表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/32

第8話 待合室の窓


処置室の扉が閉まった。


三度目の音だった。一回目は負荷試験。二回目は薬草成分の浸透処置の初回。今日が三回目。本格的な処置の開始。ここからが山だとヴァルター先生は言った。心室の筋に薬草の成分を浸透させる。六回から八回の処置を、二週間おきに繰り返す。


扉は分厚い木でできていて、中の音は聞こえない。


待合室に座った。長椅子の、いつもの端。隣にルイーゼがいた。


エミールの退院は明後日だ。荷物をまとめたり、帰りの馬車を手配したり、先生から退院後の生活指導を受けたり。ルイーゼは忙しいはずだった。でもここに座っている。


「付き合わなくていいのに」


「暇なのよ。荷物は昨日のうちに詰めた」


嘘だ。暇ではないだろう。弟の退院準備のほうが優先のはずだ。でもルイーゼはここにいることを選んだ。三ヶ月間、この待合室に座り続けた人だ。最後に一回多く座ることは、たぶん苦ではない。


コーヒーは今日はなかった。代わりに、私が薬草茶を二人分淹れて持ってきていた。領地から持参した茶葉。蜂蜜は少しだけ。ルイーゼは甘いのが苦手だと、先週知った。


「ありがとう。このお茶、好きよ」


「帰ったら茶葉を送るわ」


「本当に? 嬉しい」


ルイーゼはカップを両手で包んだ。指が細い。三ヶ月ここにいて、少し痩せたのかもしれない。来た時の姿を知らないから、比べようがないけれど。カップの持ち手に小さな欠けがあった。研究所の備品だから、前の患者が使ったものだろう。


しばらく黙って茶を飲んだ。


窓の外で風が吹いていた。春が深くなっている。白樺の枝に、小さな芽が出始めている。来た時には裸だった枝が、少しずつ緑を帯びてきている。


「ねえ、イレーネさん」


「うん」


「あなたのご主人と、エミールの違いの話を、してもいい?」


「いいわ」


ルイーゼはカップを膝の上に下ろした。


「エミールは、怖がらなかった」


前にも聞いた言葉だった。でも今日の言い方は、前とは少し違っていた。前は持論として語っていた。今日は——結果を知った後で語っている。


「怖がらないから、身体が備えなかった。不意打ちを受けた。心室が処置に反応する準備ができていなかった」


「それは——先生もそう言ったの?」


「先生は言わない。先生は”予想された経過の範囲内です”と言う」


ルイーゼは少し笑った。先生の口癖を真似るのが上手だった。


「でも私は三ヶ月、ここで見てきた。エミールの前にもう一人、処置を受けた人がいた。その人は成功した。その人は——すごく怖がっていた。処置の前の夜、待合室で私と一緒に座って、ずっと手を握っていた。奥さんの手を」


窓の外の風が、少し強くなった。白樺の枝が揺れている。


「怖がっている人は、身体が身構える。身構えた身体は、処置の衝撃を受け止めることができる。——これは私の解釈であって、医学じゃないわ。でも」


「でも」


「あなたのご主人は、怖がっている。それが、私には少しだけ安心できるところなの」


ルイーゼの声は静かだった。


怖がっていることが安心。変な話だ。普通は、怖がっていない人のほうが安心する。でもルイーゼは三ヶ月分の待合室を持っている。三ヶ月分の、扉が開くのを待つ時間を持っている。その時間から出てきた言葉だった。


「ありがとう、ルイーゼさん」


「礼を言われるようなことじゃないわ。ただの——」


「ただの?」


「ただの、待合室仲間の感想よ」


ルイーゼは茶を飲み干した。カップの底に蜂蜜の筋が残っていなかった。甘くしなかったから。



処置が終わったのは、一時間後だった。


ヴァルター先生が出てきて、「悪くない数字です」と言った。先生はいつも通りだった。眼鏡を押し上げて、私に経過記録の紙を渡してくれた。公国語と学術語の混じった書類。半分は読める。数値は安定しているように見えた。


ユリウスの部屋に行った。今回も疲弊していたが、一回目ほどではなかった。「茶を」と言った。淹れた。飲んだ。


「次は二週間後だ」と先生が言った。


二週間おきに、六回から八回。長い。


部屋に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。


ハインリヒからだった。二通目。


封を切った。


——レーヴェンシュタイン嬢へ。


——ヴィルヘルム男爵の件、正式な結果が出ました。男爵位の剥奪が、貴族院にて決定しております。追加不正(税収の過少申告)に加え、過去の薬草の私的売却契約についても、王室査察による詳細な調査が行われました。男爵領は、今後十年間、王室直轄の管理下に置かれます。


