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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第7話 エミールの朝


廊下が静かだった。


朝の八時に宿舎を出て、渡り廊下を通って患者棟に入った。いつもなら、この時間にはもうエミールの声が聞こえている。壁の向こうから「おーい、メシまだかー」とか、マティアスに「先生まだ寝てんの」とか。声が大きい人だった。大きいから、壁越しでも聞こえた。


今朝は聞こえなかった。


待合室に入ったら、ルイーゼが座っていた。


長椅子の端に、背中を丸めて座っていた。手元に何も持っていない。コーヒーも、本も、何もない。両手が膝の上に置かれていた。


「ルイーゼさん」


顔を上げた。


表情がなかった。表情がない、というのは正確ではない。表情を作る力が残っていない顔だった。目が開いているのに、何も見ていない目だった。


「エミールが——」


声が出て、止まった。喉が動いた。飲み込んで、もう一度。


「昨夜、容態が急変して」


私は長椅子に座った。ルイーゼの隣に。座ってから、何を聞けばいいのか分からなかった。


「処置の途中で、心室が耐えられなくなった。先生が中断した」


ルイーゼの声は低かった。いつもの落ち着いた声ではなくて、もっと下のほうから出ている声だった。


「命に別状はないって、先生は言っている」


「それは——」


「でも、治療はここまでだって」


待合室の窓から、朝の光が差していた。いつもと同じ光だった。白い壁に当たって、少しだけ黄色みを帯びている。窓の桟に、昨夜の結露の跡が残っていた。水滴が一つ、桟の木の表面を伝って、ゆっくり流れていた。


「失敗、って分類されるんだって。先生の記録では」


ルイーゼの手が、膝の上で少し動いた。握りかけて、やめた。


六割の側。


コイン投げより悪い確率の、裏のほう。



エミールの病室の前に行ったのは、九時過ぎだった。


ヴァルター先生が中にいた。先生が出てきた時、眼鏡のレンズに曇りがついていた。室内と廊下の気温差で結露したのだ。先生は眼鏡を外して、布で拭いた。拭く動作がゆっくりだった。


「面会は短時間で。お身体を休ませる必要があります」


先生はそれだけ言って、研究棟のほうへ歩いていった。背中が、いつもより丸かった。


ルイーゼが先に入った。私は廊下で待った。


扉は閉まっていたが、声が少しだけ聞こえた。


「姉ちゃん」


エミールの声だった。いつもより小さい。でも、声の質は変わっていなかった。明るいほうの声だった。


「泣くなよ」


「泣いてない」


「泣いてるだろ」


「泣いてない。鼻が詰まってるだけ」


しばらく、声が止まった。何も聞こえなくなった。壁の向こうで何が起きているか分からなかった。泣いていたのかもしれない。鼻が詰まっていただけかもしれない。


五分ほどして、ルイーゼが出てきた。


鼻が赤かった。


「エミールが、イレーネさんにも顔見せてくれって」


「私に?」


「顔見たいんだって。新しい顔のほうが気が紛れるって」


入った。


エミールは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けている。顔色は悪くなかった。思っていたより——普通だった。顔色だけを見れば、いつものエミールだった。


「よう、イレーネさん」


「おはよう、エミール」


「俺、駄目だったわ」


笑った。


いつもの笑い方だった。歯を見せて、目尻を下げて、少し首を傾げて。明るい笑い方。この人は、こうやって笑う人だ。暗い場所に長くいられない人だ。明るいほうに自然と歩いていく。


