのか、帳簿の数字が正しいのか。
「……前年比で、一割の増収と——」
「二割五分の減収では?」
声が上がった。列席した財務官僚だった。
マリエルの顔から血の気が引いた。
「あ——いえ、こちらの項目は」
「ヘルダーリン嬢、そちらは歳出の欄です。歳入はその左の列です」
沈黙が落ちた。
マリエルは帳簿を見つめた。数字が泳いでいる。左の列、右の列。歳入、歳出。頭の中が真っ白になっていた。
「し、失礼いたしました。改めまして——」
「結構です」
別の声だった。奥の席に座っていた侯爵夫人が、扇を閉じながら言った。
「財務の報告は、然るべき方にお任せしたほうがよろしいかと存じます」
やわらかい声だった。でも刃物のような声だった。
マリエルは帳簿を閉じた。指が震えていた。
夜会の後、回廊で貴族夫人たちが囁き合っていた。
「鉄の令嬢なら、あんなことにはならなかったわね」
「あの方、いつも社交の場で”殿下のお導きですわ”と仰っていたけれど——あれも本当かしらね」
「お導きどころか、全部あのレーヴェンシュタイン嬢がやっていたんですって。貴族会議で証拠が出たそうよ」
「まあ。では、殿下のお手柄というのは——」
扇の向こうで、目が光った。
社交界の記憶は長い。そして容赦がない。
翌朝。
目が覚めたら、枕元にカップが置いてあった。
薬草茶だ。まだ温かい。湯気がかすかに立っている。
カップの横に、紙が一枚。
ユリウスの字だった。右に傾いた、少し丸みのある字。
——無理するな。
それだけだった。
たったそれだけの言葉が、紙の真ん中に、右に傾いた字で書いてあった。
ユリウスは書斎に戻っていた。椅子にはもう誰も座っていない。蝋燭は消えていて、朝日が窓から差している。
「無理するな」の紙を手に取った。
小さな紙だ。帳簿の端を切ったのだろう。角がまっすぐではない。急いで切ったのか、それとも道具が手元になかったのか。
それだけで足りると思ったのだろうか。いや、足りると思ったのではなく、それしか書けなかったのかもしれない。ユリウスも昨夜、私の横で一晩過ごしたのだ。まだ回復途中の身体で。
あの人も無理をしている。
無理するなと書いた本人が、一番無理をしている。
紙を丁寧に畳んで、旅行鞄の手紙の束の一番上に入れた。十四年分の手紙の上に。
薬草茶を飲む。少し冷めかけている。でも甘い花の香りは残っていた。
その日の夕方、オットーが手紙を持ってきた。
「お嬢様宛でございます。公爵家の紋章が——」
父からだった。
封を切った。父の字だ。硬くて、真っ直ぐで、迷いのない字。
——イレーネ。帰ってきなさい。別の縁談を用意した。いつまでも辺境にいるわけにはいかないだろう。
手紙を膝の上に置いた。
帰ってこい。別の縁談。
違う人間が違う言葉で、同じことを言ってくる。戻れ。ここにいるな。お前の居場所はここではない。
窓の外を見た。夕焼けが薬草園を染めている。ラベンダーの紫が、橙色の光の中で少しだけ赤く見えた。
返事は、書かなかった。




