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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第9話 二ヶ月目の蜂蜜


面会を断られたのは、三度目だった。


朝八時に渡り廊下を通って患者棟に行くと、マティアスが廊下に立っていた。「本日は安静日です」と短く言った。先生の指示だ。処置の翌日で、ユリウスの身体を完全に休ませる必要がある。面会が刺激になる場合がある、と先生は説明していた。


一度目に断られた日は、部屋で過ごした。机に座って、何もしなかった。何もしないのが怖かった。ここに来て最初の夜以来の感覚だった。


二度目は、研究棟の厨房で薬草茶の配合を変えて試した。公国の水に合う蜂蜜の量を調整した。少し多めに入れないと甘さが出ない。水が硬いせいだ。


三度目の今日。


蜂蜜の瓶を傾けたら、底のほうにしか残っていなかった。


領地から持ってきた蜂蜜だ。二ヶ月近く、毎朝ユリウスの茶に入れて、自分の茶にも入れて、ルイーゼの分にも少し分けて。瓶の中身が減るのは当然だ。


振っても、もうほとんど出てこない。瓶の壁に、琥珀色の膜がうっすら残っているだけ。


買いに行こう、と思った。


公国の蜂蜜は、領地のものとは違うだろう。花が違うから、味も違う。でも蜂蜜は蜂蜜だ。甘い。それでいい。



研究所から街までは、歩いて二十分ほどだった。


丘を下って、白樺の並木道を抜けると、小さな市場に出る。前にヴァルター先生が「食料品はあの市場で手に入ります」と教えてくれていたが、来るのは初めてだった。二ヶ月間、研究所の食堂で食事をしていたから、市場に用がなかった。


市場は思っていたより賑やかだった。


石畳の広場に屋台が並んでいる。野菜、果物、乾燥肉、チーズ。花屋がある。パン屋がある。公国語の声が飛び交っている。何を言っているか分からないけれど、声の調子で値切っているのだと分かる。値切る声の調子は、どこの国でも似ている。


靴底に市場の水が跳ねた。石畳の隙間に水溜まりがある。昨夜の雨だろう。靴の先が少し濡れた。


蜂蜜を売っている屋台を見つけた。


瓶が大小並んでいる。ガラスの瓶、陶器の壺、木の樽。色が違う。琥珀色の薄いもの、赤みがかった濃いもの、ほとんど白に近いもの。


店主は恰幅のいい女性だった。公国語で何か言った。分からなかった。私が首を傾げると、少し考えてから、たどたどしい王国語で言い直してくれた。


「どの、蜂蜜が、いい?」


「一番甘いものを」


「甘い。これ」


店主が取り出したのは、小さなガラス瓶に入った、少し白っぽい蜂蜜だった。


「山の花。春の花。一番、甘い」


「これを」


銅貨を数えて渡した。公国の通貨にはまだ慣れていない。銅貨の大きさが王国のものと微妙に違う。少し厚い。財布の中でかさばる。


瓶を受け取った。ガラスが冷たかった。重さは、領地から持ってきた瓶と同じくらい。


蜂蜜を買った。


それだけのことだった。異国の市場で、知らない言葉を話す店主から、蜂蜜を一瓶買った。たったそれだけのことが、妙に手応えがあった。


ここで暮らしている。


二ヶ月間、研究所と宿舎と待合室を行き来するだけだった。でも今、市場にいる。石畳を歩いて、靴底を濡らして、蜂蜜を買っている。知らない国で、一人で、蜂蜜を選んでいる。


半年前の私なら——いや、一年前の私なら。王太子府にいた頃の私なら、蜂蜜を買いに行くという発想すらなかった。蜂蜜は厨房にあるものだった。誰かが買ってきて、棚に並んでいるものだった。


自分の足で買いに行く。自分の銅貨で払う。自分の手で瓶を持つ。


半年前、領地に来たばかりの頃、何もしなくていいことが一番難しいと思った。


今は違う。何もできない日でも、蜂蜜を買いに行ける。それだけで、今日は今日として成立する。


帰り道で、マティアスに会った。


市場の外れの、白樺の並木道の入り口に立っていた。研究所の白い上着ではなく、普通の外套を着ていた。買い物帰りらしい。手に紙の包みを持っている。


「奥方様」


「マティアスさん。お買い物?」


「先生に頼まれまして。——それと、これを」


マティアスが包みの中から、小さな布袋を取り出した。


「先生から、奥方様にお渡しするようにと」


「何ですか」


「薬草茶の茶葉です。公国の品種で、先生が配合されたものです。心臓に良い成分が多いので、伯爵にお出ししてもよいかと」


受け取った。布袋は軽かった。開けると、見たことのない色の茶葉が入っていた。少し青みがかった、細かい葉。匂いを嗅ぐと、すっきりした香りがした。ラベンダーに近いが、もう少し冷たい匂い。


