第8話 待合室の窓
処置室の扉が閉まった。
三度目の音だった。一回目は負荷試験。二回目は薬草成分の浸透処置の初回。今日が三回目。本格的な処置の開始。ここからが山だとヴァルター先生は言った。心室の筋に薬草の成分を浸透させる。六回から八回の処置を、二週間おきに繰り返す。
扉は分厚い木でできていて、中の音は聞こえない。
待合室に座った。長椅子の、いつもの端。隣にルイーゼがいた。
エミールの退院は明後日だ。荷物をまとめたり、帰りの馬車を手配したり、先生から退院後の生活指導を受けたり。ルイーゼは忙しいはずだった。でもここに座っている。
「付き合わなくていいのに」
「暇なのよ。荷物は昨日のうちに詰めた」
嘘だ。暇ではないだろう。弟の退院準備のほうが優先のはずだ。でもルイーゼはここにいることを選んだ。三ヶ月間、この待合室に座り続けた人だ。最後に一回多く座ることは、たぶん苦ではない。
コーヒーは今日はなかった。代わりに、私が薬草茶を二人分淹れて持ってきていた。領地から持参した茶葉。蜂蜜は少しだけ。ルイーゼは甘いのが苦手だと、先週知った。
「ありがとう。このお茶、好きよ」
「帰ったら茶葉を送るわ」
「本当に? 嬉しい」
ルイーゼはカップを両手で包んだ。指が細い。三ヶ月ここにいて、少し痩せたのかもしれない。来た時の姿を知らないから、比べようがないけれど。カップの持ち手に小さな欠けがあった。研究所の備品だから、前の患者が使ったものだろう。
しばらく黙って茶を飲んだ。
窓の外で風が吹いていた。春が深くなっている。白樺の枝に、小さな芽が出始めている。来た時には裸だった枝が、少しずつ緑を帯びてきている。
「ねえ、イレーネさん」
「うん」
「あなたのご主人と、エミールの違いの話を、してもいい?」
「いいわ」
ルイーゼはカップを膝の上に下ろした。
「エミールは、怖がらなかった」
前にも聞いた言葉だった。でも今日の言い方は、前とは少し違っていた。前は持論として語っていた。今日は——結果を知った後で語っている。
「怖がらないから、身体が備えなかった。不意打ちを受けた。心室が処置に反応する準備ができていなかった」
「それは——先生もそう言ったの?」
「先生は言わない。先生は”予想された経過の範囲内です”と言う」
ルイーゼは少し笑った。先生の口癖を真似るのが上手だった。
「でも私は三ヶ月、ここで見てきた。エミールの前にもう一人、処置を受けた人がいた。その人は成功した。その人は——すごく怖がっていた。処置の前の夜、待合室で私と一緒に座って、ずっと手を握っていた。奥さんの手を」
窓の外の風が、少し強くなった。白樺の枝が揺れている。
「怖がっている人は、身体が身構える。身構えた身体は、処置の衝撃を受け止めることができる。——これは私の解釈であって、医学じゃないわ。でも」
「でも」
「あなたのご主人は、怖がっている。それが、私には少しだけ安心できるところなの」
ルイーゼの声は静かだった。
怖がっていることが安心。変な話だ。普通は、怖がっていない人のほうが安心する。でもルイーゼは三ヶ月分の待合室を持っている。三ヶ月分の、扉が開くのを待つ時間を持っている。その時間から出てきた言葉だった。
「ありがとう、ルイーゼさん」
「礼を言われるようなことじゃないわ。ただの——」
「ただの?」
「ただの、待合室仲間の感想よ」
ルイーゼは茶を飲み干した。カップの底に蜂蜜の筋が残っていなかった。甘くしなかったから。
◇
処置が終わったのは、一時間後だった。
ヴァルター先生が出てきて、「悪くない数字です」と言った。先生はいつも通りだった。眼鏡を押し上げて、私に経過記録の紙を渡してくれた。公国語と学術語の混じった書類。半分は読める。数値は安定しているように見えた。
ユリウスの部屋に行った。今回も疲弊していたが、一回目ほどではなかった。「茶を」と言った。淹れた。飲んだ。
「次は二週間後だ」と先生が言った。
二週間おきに、六回から八回。長い。
部屋に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。
ハインリヒからだった。二通目。
封を切った。
——レーヴェンシュタイン嬢へ。
