第7話 エミールの朝
廊下が静かだった。
朝の八時に宿舎を出て、渡り廊下を通って患者棟に入った。いつもなら、この時間にはもうエミールの声が聞こえている。壁の向こうから「おーい、メシまだかー」とか、マティアスに「先生まだ寝てんの」とか。声が大きい人だった。大きいから、壁越しでも聞こえた。
今朝は聞こえなかった。
待合室に入ったら、ルイーゼが座っていた。
長椅子の端に、背中を丸めて座っていた。手元に何も持っていない。コーヒーも、本も、何もない。両手が膝の上に置かれていた。
「ルイーゼさん」
顔を上げた。
表情がなかった。表情がない、というのは正確ではない。表情を作る力が残っていない顔だった。目が開いているのに、何も見ていない目だった。
「エミールが——」
声が出て、止まった。喉が動いた。飲み込んで、もう一度。
「昨夜、容態が急変して」
私は長椅子に座った。ルイーゼの隣に。座ってから、何を聞けばいいのか分からなかった。
「処置の途中で、心室が耐えられなくなった。先生が中断した」
ルイーゼの声は低かった。いつもの落ち着いた声ではなくて、もっと下のほうから出ている声だった。
「命に別状はないって、先生は言っている」
「それは——」
「でも、治療はここまでだって」
待合室の窓から、朝の光が差していた。いつもと同じ光だった。白い壁に当たって、少しだけ黄色みを帯びている。窓の桟に、昨夜の結露の跡が残っていた。水滴が一つ、桟の木の表面を伝って、ゆっくり流れていた。
「失敗、って分類されるんだって。先生の記録では」
ルイーゼの手が、膝の上で少し動いた。握りかけて、やめた。
六割の側。
コイン投げより悪い確率の、裏のほう。
◇
エミールの病室の前に行ったのは、九時過ぎだった。
ヴァルター先生が中にいた。先生が出てきた時、眼鏡のレンズに曇りがついていた。室内と廊下の気温差で結露したのだ。先生は眼鏡を外して、布で拭いた。拭く動作がゆっくりだった。
「面会は短時間で。お身体を休ませる必要があります」
先生はそれだけ言って、研究棟のほうへ歩いていった。背中が、いつもより丸かった。
ルイーゼが先に入った。私は廊下で待った。
扉は閉まっていたが、声が少しだけ聞こえた。
「姉ちゃん」
エミールの声だった。いつもより小さい。でも、声の質は変わっていなかった。明るいほうの声だった。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「泣いてない。鼻が詰まってるだけ」
しばらく、声が止まった。何も聞こえなくなった。壁の向こうで何が起きているか分からなかった。泣いていたのかもしれない。鼻が詰まっていただけかもしれない。
五分ほどして、ルイーゼが出てきた。
鼻が赤かった。
「エミールが、イレーネさんにも顔見せてくれって」
「私に?」
「顔見たいんだって。新しい顔のほうが気が紛れるって」
入った。
エミールは寝台に起き上がっていた。壁に背を預けている。顔色は悪くなかった。思っていたより——普通だった。顔色だけを見れば、いつものエミールだった。
「よう、イレーネさん」
「おはよう、エミール」
「俺、駄目だったわ」
笑った。
いつもの笑い方だった。歯を見せて、目尻を下げて、少し首を傾げて。明るい笑い方。この人は、こうやって笑う人だ。暗い場所に長くいられない人だ。明るいほうに自然と歩いていく。
「まあ、なんとかなるだろ。心臓がちょっと弱いまんまってだけで、死ぬわけじゃないし」
「ええ」
「走れないけど、歩ける。重いもの持てないけど、帳簿は持てる。商売は続けられる。親父に怒られるけどな、心臓治せなかったって」
エミールは腕を組んだ。組んだ腕の、肘のあたりに力が入っていた。
「ユリウスにはさ、頑張ってほしいわ。あいつは——」
止まった。
笑顔のまま、止まった。
