第11話 四割の朝
待合室の長椅子に、座り慣れた跡があった。
左側の端。木の座面が、少しだけ窪んでいる。二ヶ月半、私が座り続けた場所だ。最初の負荷試験の日にルイーゼと並んで座った。コーヒーを飲んだ。経過記録を読んだ。手紙が書けないと悩んだ。エミールの治療が失敗した朝もここにいた。
今日が、最後だ。
座った。いつもの場所に。隣には誰もいない。ルイーゼはもういない。コーヒーもない。手元に何もなかった。書類も、カップも、本も。何も持ってこなかった。持ってくる気にならなかった。
窓から朝の光が差していた。春の光は角度が高くなっている。二ヶ月半前、ここに来た時は冬の終わりで、光が低くて影が長かった。今は影が短い。季節が動いている。
窓の外に、鳥が飛んでいた。
小さな鳥だ。種類は分からない。つばめかもしれない。つばめでないかもしれない。春になると飛んでくる鳥だ、としか言えない。
八歳のユリウスの手紙を思い出した。
——おてがみありがとう。ぼくはげんきです。きょうはまどからつばめがみえました。
嘘だった。元気ではなかった。月の半分を寝台で過ごしていた。でも手紙には「げんき」と書いた。八歳の男の子の、小さな見栄。窓からつばめを見た。それは本当だったかもしれない。寝台の上から、窓の外の空だけを見ていた子どもが、つばめを見た。
あの子が、今、壁の向こうにいる。
二十三歳になった。杖をついて歩けるようになった。手紙を書いて、出さなかった。私を好きだと十四年間思い続けた。結婚した。公国まで来た。四回の処置を受けた。
今日が最後だ。
処置室の扉は、朝の九時に閉まった。分厚い木の扉。中の音は聞こえない。いつもと同じだ。
窓の外の鳥が、もう一度飛んだ。枝から枝へ。白樺の芽が膨らんでいて、葉が出始めている。緑が、日ごとに濃くなっている。
時間が経った。
どれくらい経ったか分からなかった。
窓の光の角度は見ていた。でも、角度が変わったのか変わっていないのか、判断がつかなかった。座り続けていると、感覚がおかしくなる。五分が一時間に感じたり、一時間が五分に感じたりする。
手元に何もないから、数えるものがない。
時計がない。この待合室には時計がない。ルイーゼが言っていた。「時計がないから、もっと長く感じる」。その通りだ。時間は、測れないと溶ける。
廊下のほうから、足音がした。
石の床を歩く音。ゆっくりした歩調。革靴の底が石に当たる、乾いた音。
足音が近づいてくる。
ヴァルター先生が、待合室の入り口に現れた。
私は先生の顔を見た。
先生は——眼鏡を外した。
布を取り出した。レンズを拭いた。
拭く手が、震えていた。
微かに。気づかないくらいに。でも、布がレンズの表面を滑る動きが、一定ではなかった。少しだけ不規則に動いていた。
先生が眼鏡をかけ直した。
「成功です」
先生の声は短かった。それだけ言って、止まった。
先生の声は平らだった。いつもの「悪くない数字です」と同じ温度の声だった。でも、手は震えていた。声が平らなのは、医師としての声だからだ。手が震えていたのは、人としての手だからだ。
立ち上がろうとした。
膝が動かなかった。長椅子に座ったまま、立てなかった。座り続けていたから足が痺れていたのか、それとも——
「奥様」
先生が一歩近づいた。
「処置は無事に完了しました。心室の筋が、十分な強度まで強化されています。回復には時間がかかりますが——成功です」
二度言った。
二度言ってくれたのは、一度目が私に届いていないと思ったからだろう。届いていた。届いていたのに、身体が追いつかなかった。
膝に力を入れた。立ち上がった。足が少しふらついた。座り続けていたせいだ。たぶん。
「面会、してもいいですか」
「どうぞ。ただし短時間で。お身体を休ませますので」
「はい」
待合室を出た。廊下を歩いた。渡り廊下を通らずに、患者棟の中の廊下を進んだ。足が速かった。走ってはいない。早足だ。靴音が石の床に響いた。
ユリウスの部屋の扉を開けた。
ユリウスは寝台に横たわっていた。顔が白かった。汗の跡があった。目は開いていた。天井を見ていた。
私が入ったことに気づいて、こちらを向いた。
