第6話 君が正当に評価されないのは、僕が許せない
「僕は明日、王都へ行く」
その一言で、心臓が凍った。
夕食後のテラスだった。いつもの薬草茶を飲みながら、いつもの椅子に座って、いつもの虫の声を聞いていた。何も変わらない夜だと思っていた。
「貴族会議に出席する」
ユリウスは茶のカップを膝に置いたまま、前を見ていた。横顔が暗い。テラスの灯りが片側だけを照らしている。
「何のために」
「君の功績だ。王太子府の名義で提出されている外交文書の帰属を正す。貴族会議に証拠を出せば、公式記録の訂正手続きが始められる」
やはり。
あの夜、「わかった」と言ったユリウスの目を思い出した。納得していなかった目。あの時から、動くつもりだったのだ。
「私はもういいと言ったのに」
「君はいい。でも僕が許せない」
ユリウスは私を見た。
「六年間、君が書いた文書を、他人の名前で提出されたまま放置するなんて。僕には——できない」
「でもあなたの身体では無理よ。王都まで片道三日。心臓に」
「わかっている」
「わかっているなら——」
「わかった上で、行く」
静かな声だった。怒っていない。急いでもいない。決めた後の声だ。
私は知っている。ユリウスが決めた後に言葉を変えることはほとんどない。十四年分の手紙で学んだ。この人は普段は譲る。穏やかに譲る。でも年に一度か二度、絶対に譲らない場面がある。
今がそうなのだと、わかった。
「君の名前を取り戻す。それだけのことだ」
それだけ。
この人は「それだけ」と言う。命に関わるかもしれないことを、「それだけ」と。
止められなかった。止める言葉があるとしたら「あなたの命のほうが大事だ」だけれど、それを言ったらたぶん、ユリウスは少し笑って「君の名前と僕の命を比べるな」とでも返す。
だから何も言えなかった。
出発の朝は、曇りだった。
風がない。空が低い。馬車は玄関前に止まっていて、オットーが荷物を積み込んでいた。ユリウスの旅行鞄と、もう一つ——革の鞄。私の外交文書の控えが入っている。
いつの間に写しを取ったのだろう。あの夜、私が見せた後か。書斎に保管していた控えを、黙って筆写したのか。
ユリウスが玄関に出てきた。
杖をつきながら、いつもよりゆっくり歩いている。今朝は少し顔色が悪い。そのことを言うべきかどうか迷って、言わなかった。言えば止めてしまいそうだったから。
馬車の前で、ユリウスが立ち止まった。
「行ってくる」
そう言って——私の手を取った。
右手で杖を持っているから、左手だった。インクの染みがまだ小指の横に残っている。その手が、私の手を握った。
指先が震えていた。
微かに。気づかないくらいに。でも触れているからわかった。冷たい指先が、小さく震えている。
怖いのだ、と思った。
この人は平気な顔をしているけれど、怖いのだ。長旅が。心臓が。もしかしたら、それ以上の何かが。
「……気をつけて」
それしか言えなかった。もっと何か言うべきだった気がする。「行かないで」とか、「私のためにそこまでしないで」とか。でも出てきたのは「気をつけて」だけだった。
ユリウスは手を離した。
指先が離れる瞬間、引き留めたいと思った。馬車に乗らないでほしいと思った。
思っただけだ。手は離れた。
馬車の扉が閉まる。御者が手綱を取る。車輪が砂利の上を転がり始める。
見えなくなるまで見ていた。丘を下って、林檎園の横を通って、街道に出て。小さくなっていく馬車を、玄関の前に立ったまま見ていた。
手のひらに、ユリウスの指の感触が残っていた。
待つことの、長さを知った。
一日目。何もできなかった。薬草園に出たけれど、ラベンダーの乾燥束を作る手が止まる。紐を結ぶのに三度失敗した。指に力が入らない。
リーザが来て「おねえちゃん、今日は文字やらないの?」と聞いた。「ごめんね、今日はお休み」と答えた。リーザは「ふうん」と言って走っていった。子どもは簡単に受け入れる。大人はそうもいかない。
二日目。帳簿を開いた。ユリウスがいないから、今度は取り上げる人がいない。数字を追う。領地の収支は健全だった。薬草の売上が主な収入で、支出は堅実。ユリウスの字で書かれた備考欄に「カモミールの乾燥、来月分は納屋の二階で」とあった。几帳面な字。少し右に傾いている。
三日目。今日、王都に着いたはずだ。