口は笑っている。目尻は下がっている。でも、声が出なくなっていた。口が開いているのに、何も出てこなかった。
三秒。
四秒。
「あいつは、俺より真面目だから。たぶん大丈夫だろ」
声が戻った。笑顔も戻った。でも、あの三秒か四秒の間に、何かが通り過ぎたのが見えた。
何が通り過ぎたのか、私には分からなかった。悔しさか。恐怖か。安堵か。全部か。全部が一瞬で通り過ぎて、エミールの声を奪って、返していった。
「お大事にね、エミール」
「おう。ユリウスによろしくな」
◇
廊下でルイーゼが待っていた。
壁に背を預けて、窓のほうを見ていた。窓の外の光が、さっきより少しだけ高くなっている。朝が進んでいる。
「ルイーゼさん」
「うん」
「エミール、笑ってたわ」
「笑うのよ、あの子は。いつも」
ルイーゼは窓から目を離さなかった。
「笑ってるから大丈夫、って思われるの。昔からそう。商売の席でも、父の前でも。笑ってるから心配いらないって」
「ルイーゼさんは、心配?」
「心配よ」
間があった。
「でも——弟は生きている」
ルイーゼの声が、わずかに震えた。わずかに。いつもの落ち着いた声の、ほんの端のほうが、揺れた。
「生きているなら、それだけで十分よ」
本気だった。
慰めではなかった。自分に言い聞かせてもいなかった。三ヶ月ここにいて、弟の治療を見守って、失敗という結果を受けて、それでも「生きている」と言った。それが、この人の答えだった。
強いのだと思った。
いや——強いという言葉は使いたくなかった。「強い」と言われ続けた私は、その言葉がどれだけ人を縛るか知っている。ルイーゼは強いのではなくて、立っているだけだ。立てる場所に立っているだけだ。
でも、立つべき場所を見つけている人は、やはり——何と言えばいいのか分からない。
分からないまま、頷いた。
◇
ユリウスの部屋に行った。
扉を叩いた。「入れ」と返事があった。
入ると、ユリウスは机の前に座っていた。机の上に何もない。昨日までは薬草園で見た品種のメモを書いていたのに、今日は何もない。
「エミールのこと、聞いた?」
「マティアスが朝、教えてくれた」
声が平らだった。平らすぎた。ユリウスが感情を消す時の声だ。自分の身体のことになると表情を消す癖がある、と前に思ったけれど、今は自分の身体のことではない。エミールのことだ。それでも消している。
「エミールは元気だったわ。笑っていた」
「そうか」
「ユリウスの本格処置は——」
「来週だ」
椅子に座ったまま、ユリウスは膝の上に両手を置いていた。
左手の小指の横に、インクの染みがまだ残っている。ここに来てからも、ノートに何か書いているのだろう。染みが薄くならない。むしろ少し濃くなっている気がする。
その指が、震えていた。
左手の小指が。
ほんのわずかに。テーブルの上なら気づかない程度の揺れ。膝の上に手を置いているから見えた。指先が、ほんの少しだけ、上下に動いていた。
怖いのだ。
エミールの失敗を聞いて、怖くなっている。四割の数字が、数字ではなくなった。隣の部屋にいた人間が、六割のほうに入った。笑って「なんとかなるだろ」と言う人間が、なんとかならなかった。
ユリウスは何も言わなかった。
怖いとも、不安だとも、やめたいとも言わなかった。指だけが震えていた。
私は——何を言えばいいのか分からなかった。
大丈夫だと言えば嘘になる。頑張ってと言えば無責任だ。怖いでしょうと聞いても、ユリウスは「痛いと怖いは違うところにある」と前に言った。
だから何も言わなかった。
椅子を持ってきて、ユリウスの隣に座った。膝の上の、震えている手には触れなかった。触れたら——触れてしまったら、たぶん、ユリウスは震えを止めてしまう。止めなくていいのに。
窓の外で、風が白樺の枝を鳴らしていた。
来週、処置が始まる。
六割の現実を見た後で。




