第5話 誰にも渡さない
噂というのは、辺境にも届くものらしい。
最初に聞いたのは、薬草園で隣村の農婦と話していた時だった。
「お嬢様は王都からいらしたんでしょう? 最近、王都では大変なことになっているそうですよ」
手が止まった。カモミールの花を摘む手が。
「何かあったのですか」
「なんでも、王太子殿下のお婚約者様が出ていかれたとか。鉄の令嬢とか呼ばれていた方だそうで、あの方がいなくなってから殿下のお仕事が大変なことに——」
「それは」
遮りそうになって、飲み込んだ。
「大変ですわね」
農婦はうんうんと頷いた。私が当事者だとは知らない。知らなくていい。
でも噂は、それだけでは終わらなかった。
翌日、薬草を買いに来た行商人が言った。
「鉄の令嬢を失ったのは王太子府の痛手だそうですよ。なんでも外交も財務も、あの令嬢が一人で回していたとか」
その次の日には、村の教会の司祭が言った。
「王太子殿下が、元婚約者殿をお戻しになろうとしているという話を、巡回の修道士から聞きましたが」
同じ話が、少しずつ形を変えて届く。
鉄の令嬢。便利な令嬢。いなくなって困る令嬢。
結局、そういうことなのだ。
私の価値は、仕事ができるかどうか。便利かどうか。使い勝手がいいかどうか。殿下にとっても、社交界にとっても、たぶん父にとっても。
薬草園のベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
摘んだカモミールが籠の中で少しずつ萎れていく。早く乾燥させなければ香りが落ちる。わかっているのに、立ち上がれなかった。
書斎のユリウスを訪ねたのは、その日の夕方だった。
扉を開けると、ユリウスは帳簿から顔を上げた。インクのついた指先を、無意識に布で拭っている。いつもの仕草だ。左手の小指の横にインクの染みがあるのは、彼がペンを少し変わった角度で持つからだと、この半月で知った。
「噂を聞いた」
私は椅子に座らずに言った。立ったままのほうが、崩れにくい気がした。
「王太子殿下が私を取り戻そうとしているらしいわ。鉄の令嬢がいないと困るから、ですって」
ユリウスはペンを置いた。
「それで?」
「それでって——」
「君は、戻りたいのか」
「違う。そういう話ではなくて」
声が上ずった。自分でもわかった。怒っているのだ。殿下にではない。噂にでもない。
私の価値が、結局そこにしかないことに。
「六年間、強いと言われ続けた。便利だと思われ続けた。出ていったら”痛手だ”と言われる。でもそれは、私がいなくなって仕事が回らなくなったから言われているだけで——私自身のことなんて、誰も」
途中で、言葉が止まった。
喉の奥が詰まったわけではない。ただ、何を言いたいのか自分でもわからなくなった。
ユリウスが椅子から立ち上がった。杖をつかずに。一歩だけ近づいて、止まった。
「違う」
短い声だった。
「君の価値は、仕事ができるかどうかじゃない」
「でも——」
「君の価値は、君がここにいることだ」
窓から入る夕陽が、ユリウスの横顔を照らしていた。目は真っ直ぐ私を見ている。あの、少し眠そうで少し困ったような目ではなかった。今は、はっきりと起きている目だった。
「誰にも渡さない」
静かな声だった。怒りでも興奮でもなく、事実を述べるような声。明日の天気を言うような声で、そんなことを言った。
返事ができなかった。
心臓が変な鳴り方をした。速いのか遅いのかわからない。ただ、いつもと違う鳴り方だった。
「……ありがとう」
それだけ言って、目を逸らした。窓の外を見た。夕陽が眩しくて、それを言い訳にできた。
夜になって、ユリウスの書斎を再び訪ねた。
今度は、革の鞄を持って。
「見せたいものがある」
机の上に、鞄の中身を広げた。紙の束。六年分の外交文書の控え。通商条約の草案、財務改革の提案書、各国との覚書の下書き。全部、私の字で書いたものだ。
「これが六年間の私の仕事の記録よ」
ユリウスは一枚手に取った。目が動く。文面を読んでいる。
「……通商条約の第七条。これは去年、隣国との間で問題になった条項だ。この草案を書いたのが君だと?」
「全部、王太子府の名義で提出されたものだけれど」
ユリウスの指に力がこもった。紙の端が、つられて震えている。
「殿下が書いたことになっているのか」
