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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ


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第4話 十四年分の手紙


この領地に来て半月。私は生まれて初めて、自分の時間の使い方がわからなくなっていた。


最初の数日は何もできなかった。座っていることが怖くて、立ち上がっては窓の外を見て、また座って。オットーに「何かお手伝いを」と言うたびに「とんでもない」と返されて。


それが少しずつ変わり始めたのは、薬草園を手伝うようになってからだ。


きっかけは些細だった。テラスからぼんやり庭を眺めていたら、ユリウスの指示で領民の老婆が薬草を摘んでいるのが見えた。カモミールだ。花の摘み方が雑で、茎ごとちぎっている。花だけ摘まないと乾燥したとき香りが落ちる——と、口が勝手に動いていた。


母が好きだった花だ。育て方だけは知っている。


老婆は目を丸くして、それから「お嬢さん、詳しいねえ」と笑った。翌日から私は薬草園に出るようになった。


子どもたちとも顔見知りになった。


広場で会った赤い髪の女の子——リーザというらしい——が、私が字を書けることを知って、「教えて」と言い出した。村には学校がない。読み書きができるのは領主の家と教会の司祭だけだと。


書斎から古い紙をもらって、広場の井戸のそばで文字を教えた。リーザともう二人、男の子が来た。棒切れで地面に字を書く。「あ」と「い」と「う」。当たり前のことだ。でも子どもたちは目を輝かせていた。


私は六年間、外交文書を書いてきた。各国の条約や通商協定の草案を、一字の誤りもなく。


井戸のそばで地面に「あ」を書くほうが、ずっと手応えがあった。


その日の午後、馬車が来た。


見覚えのある紋章だ。王太子府の。


応接間に通されたのは、ハインリヒだった。


子爵家の長男で、王太子府の側近。六年間、同じ部屋で働いていた。私が外交文書を書いている横で、彼は国内の陳情書を整理していた。仕事はまじめだった。でも殿下に意見を言えない人だった。