先生が、配合してくれた。


患者の妻のために。いや、患者のために。いや——両方のためかもしれない。先生は「医師としての務めです」と言うだろう。でも茶葉を配合して、マティアスに持たせて、市場で偶然会ったふりをして渡す。偶然ではない気がした。先生は、私が蜂蜜を買いに出ることを知っていたのかもしれない。安静日には面会を断られる。断られた私が、何をするか。先生は観察している。医師は患者だけでなく、患者の家族も見ている。


「ありがとうございます。先生にお礼を」


「承知しました」


マティアスは軽く頭を下げて、研究所の方向に歩いていった。



午後の面会時間になった。安静日は午前が禁止で、午後は短時間なら許可される。


ユリウスの部屋に入った。


ユリウスは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けて、膝の上にノートが置いてあった。ペンは持っていない。閉じたまま。


蜂蜜の瓶を見せた。


「買ってきたわ」


「どこで」


「市場。街の」


「一人で行ったのか」


「一人で行ったわ。公国の銅貨は少し厚い。財布がかさばる」


ユリウスは瓶を受け取った。ガラス越しに、白っぽい蜂蜜の色を見ている。


「山の花の蜂蜜だって。一番甘いやつ」


「領地のとは違う色だ」


「味も違うと思うわ。花が違うから」


ユリウスは瓶をテーブルの上に置いた。小さな棚の上に。昨日のカップの跡の隣に。


「蜂蜜が切れた、買いに行きたいが膝が痛い——って、昔、手紙に書いたことがある」


「覚えてるわ」


覚えている。あれは手紙ではなく、出さなかった手紙のほうだった。手紙に書いて、出さなかった。蜂蜜が切れたという日常を、私に送ることができなかった頃の一行。


「今度は、君が買いに行った」


「ええ」


「ああ」


ユリウスは瓶を見ていた。


「これが、一緒にいるということだな」


静かに言った。


蜂蜜が切れたら、誰かが買いに行く。一人では行けない人の代わりに、もう一人が歩いていく。市場で店主と話して、一番甘いやつを選んで、持って帰る。


大したことではない。大したことではないのに、ユリウスがそれを「一緒にいるということ」と呼んだ。十四年間、手紙だけで繋がっていた人が。蜂蜜すら、一人で買いに行けなかった人が。


「先生からも、茶葉をもらったの」


「茶葉?」


先生の配合した茶葉の布袋を見せた。ユリウスが布袋を開けて、匂いを嗅いだ。


「ラベンダーの近縁種だ。寒冷地変種の——この匂い、薬草園で見た品種に近い」


病室にいても、鼻は薬草園にいる。この人はそういう人だ。


「明日の朝、これで淹れてみるわ。新しい蜂蜜と一緒に」


「ああ」


ユリウスがノートに手を置いた。閉じたままの、革表紙のノート。


「イレーネ」


「ん」


「少しだけ、見せたいページがある」


「ノートの?」


「一ページだけ」


ユリウスがノートを開いた。途中のページ。真ん中あたり。日付が書いてある。今日の——いや、少し前の日付だ。一週間ほど前。


右に傾いた、丸みのある字。


——きょう、きみが蜂蜜を買いに行った。

——まどからみおくった。

——うしろすがたをみて、ぼくは、ここにいるりゆうをおもいだした。


窓から。


見送っていた。


蜂蜜を買いに行く私を。病室の窓から。見ていた。


「いつ——」


「先週の安静日だ。面会を断った日」


先週。今日ではない。先週も、私は蜂蜜を——いや、先週は蜂蜜ではない。先週の安静日は、研究棟の厨房で茶の配合を変えていた日だ。あの日、途中で外に出た。少し歩きたくなって、市場の方向に歩いた。蜂蜜は買わなかった。歩いただけだ。


歩いただけの後ろ姿を、見ていた。


「気づかなかった」


「気づかれないように、見ていた」


「なぜ」


「君が外を歩いている姿を見たかった。——理由は、それだけだ」


ノートを閉じた。


私は何か言おうとした。言葉が出てこなかった。言葉が出てこないことを、もう恥じなかった。出てこない時は出てこない。ユリウスがそう教えてくれた。書けない手紙があるように、出てこない言葉がある。


カップを取った。まだ淹れていない。空のカップを取った。何をしているのか自分でも分からなかった。カップを戻した。


「明日の朝、新しい茶葉で淹れるわ」


「ああ」


「新しい蜂蜜と、新しい茶葉で」


「ああ。楽しみだ」


ユリウスの声が、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。


窓の外で、白樺の芽が膨らんでいた。春が、深くなっている。

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