——また、ヘルダーリン嬢(マリエル嬢)についてですが、社交界からほぼ完全に姿を消しておられます。夜会への招待も途絶えていると聞いております。


——殿下は、お変わりなくお元気です。王太子府の体制を見直され、補佐官を二名から四名に増やし、「一人に任せきりにしない仕組み」を構築されています。グレーフェン殿が顧問として助言をされているとのことです。


——エーレンベルク伯のご治療が順調であることを、お祈りしております。


——ハインリヒ


読み終えた。


手紙を裏返して、机の隅に置いた。一通目と同じ場所に。ハインリヒの手紙が二通、裏返しで重なった。


ヴィルヘルムの男爵位が剥奪された。マリエルが社交界から消えた。殿下が体制を見直した。一人に任せきりにしない仕組み。


半年前の私だったら、その一文に立ち止まっただろう。六年間、一人で背負っていた仕事を、殿下がようやく仕組みにした。遅い。遅すぎる。でも、やっている。


今は——うん。


やっているのは良いことだ。良いことだと思う。でもそれは、もう私の話ではない。私は今、公国の研究所にいる。ユリウスの処置の経過記録を読んでいる。ルイーゼのコーヒーの代わりに薬草茶を淹れている。


ヴィルヘルムが落ちたことも、マリエルが消えたことも、殿下が変わったことも、窓の向こうの遠い景色のようだった。見えている。でも、触れない。触れなくても困らない。


手紙の封蝋の赤を、指で触った。ハインリヒの個人の封蝋。半年前、王太子府の回廊で、この人は「止められなかった分を」と言いかけて途切れた。整理がつかないまま、それでも手紙を書いてくれている。


几帳面な字だ。真っ直ぐで、余白が均等で、一字の大きさが揃っている。


ハインリヒらしい手紙だった。



翌々日の朝。


エミールとルイーゼが、研究所を出ていった。


玄関の前に馬車が止まっていた。公国の馬車で、御者が公国語で何か言っている。荷物を積んでいる。エミールの旅行鞄は二つあって、一つは来た時より膨らんでいた。研究所で増えた荷物——先生からもらった薬か、ルイーゼが買った土産か。


エミールは、今日だけ上着の前を留めていた。初めて見た。ルイーゼに言われたのだろう。


「ユリウス」


「ああ」


「元気でな」


「ありがとう、エミール」


ユリウスは杖をついて、玄関の前に立っていた。朝の面会時間に合わせて、見送りに出てきた。顔色は昨日より少しいい。処置から三日経って、回復してきている。


エミールが手を差し出した。ユリウスが握った。左手で。右手は杖を持っているから。インクの染みのある手と、エミールの手が握り合った。


「お前、俺より真面目だから。たぶん大丈夫だ」


「根拠がないな」


「根拠なんてないよ。勘だ」


エミールは笑った。いつもの笑い方だった。歯を見せて、目尻を下げて。この笑顔の裏側に三秒の沈黙があったことを、私は知っている。知っているけれど、今のエミールの笑顔は本物だった。本物の笑顔と、三秒の沈黙は、同じ人間の中に同居できるのだ。


ルイーゼが私のそばに来た。


「イレーネさん」


「ルイーゼさん」


「お茶、おいしかったわ」


「茶葉、送るわね。約束よ」


「ありがとう」


ルイーゼは少し笑った。それから、声を少し落とした。


「帰ったら、手紙を書くわ。——書けたらね」


書けたら。


ルイーゼも、書けない手紙を知っている人だった。


「待っているわ」


ルイーゼは頷いた。それから、軽く頭を下げて、馬車に乗り込んだ。エミールが先に乗っていた。窓から手を振っていた。


馬車が動き出した。砂利を踏む音。蹄の音。門を出て、丘を下って、街道のほうに消えていった。


研究所の前に、私とユリウスと、マティアスだけが残った。マティアスは玄関の扉を押さえていた。無言で。


風が吹いた。白樺の枝が揺れた。芽が少し膨らんでいた。


静かだった。


エミールの声がない研究所は、こんなに静かなのか。壁越しの「おーい、メシまだかー」がない朝は、こんなに広いのか。


ユリウスが杖を握り直した。


「戻るか」


「ええ」


二人で、渡り廊下を歩いた。ユリウスの杖が石の床を叩く音だけが響いていた。


二人だけの三ヶ月が、ここから始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