「……茶を」
笑いそうになった。
処置の後に最初に言う言葉が、毎回これだ。一回目も、二回目も、今日も。「茶を」。治療が成功しようが失敗しようが、この人は最初に茶を求める。
「淹れてくる」
「冷めたのでいい」
「淹れ直す」
「……いいのに」
同じやり取りだった。一回目の処置の後と、まったく同じだ。
笑わなかった。笑う代わりに、厨房に走った。
◇
それから、日が経った。
一日目。ユリウスの顔色が、少しだけ戻った。白から、薄い色がついた。
二日目。起き上がれた。壁に背を預けて、薬草茶を自分で持って飲んだ。蜂蜜を「もう少し」と言った。公国の市場で買った、山の花の蜂蜜。もう少し、と言えるくらいには味が分かるようになっていた。
三日目。ヴァルター先生が経過記録を見せてくれた。数値が安定している。「悪くない数字です」ではなかった。「良い数字です」と先生は言った。先生が「良い」と言ったのを、初めて聞いた。
五日目。窓を開けて、外の空気を吸った。「春の匂いがする」と言った。国境の橋で「川の匂いがする」と言った時と同じ、半音高い声だった。
七日目。
退院の三日前。
午後の面会時間に部屋に行くと、ユリウスが寝台の縁に座っていた。足を床に下ろしている。靴は履いていない。靴下のまま。
杖が、壁に立てかけてあった。手の届く位置に。でも、手は伸ばしていなかった。
「ユリウス?」
「少し、試したいことがある」
寝台の縁に手をついた。力を入れた。
立ち上がった。
杖なしで。
両足で。
身体が少し揺れた。重心が安定しない。二ヶ月半、寝台にいた身体だ。筋力が落ちている。ヴァルター先生が「体力の回復には数週間から数ヶ月かかります」と言っていた。
一歩。
右足が前に出た。床板が軋んだ。
二歩。
左足。バランスを取るように、両腕が少し広がった。子どもが歩き始めるときの格好に似ていた。
三歩。
右足。ここまでは——
四歩目で、よろけた。
身体が左に傾いた。手が出た。寝台の縁を掴んだ。掴んで、止まった。倒れなかった。
三歩。
「まだ三歩だけど」
ユリウスは寝台の縁を掴んだまま、息を吐いた。額に薄く汗が浮いていた。三歩歩くだけで汗をかく身体だ。
「三歩でいい」
私は言った。
「三歩で十分よ」
「四歩目で転びかけた」
「転んでない。掴んだでしょう」
「掴んだ」
「なら転んでない」
ユリウスは寝台に座り直した。座ってから、少し笑った。口の端だけが上がる、不器用な笑い方。
三歩。リーザの石が三つ。たぶん関係はない。でも三という数が、頭の中で重なった。
ユリウスは杖を取らなかった。壁に立てかけたまま、寝台に座っていた。杖なしで座っている。三歩歩いた後の、少しだけ上気した顔で。
夕方、玄関の前に人が来た。
ブルーノだった。薬草園の管理者。日焼けした顔に、革の手袋を片方だけ外している。あの日と同じ格好だった。
手に、布袋を持っていた。
「約束通り」
ユリウスは面会室の椅子に座っていた。私がブルーノを案内した。布袋をテーブルの上に置いた。
ユリウスが布袋を開けた。中に、小さな紙の包みがいくつか入っていた。包みの上に、品種名がブルーノの字で書かれている。
「エキナセアの寒冷地変種。ラベンダーの原種。カモミールの北方亜種。それから——」
ブルーノが紙の包みを指差していく。
「これは珍しいのをおまけしておいた。寒冷地のローズマリー。お国では見ないはずだ」
ユリウスが包みの一つを手に取った。紙を少し開けて、中の種子を見た。小さい。黒い粒が、紙の上に散らばっている。
「ありがとうございます。帰ったら——」
ユリウスが言いかけて、止まらなかった。
今度は止まらなかった。
「帰ったら、植えます。結果が出たら、手紙を書きます」
ブルーノが頷いた。
「待っていますよ」
帰ったら。
あの日、薬草園の出口で止まった言葉が、今日は最後まで出た。「帰れたら」ではなく「帰ったら」。仮定ではなく、予定として。
布袋を閉じた。種子の入った紙の包みが、布袋の中でかさかさと鳴った。
小さな音だった。命より軽い音だった。
でもその音は、帰る場所がある人の音だった。