「お久しぶりです、レーヴェンシュタイン嬢」


「ハインリヒ殿」


彼の表情は硬かった。公務で来ているのだろうけれど、目が泳いでいる。申し訳なさを隠しきれていない。


「殿下がお戻りを望んでおられます。王太子府の業務に……その、支障が出ておりまして」


やはり。


「殿下ご自身のお言葉ですか」


「はい。……はい」


二度言った。一度目は公式の返答で、二度目は彼自身の確認だったように聞こえた。


言いたいことがあるのだろう。「止められなくてすみません」とか。「あなたが正しかった」とか。でもハインリヒは、そういうことを職務中に言える人ではない。


ユリウスが杖をつきながら応接間に入ってきた。


「王太子殿下の使者殿でいらっしゃいますか」


声は穏やかだった。でも目は笑っていない。ユリウスが笑っていないときの目は、静かな湖面に似ている。何も映さない。


「イレーネは僕の客人です。お引き取りいただけますか」


「しかし、殿下のご意向として——」


「ご意向は承りました。お引き取りを」


同じ言葉を繰り返した。声の高さも速さも変えずに。ただ二度目のほうが、少しだけ低かった。


ハインリヒは立ち上がった。


「……失礼いたしました」


頭を下げて、去り際に一瞬だけ私を見た。何か言いたそうな目だった。でも何も言わなかった。彼はいつもそうだ。言わない。言えない。


それが彼の弱さなのか誠実さなのか、六年間一緒に働いても、私にはわからなかった。


使者が去った後、ユリウスは何も言わなかった。


応接間のカップを片付けるオットーに「客用の茶葉が切れそうだ」とだけ言って、書斎に戻っていった。


客用の茶葉。


次の使者が来ることを想定しているのだ。追い返す前提で、茶葉を用意している。


おかしいのかもしれない。笑うべき場面なのかもしれない。でも笑えなかった。代わりに、胸の奥が少しだけ温かくなった。


夜、眠れなかった。


使者が来たせいだ。王太子府の紋章を見た瞬間、身体が覚えていた。あの場所の空気を。書斎のインクの匂いを。長い廊下を歩く靴音を。殿下の声を。


戻りたいとは思わない。それは確かだ。


でも追ってくるという事実が、重かった。もう終わったと思っていたのに。あの場所は私を手放す気がないのだ。私という人間ではなく、私という機能を。


寝台を出て、部屋着の上に羽織をかけた。庭に出る。


月が出ていた。


半月よりやや欠けた月で、薬草園の緑を淡く照らしている。風はない。虫の声だけが低く続いている。


テラスに人影があった。


ユリウスだ。


椅子に座って、膝の上に何かを広げている。紙の束だ。月明かりの下で——読んでいる。


近づくと、ユリウスが顔を上げた。驚いた様子はなかった。


「眠れないか」


「ええ。……あなたこそ」


「僕はもともと夜型だ。夜のほうが心臓が楽なんだ。理由は知らないが」


膝の上の紙束に目が行った。


見覚えのある字だった。丸みのある、少し右上がりの——私の字だ。


「何を読んでいるの」


「君の手紙を読み返していた」


ユリウスは紙束を少し持ち上げて見せた。束が厚い。紐で括ってあるけれど、角が擦り切れている。何度も出し入れしたのだろう。


「十四年分ある」


知っている。私が書いたのだから。でもこうして実物を見ると、思っていたより量が多い。月に一通でも、十四年は百六十通を超える。途中から月に二通、三通と増えた時期もあった。


「全部持っているの」


「書斎に引き出しがある。君の手紙専用の」


さらりと言った。専用の引き出し。


「……暇だったのね」


前にも同じことを言った気がする。テラスで薬草茶を飲んだ夜に。あのときユリウスは「暇だったから君の手紙が宝だった」と言った。


今夜はもう少し、別のことを言った。


「暇だったよ。社交界には出られない、剣は振れない、馬にも乗れない。本を読むか、領地の帳簿をつけるか、薬草の研究をするか。それだけの毎日だ」


月明かりの下で、ユリウスの横顔が白く見えた。睫毛が長い。こんなに長かっただろうか。


「その毎日に、月に一度、君の手紙が届いた。夜会で見た変な帽子の話とか、外交文書の翻訳で苦労した話とか。どうでもいい話ばかりだった」


「……ひどい」


「どうでもいい話が一番嬉しかった、と言っている」


私は黙った。


ユリウスも黙った。虫の声だけが続いている。


月明かりの下に座っている。隣に人がいる。何も要求されていない。報告書も、外交文書も、出席記録も。ただ座って、虫の声を聞いている。


「ユリウス」


「ん」


「……疲れた」


言ってから、驚いた。自分の声に。


「疲れた。もう、強い女でいるのに疲れた」


喉の奥が詰まった。泣きそうなのかもしれない。泣かなかったけれど。目の奥が少し熱くなって、すぐに引いた。六年間泣かなかった人間は、泣き方も忘れるらしい。


ユリウスは何も言わなかった。


しばらく間があって、それから小さく息を吐いた。


「知ってた」


「……え?」


「手紙の筆跡でわかる。君の字は普段、右上がりだ。でもときどき、水平になる。疲れている時だ。ここ二年くらい、ずっと水平だった」


手紙の字で。


二年間。


「気づいてたなら、なぜ何も言わなかったの」


「言って、どうなる。手紙の向こうの君に、僕は何もしてやれない。だから——部屋は空けておいた。いつ来てもいいように」


風が吹いた。薬草の匂いが流れてきた。


部屋を空けておいた。三日前からではない。もっと前から。二年前から、もしかしたらもっと前から。


返す言葉が見つからなかった。ありがとうと言えばいいのだろう。でもその言葉では足りない気がした。足りないのに、他の言葉も出てこない。


だから黙ったまま、月を見ていた。


ユリウスも同じ方向を見ていた。


それでよかった。


翌日の夜。


王都の王太子府では、ハインリヒが報告書を提出していた。


「エーレンベルク伯爵子息は、レーヴェンシュタイン嬢をお返しする意志はないようです」


ルドヴィクは椅子の背に体を預けたまま、天井を見ていた。


「……本気か、あの病弱は」


「本気かと。失礼ながら、伯爵子息の態度は明確でした」


ハインリヒは言葉を選んだ。


「殿下。もし令嬢をお戻しになりたいのであれば、正式な手続きを——」


「手続き?」


ルドヴィクが視線を下ろした。


「婚約はもう解消されている。あいつが自分で出ていったんだ。戻ってこいと言えば済む話だろう」


ハインリヒは口を噤んだ。


済む話ではない。それはハインリヒ自身が一番わかっていた。イレーネの目を見た。あれは戻る人間の目ではなかった。


でもそれを殿下に言える立場ではない。


「……はい、殿下」


ルドヴィクは再び天井を見上げた。


「困るんだがな。あいつがいないと」


困る。


六年間、あの人を「君は強いから大丈夫だろう」と放置し続けた人の口から出た言葉が、「困る」だった。


ハインリヒは報告書を机に置き、一礼して退出した。


廊下を歩きながら、あの応接間のことを思い出していた。杖をついた伯爵子息が、声の高さも変えずに二度繰り返した言葉を。


お引き取りを。


あの人は本気だった。病弱で、剣も持てないのに。


王太子殿下は、あの本気の意味をまだわかっていない。

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