「王太子府の名義、というだけよ。殿下個人の名前は入っていない。でも——そう解釈されていることは知っている。マリエル嬢が社交の場で”殿下のお導きですわ”と仰っていたそうだから」
ユリウスは紙を机に戻した。
静かに怒っている、と思った。声は変わらない。表情もほとんど動かない。でもインクのついた左手の小指が、かすかに震えていた。
「これを——公にさせてくれ」
「え?」
「貴族会議に出す。君の名前を取り戻す。筆跡と鑑定書があれば、功績の帰属は訂正できる」
私は首を振った。
「もういい。忘れたい。新しい生活を——」
「イレーネ」
名前を呼ばれて、止まった。
ユリウスの目が、さっきとは違う色をしていた。夕方の「誰にも渡さない」の時よりも、もっと深い場所から出ている光。
「……わかった」
引き下がった。
でも目が——目が納得していなかった。口元は閉じたけれど、眉の間にほんの微かな皺が残っていた。
この人は引き下がっていない、と思った。「わかった」と言ったけれど、あれは了解の「わかった」ではない。聞いた、という意味の「わかった」だ。
何かするつもりだ。
止めるべきかもしれない。でも、止める言葉が出てこなかった。誰かが私のために怒ってくれることが、六年ぶりだったから。
その頃、王都では別の嵐が吹いていた。
隣国ヴェルデン公国との通商交渉が、暗礁に乗り上げていた。
外交省の大広間。長テーブルの向こうに座るヴェルデン側の交渉官は、もう三度目の溜息をついていた。
「王太子殿下。この条項に関する貴国の解釈は、昨年の事前合意と食い違っております。事前合意の際に作成された覚書をご確認いただけますか」
ルドヴィクは手元の書類を見た。覚書。確かにある。だが読んでも、何がどう食い違っているのか、すぐにはわからなかった。
以前は——わからなくてもよかった。隣にイレーネがいたからだ。彼女が小声で「第三項の但し書きです。昨年は最恵国待遇の適用範囲を限定する文言がありました」と耳打ちしてくれた。俺はそれを自分の言葉に直して発言すればよかった。
今、隣には誰もいない。
マリエルは控室にいる。「殿下のお力になりたい」と言ってくれたが、通商条約の条文を読める人間ではない。
交渉は一時中断になった。
廊下に出ると、外交官のグレーフェンが歩み寄ってきた。白髪交じりの、温厚だが鋭い目をした男だ。二十年以上、外交の現場にいる。
「殿下。一つ、確認させていただきたいことが」
「何だ」
「昨年の事前合意の覚書ですが——あの文書の草案を作成されたのは、殿下ではありませんね」
ルドヴィクは目を細めた。
「何が言いたい」
「あの草案は、レーヴェンシュタイン嬢と私が三日かけて打ち合わせたものです。条文の構成、但し書きの挿入位置、最恵国条項の適用範囲。すべてレーヴェンシュタイン嬢の起草です」
「……」
「殿下はご存知なかったのですか」
グレーフェンの声には、非難の色はなかった。ただの確認だった。だからこそ、重かった。
知らなかった。
知ろうともしなかった。書類は毎回、整った形で俺の机に届いた。それがどれだけの手間と知識の上に成り立っているか、考えたことがなかった。
「あいつが——そこまでやっていたのか」
声が、自分でも聞こえないくらい小さかった。
控室に戻ると、マリエルが駆け寄ってきた。
「殿下、交渉はいかがでしたか。何かわたくしにできることは——」
「覚書の第三項を読んでくれ。食い違いがどこにあるか」
マリエルは覚書を受け取り、目を通した。しばらくして、困ったように微笑んだ。
「殿下、わたくし……この種の文書にはあまり明るくなくて。申し訳ありません」
申し訳なさそうな顔だった。本当に申し訳ないと思っているのだろう。
でも、使えない。
そう思った自分に気づいて、ルドヴィクは口の中が苦くなった。
使えない。
イレーネに対して、俺はその言葉を一度も思ったことがなかった。思う必要がなかった。彼女はいつも、俺が求める前に仕事を終わらせていたから。
求める前に。
つまり俺は——何も求めていなかったのだ。
六年間。
窓の外に目をやる。午後の陽が傾き始めている。
イレーネは今頃、何をしているのだろう。病弱な伯爵子息の領地で。あの鉄の令嬢が、何もしない日々を過ごしているのだろうか。
困るんだが、と思った。
いや——困っているのは、俺のほうだけだ。