——ヴィルヘルム男爵の件、正式な結果が出ました。男爵位の剥奪が、貴族院にて決定しております。追加不正(税収の過少申告)に加え、過去の薬草の私的売却契約についても、王室査察による詳細な調査が行われました。男爵領は、今後十年間、王室直轄の管理下に置かれます。
——また、ヘルダーリン嬢(マリエル嬢)についてですが、社交界からほぼ完全に姿を消しておられます。夜会への招待も途絶えていると聞いております。
——殿下は、お変わりなくお元気です。王太子府の体制を見直され、補佐官を二名から四名に増やし、「一人に任せきりにしない仕組み」を構築されています。グレーフェン殿が顧問として助言をされているとのことです。
——エーレンベルク伯のご治療が順調であることを、お祈りしております。
——ハインリヒ
読み終えた。
手紙を裏返して、机の隅に置いた。一通目と同じ場所に。ハインリヒの手紙が二通、裏返しで重なった。
ヴィルヘルムの男爵位が剥奪された。マリエルが社交界から消えた。殿下が体制を見直した。一人に任せきりにしない仕組み。
半年前の私だったら、その一文に立ち止まっただろう。六年間、一人で背負っていた仕事を、殿下がようやく仕組みにした。遅い。遅すぎる。でも、やっている。
今は——うん。
やっているのは良いことだ。良いことだと思う。でもそれは、もう私の話ではない。私は今、公国の研究所にいる。ユリウスの処置の経過記録を読んでいる。ルイーゼのコーヒーの代わりに薬草茶を淹れている。
ヴィルヘルムが落ちたことも、マリエルが消えたことも、殿下が変わったことも、窓の向こうの遠い景色のようだった。見えている。でも、触れない。触れなくても困らない。
手紙の封蝋の赤を、指で触った。ハインリヒの個人の封蝋。半年前、王太子府の回廊で、この人は「止められなかった分を」と言いかけて途切れた。整理がつかないまま、それでも手紙を書いてくれている。
几帳面な字だ。真っ直ぐで、余白が均等で、一字の大きさが揃っている。
ハインリヒらしい手紙だった。
◇
翌々日の朝。
エミールとルイーゼが、研究所を出ていった。
玄関の前に馬車が止まっていた。公国の馬車で、御者が公国語で何か言っている。荷物を積んでいる。エミールの旅行鞄は二つあって、一つは来た時より膨らんでいた。研究所で増えた荷物——先生からもらった薬か、ルイーゼが買った土産か。
エミールは、今日だけ上着の前を留めていた。初めて見た。ルイーゼに言われたのだろう。
「ユリウス」
「ああ」
「元気でな」
「ありがとう、エミール」
ユリウスは杖をついて、玄関の前に立っていた。朝の面会時間に合わせて、見送りに出てきた。顔色は昨日より少しいい。処置から三日経って、回復してきている。
エミールが手を差し出した。ユリウスが握った。左手で。右手は杖を持っているから。インクの染みのある手と、エミールの手が握り合った。
「お前、俺より真面目だから。たぶん大丈夫だ」
「根拠がないな」
「根拠なんてないよ。勘だ」
エミールは笑った。いつもの笑い方だった。歯を見せて、目尻を下げて。この笑顔の裏側に三秒の沈黙があったことを、私は知っている。知っているけれど、今のエミールの笑顔は本物だった。本物の笑顔と、三秒の沈黙は、同じ人間の中に同居できるのだ。
ルイーゼが私のそばに来た。
「イレーネさん」
「ルイーゼさん」
「お茶、おいしかったわ」
「茶葉、送るわね。約束よ」
「ありがとう」
ルイーゼは少し笑った。それから、声を少し落とした。
「帰ったら、手紙を書くわ。——書けたらね」
書けたら。
ルイーゼも、書けない手紙を知っている人だった。
「待っているわ」
ルイーゼは頷いた。それから、軽く頭を下げて、馬車に乗り込んだ。エミールが先に乗っていた。窓から手を振っていた。
馬車が動き出した。砂利を踏む音。蹄の音。門を出て、丘を下って、街道のほうに消えていった。
研究所の前に、私とユリウスと、マティアスだけが残った。マティアスは玄関の扉を押さえていた。無言で。
風が吹いた。白樺の枝が揺れた。芽が少し膨らんでいた。
静かだった。
エミールの声がない研究所は、こんなに静かなのか。壁越しの「おーい、メシまだかー」がない朝は、こんなに広いのか。
ユリウスが杖を握り直した。
「戻るか」
「ええ」
二人で、渡り廊下を歩いた。ユリウスの杖が石の床を叩く音だけが響いていた。
二人だけの三ヶ月が、ここから始まる。




