第10話 心臓の音
「明日、最後の処置を行います」
ヴァルター先生の声が、研究棟の小さな診察室に落ちた。
午後の遅い時間だった。窓から入る光がもう傾いていて、先生の眼鏡のレンズに斜めに反射していた。机の上に書類が広がっている。経過記録の紙が何枚も重なって、角が不揃いになっていた。
「これまでの処置の経過は、概ね良好です。心室の筋が、薬草の成分に反応している。明日の処置で、最後の浸透を行います」
「成功すれば——」
「心室の筋が十分に強化されます。発作のリスクは大幅に下がります」
「失敗すれば」
先生は答えなかった。
眼鏡を外した。布で拭いた。拭いてからかけ直した。それが答えの代わりだった。
失敗の場合を、先生は説明しなかった。半年前——最初の診察の時に、一度だけ説明した。それきりだ。二度は言わない。言わなくても、私は覚えている。
「先生」
「はい」
「以前、仰いましたね。“私が、生かします”と」
先生が私を見た。眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
「言いました」
「明日も、そうですか」
先生は少し間を置いた。
「医師として、全力を尽くします」
前と少し違う言い方だった。「生かします」ではなく「全力を尽くします」。変わったのか。それとも、最後の処置の前日に、断言を避けたのか。
分からなかった。先生の顔からは読めなかった。六年間、外交官の表情を読んできた私にも、この人の目の奥は読めない。
ユリウスは隣に座っていた。何も言わなかった。先生の説明を聞いて、一度だけ頷いた。
◇
夜になった。
面会時間は六時で終わった。ユリウスの部屋を出て、渡り廊下を通って、宿舎に戻った。いつもの順路だ。二ヶ月半、同じ道を歩いた。石の床の、どこが少し傾いているか、もう足が覚えている。
部屋に入った。寝間着に着替えた。寝台に座った。
窓の外を見た。患者棟の白い壁。手前から二番目の窓。灯りがついていた。
座ったまま、時間が経った。
どれくらい経ったか分からない。窓の外の灯りはまだ点いていた。消えない。ユリウスはまだ起きている。明日の処置の前夜に、眠れずにいるのかもしれない。ノートに何か書いているのかもしれない。
立ち上がった。
寝間着の上に羽織を引っかけた。靴を履いた。部屋を出た。
渡り廊下を歩いた。夜の渡り廊下は、昼間と違う。壁がない廊下だから、風が吹き抜ける。春の夜の風だけれど、まだ冷たい。羽織の裾が風に膨らんだ。石の床が靴底から冷える。
面会時間は終わっている。いつもは、六時になると宿舎に戻る。ルールだ。研究所のルールで、先生がそう決めた。睡眠の質が大事だと。それは正しい。正しいから、二ヶ月半、守ってきた。
今夜だけは、足が止まらなかった。
患者棟の入り口に着いた。扉は閉まっていない。鍵はかかっていない。入った。
廊下は暗かった。昼間は窓からの光が石の壁を白く照らしているが、夜は燭台の灯りだけだ。燭台が二つ、廊下の両端にある。その間の影が長い。
足音が響いた。自分の靴音が石の床に当たる音。小さな音だけれど、夜の廊下では大きく聞こえた。
角を曲がったところで、足音が止まった。
別の足音が聞こえたからだ。
廊下の先から、ヴァルター先生が歩いてきた。
白い上着ではなかった。普段着の上に外套を羽織っている。巡回だろうか。いや、先生の部屋は研究棟だ。患者棟に来ているのは、ユリウスの部屋を確認しに来たのかもしれない。
先生が私を見た。
立ち止まらなかった。歩きながら、すれ違いざまに言った。
「明日は、最後の処置です」
「はい」
「今夜くらいは」
それだけ言って、先生は通り過ぎていった。
足音が遠ざかっていく。廊下の角を曲がって、消えた。
今夜くらいは。
許可ではなかった。許可という形ではなかった。ただ、先生は私がここにいることを見て、止めなかった。止めずに通り過ぎた。
それで十分だった。
◇
ユリウスの部屋の扉を叩いた。
返事があるまで、少し間があった。
「……誰だ」
「私」
また間があった。
「入れ」
扉を開けた。
部屋の中は暗かった。燭台が一つだけ灯っている。ろうそくの芯が短い。炎が小さい。もうすぐ燃え尽きる。
ユリウスは寝台に横になっていた。毛布をかけて、天井を見ていた。枕元の小さなテーブルに、蜂蜜の瓶と、空のカップと、閉じたノートが置いてある。