「まあ、なんとかなるだろ。心臓がちょっと弱いまんまってだけで、死ぬわけじゃないし」


「ええ」


「走れないけど、歩ける。重いもの持てないけど、帳簿は持てる。商売は続けられる。親父に怒られるけどな、心臓治せなかったって」


エミールは腕を組んだ。組んだ腕の、肘のあたりに力が入っていた。


「ユリウスにはさ、頑張ってほしいわ。あいつは——」


止まった。


笑顔のまま、止まった。


口は笑っている。目尻は下がっている。でも、声が出なくなっていた。口が開いているのに、何も出てこなかった。


三秒。


四秒。


「あいつは、俺より真面目だから。たぶん大丈夫だろ」


声が戻った。笑顔も戻った。でも、あの三秒か四秒の間に、何かが通り過ぎたのが見えた。


何が通り過ぎたのか、私には分からなかった。悔しさか。恐怖か。安堵か。全部か。全部が一瞬で通り過ぎて、エミールの声を奪って、返していった。


「お大事にね、エミール」


「おう。ユリウスによろしくな」



廊下でルイーゼが待っていた。


壁に背を預けて、窓のほうを見ていた。窓の外の光が、さっきより少しだけ高くなっている。朝が進んでいる。


「ルイーゼさん」


「うん」


「エミール、笑ってたわ」


「笑うのよ、あの子は。いつも」


ルイーゼは窓から目を離さなかった。


「笑ってるから大丈夫、って思われるの。昔からそう。商売の席でも、父の前でも。笑ってるから心配いらないって」


「ルイーゼさんは、心配?」


「心配よ」


間があった。


「でも——弟は生きている」


ルイーゼの声が、わずかに震えた。わずかに。いつもの落ち着いた声の、ほんの端のほうが、揺れた。


「生きているなら、それだけで十分よ」


本気だった。


慰めではなかった。自分に言い聞かせてもいなかった。三ヶ月ここにいて、弟の治療を見守って、失敗という結果を受けて、それでも「生きている」と言った。それが、この人の答えだった。


強いのだと思った。


いや——強いという言葉は使いたくなかった。「強い」と言われ続けた私は、その言葉がどれだけ人を縛るか知っている。ルイーゼは強いのではなくて、立っているだけだ。立てる場所に立っているだけだ。


でも、立つべき場所を見つけている人は、やはり——何と言えばいいのか分からない。


分からないまま、頷いた。



ユリウスの部屋に行った。


扉を叩いた。「入れ」と返事があった。


入ると、ユリウスは机の前に座っていた。机の上に何もない。昨日までは薬草園で見た品種のメモを書いていたのに、今日は何もない。


「エミールのこと、聞いた?」


「マティアスが朝、教えてくれた」


声が平らだった。平らすぎた。ユリウスが感情を消す時の声だ。自分の身体のことになると表情を消す癖がある、と前に思ったけれど、今は自分の身体のことではない。エミールのことだ。それでも消している。


「エミールは元気だったわ。笑っていた」


「そうか」


「ユリウスの本格処置は——」


「来週だ」


椅子に座ったまま、ユリウスは膝の上に両手を置いていた。


左手の小指の横に、インクの染みがまだ残っている。ここに来てからも、ノートに何か書いているのだろう。染みが薄くならない。むしろ少し濃くなっている気がする。


その指が、震えていた。


左手の小指が。


ほんのわずかに。テーブルの上なら気づかない程度の揺れ。膝の上に手を置いているから見えた。指先が、ほんの少しだけ、上下に動いていた。


怖いのだ。


エミールの失敗を聞いて、怖くなっている。四割の数字が、数字ではなくなった。隣の部屋にいた人間が、六割のほうに入った。笑って「なんとかなるだろ」と言う人間が、なんとかならなかった。


ユリウスは何も言わなかった。


怖いとも、不安だとも、やめたいとも言わなかった。指だけが震えていた。


私は——何を言えばいいのか分からなかった。


大丈夫だと言えば嘘になる。頑張ってと言えば無責任だ。怖いでしょうと聞いても、ユリウスは「痛いと怖いは違うところにある」と前に言った。


だから何も言わなかった。


椅子を持ってきて、ユリウスの隣に座った。膝の上の、震えている手には触れなかった。触れたら——触れてしまったら、たぶん、ユリウスは震えを止めてしまう。止めなくていいのに。


窓の外で、風が白樺の枝を鳴らしていた。


来週、処置が始まる。


六割の現実を見た後で。

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