朝から落ち着かなかった。テラスに出たり、薬草園に行ったり、部屋に戻ったり。オットーが「お茶をお入れしましょうか」と言ってくれたけれど、喉を通る気がしなかった。
四日目。貴族会議の日のはずだ。今ごろ、あの広間に立っているのだろうか。杖をついて。心臓に負担をかけながら。
午後になって、書斎に入った。
ユリウスの机に座った。許可は取っていない。でも座りたかった。机の上にインクの瓶が三つ。一つは蓋が緩い。あの癖は直っていない。
引き出しを見た。
右側の一番上。取っ手に小さな鍵がかかっている。
手紙専用の引き出し。
触らなかった。でも、鍵がかかっているという事実を、しばらく見ていた。
五日目。帰路についたはずだ。三日かかる。あと二日。
六日目の夕方。
馬蹄の音が聞こえた。
飛び出した。玄関に走った。裾を踏みそうになった。
馬車ではなかった。馬が一頭。乗っているのは見覚えのない若い男だ。急使だ。息が荒い。馬も汗をかいている。
「エーレンベルク伯爵邸の方ですか。オットー殿に至急——」
オットーが玄関に駆けつけてきた。急使が何かを伝えている。声が小さくて聞こえない。
オットーの表情が変わった。
「お嬢様」
「何があったの」
「坊ちゃまが——帰路の馬車の中で、心臓の発作を。領地まであと少しのところで——」
足元が揺れた。
揺れてはいない。地面は動いていない。私の膝が震えているだけだ。
「今どこに」
「街道沿いのグリューネ村で休んでおいでです。ここから馬で一時間ほどの——」
「行く」
「お嬢様、お待ちくだ——」
「行くの」
声が、自分のものではないように聞こえた。
馬を借りた。公爵令嬢が馬に一人で乗るなんて、父が知ったら卒倒するだろう。乗り方は知っている。十四の時に厩舎の馬丁にこっそり教わった。父には内緒だった。
あの時は「いつか役に立つかもしれない」と思って覚えた。まさかこんな形で使うとは思わなかった。
街道を駆けた。風が冷たい。髪が乱れる。どうでもいい。
一時間ほどで、小さな村に着いた。宿屋の前にユリウスの馬車が止まっている。オットーの指示で先に到着していた医師が、二階から降りてきた。
「レーヴェンシュタイン嬢ですか。伯爵子息は——」
「どうなの」
「命に別状はございません」
息を吐いた。
いつから止めていたのか、わからないくらい長く息を吐いた。
「ですが、今後このような長旅は厳しいかと。心臓への負担が大きすぎます。本来であれば、王都への往復など——」
「わかっています」
わかっている。わかっていたのに、止められなかった。
二階の部屋は狭かった。
寝台が一つ。窓が一つ。壁に燭台が一つ。それだけの部屋に、ユリウスが横たわっていた。
顔が白い。唇にも血の気がない。呼吸は浅いけれど、規則的だった。眠っている。
椅子を寝台の横に置いて、座った。
ユリウスの手が毛布の上に出ていた。左手。小指の横にインクの染み。今朝——いや、出発の朝に、私の手を握った手だ。
その手を、握った。
冷たかった。あの朝の震えとは違う冷たさだった。血の巡りが悪いのだろう。指を包むようにして、温める。
「なぜ、そこまで」
声に出してから、答えが返ってこないことに気づいた。眠っているのだから当たり前だ。
でも聞きたかった。
なぜ、命をかけてまで。私の名前を取り戻すために。あなたにとって、私の名前はそんなに大事なものなのか。
——君が正当に評価されないのは、僕が許せない。
あの夜の言葉が蘇る。
許せない。
強いからでも、便利だからでもなく。正当に評価されないことが「許せない」。
この人は、私の能力を利用したいのではない。私の能力が正しく扱われないことに怒っている。それは——六年間、誰もしてくれなかったことだ。
手を握ったまま、しばらくそうしていた。
窓の外が暗くなっていく。蝋燭の灯りがユリウスの顔を照らしている。
この手を離したくないと思った。
離したくない。
その感情の名前を、私はまだ知らない。知らないふりをしている。疲れた人間が、優しくされたから縋っているだけだと思いたい。でも——出発の朝、指先が離れた時に感じたあの引力は、縋りとは違うものだった気がする。
気がするだけだ。今はそういうことにしておく。
ユリウスの指が、微かに動いた。
握り返された——わけではない。眠っている人間の無意識の動きだ。
でも、指が私の手のひらの中で少しだけ丸まった。
それだけで、胸の奥が締まった。
苦しいのではない。
苦しいのとは、少し違う。