「眠れないの」
「ああ」
「ずっと?」
「さっき、少しだけ眠った。すぐ目が覚めた」
私は部屋の椅子を、寝台の横に持ってきた。座った。
ユリウスは天井を見たまま、こちらを向かなかった。横顔が、ろうそくの灯りで半分だけ照らされている。頬の線。顎の輪郭。栗色の髪が枕の上に散っている。
「怖い?」
聞いてから、聞くべきではなかったかもしれないと思った。前に同じことを聞いた時、ユリウスは「痛いと怖いは、違うところにある」と答えた。答えになっていない答えだった。
今夜は、違った。
「怖い」
一言だった。
ユリウスが「怖い」と言ったのを、私は初めて聞いた。
出さなかった手紙にも、「死にたくない」とは書いたけれど、「怖い」とは書いていなかった。ノートにも——たぶん。見せてもらった一ページには書いていなかった。
怖い。
ここに来て二ヶ月半。処置を四回受けて。エミールの失敗を見て。明日が最後で。
怖い。
「私も」
私も怖いと言おうとして、でも違った。私が怖いのと、ユリウスが怖いのは、同じ「怖い」ではない。私は待つ側の怖さで、ユリウスは受ける側の怖さだ。同じ言葉で括れない。
だから「私も」の後に、何も足さなかった。
ユリウスは天井から目を外して、私を見た。
ろうそくの灯りが揺れた。ユリウスの目の中に、小さな炎が映っていた。少し眠そうで、少し困ったような目。いつもの目だ。いつもの目の中に、怖さがある。
何も言えなかった。言えることがなかった。大丈夫だとも、必ず成功するとも、言えなかった。言ったところで嘘になる。四割は四割だ。
手を伸ばした。
ユリウスの胸の上に、手を置いた。
毛布の上からではなく、毛布の端をめくって、シャツの上に。シャツの布は薄かった。洗い晒しの木綿だ。研究所の備品で、少しごわごわしている。
手のひらの下に、鼓動があった。
不規則だった。
一定のリズムで打っていない。速くなったり、遅くなったり、時々一拍抜けるように間が空いたりする。弱い。手のひらに伝わる振動が小さい。押し返されるような力がない。
でも動いている。
動いている。
「明日、終わるわ」
「ああ」
「あなたは生きて帰る」
「……根拠は?」
「君がそう言っているから」
ユリウスの声が掠れていた。
根拠は、君がそう言っているから。根拠にならない根拠だ。私がそう言ったところで、心臓が強くなるわけではない。四割が五割になるわけではない。
でもユリウスは——この人は、それを根拠にする人だ。手紙の筆跡で体調を読み取る人だ。蜂蜜の瓶を見て「一緒にいるということだ」と言う人だ。数字ではなく、人の言葉を根拠にする。
鼓動が手のひらの下で続いていた。不規則な、弱い鼓動。
数えなかった。数えたら数字になる。数字にしたくなかった。ただ、動いている。それだけを手のひらで感じていた。
ろうそくが燃え尽きかけていた。炎がますます小さくなっている。
「ユリウス」
「ん」
「もう少しだけ、こうしていていい?」
「ああ」
「手、ここに置いたまま」
「……ああ」
ユリウスの目が閉じた。
呼吸が少しずつ深くなっていった。眠りに落ちていくのが分かった。緊張が解けていくのが、呼吸の長さで分かった。
眠っていいのか、と思った。明日の朝は処置だ。眠れるなら眠ったほうがいい。身体を休めたほうがいい。先生ならそう言う。
手を離そうとした。
指が動かなかった。
動かなかった——のではなく、握られていた。
ユリウスの手が、私の手の上に重なっていた。いつ動いたのか分からなかった。眠りに落ちる直前か、直後か。意識的か、無意識か。
左手だった。枕の横にあった左手が、私の手の甲に重なっていた。インクの染みのある指が、私の指の間に、少しだけ入っていた。
握っている、というほどの力ではなかった。ただ重なっている。重なっているだけの力。でもその力で、私の手は動かなくなった。
動かしたくなかった。
ろうそくが消えた。
部屋が暗くなった。窓の外に、春の月が少しだけ見えていた。薄い月だ。白樺の枝の向こうに、白く光っている。
暗い部屋の中で、手のひらの下の鼓動だけが続いていた。
不規則で、弱くて、でも確かに、動いている。
明日の朝まで。
明日の朝まで、この音が続いていることだけを祈って、椅子に座ったまま目を閉じた。




