第6話 隣国の薬草園
ユリウスの歩き方が、違っていた。
杖を突く間隔が短い。いつもは一歩ごとに杖を突いて、ゆっくり重心を移す。今日は杖が地面を叩くリズムが速い。急いでいる——のではなく、身体が勝手に前に出ている。
「あれは、エキナセアの寒冷地変種だ」
声も違った。半音高い。国境の橋の上で川の匂いを嗅いだ時と同じ高さだ。
研究所の裏手に、公国の王立薬草園が広がっていた。
ヴァルター先生が「今日は休息日です。外の空気を吸うのも治療のうちですよ」と言って、散歩を許可してくれた。二回目の処置から五日。ユリウスの顔色はだいぶ戻っている。一回目より回復が早い。エミールの言った通り、二回目のほうが楽だったらしい。
薬草園は、思っていたより広かった。
石壁で囲まれた区画が十ほどあって、それぞれに違う種類の薬草が植えられている。早春なので花は少ないが、緑は多い。冬を越した宿根草の新芽が、土を割って出てきている。区画の間に砂利道があって、砂利に霜の跡が残っていた。朝の気温はまだ低い。
ユリウスは最初の区画で足を止めた。
「これは見たことがない」
しゃがんだ。杖を横に置いて、膝をついた。新しい杖の握りに、もう少し手の跡がついてきている。旅の途中から使い始めて、二週間。少しずつ、ユリウスの手に馴染んできている。
地面に近い位置で、葉の裏を覗き込んでいた。
「葉脈の分岐が細かい。寒冷地に適応した品種は、葉脈を細くして水分の蒸発を抑える。これは——たぶん、ここでしか育たない品種だ」
私には、葉脈の違いは分からなかった。緑の葉にしか見えない。でもユリウスには違いが見えている。薬草の品種改良の本を、書斎で何年も読み続けてきた目が、ここで初めて実物を見ている。
本の中にしかなかった植物が、地面から生えている。
「ユリウス、膝が汚れるわ」
「ああ」
返事はしたが、立ち上がらなかった。葉をもう一枚めくって、裏を見ている。指先に土がついた。爪の間にも土が入った。私も半年前、薬草園で同じことをした。爪の間のカモミールの黄色い跡が、なかなか落ちなかった。
「お客様ですか」
声をかけてきたのは、五十代くらいの男の人だった。日焼けした顔に深い皺。手が大きい。土仕事をする人の手だ。革の手袋を片方だけ外していた。
「薬草園の管理をしております。ブルーノと申します」
「エーレンベルク伯のユリウスです。隣の研究所で治療を受けています。妻のイレーネです」
ユリウスが立ち上がった。膝に土がついている。気にしていない。
「こちらのエキナセアは、寒冷地変種ですか」
「ああ、お分かりになりますか。ここの固有品種です。標高六百メートル以上でないと育たなくてね。市場には出回りませんよ」
「葉脈の分岐が、王国で流通しているものより細い。水分保持の適応ですね」
ブルーノの目が変わった。
客が珍しいことを言った、という目ではなかった。同業者が来た、という目だった。
「よくご存じだ。研究者の方ですか」
「いえ。領地で薬草園をやっています。小さいものですが」
「領主自ら?」
「他にやる人間がいないので」
ユリウスの言い方が、少しだけ自嘲的だった。でもブルーノは笑わなかった。
「いいことです。土を触る領主は珍しい」
それから二人は歩き始めた。
私は少し後ろをついていった。二人の会話が、だんだん専門的になっていった。カモミールの亜種の話。ラベンダーの寒冷地品種の話。乾燥条件による成分含有量の変化。種子の保存方法。接ぎ木の技術。
半分も分からなかった。
分からなかったけれど、ユリウスの横顔を見ていた。
病室のユリウスとは、別の人がいた。
白い壁の中で寝台に横たわっている人ではなかった。膝に土をつけて、葉脈を見て、砂利道を杖で叩きながら歩いて、ブルーノと並んで品種の話をしている人。声が違う。歩幅が違う。目の光が違う。
この人は、こういう顔をするのだ。
知らなかった。手紙では分からなかった。領地の書斎で帳簿を見ている時も、テラスで本を読んでいる時も、こういう顔はしていなかった。本物の薬草園で、本物の管理者と話す時に出る顔だった。
「奥様も、薬草に詳しいのですか」
ブルーノが私に声をかけてきた。
「いいえ。半年前に剪定を覚えたばかりです」
「半年で?」
「ユリウスの書斎の本で」
「それは——なかなか」
ブルーノは少し感心した顔をしたが、それ以上は聞かなかった。ユリウスのほうに話題を戻した。二人はまた品種の話を始めた。
砂利道の先に、ラベンダーの区画があった。
花はまだ咲いていない。早春だから。でも株は大きくて、葉が青みがかっている。領地のラベンダーとは色が違った。
ユリウスが足を止めた。
「これは——」
「北部の寒冷地品種です。ヴェルデンの北の山地でしか採れない原種に近いものです」
ユリウスがしゃがんだ。また膝をついた。葉に触った。
「領地のラベンダーは、これの園芸品種の系統だ。原種は見たことがなかった」
声が、少し掠れた。掠れた理由は、たぶん感動だ。たぶん。ユリウスは感動を口にしない人だから、声の掠れで推測するしかない。
◇
薬草園の出口で、ブルーノが足を止めた。
「伯爵殿」
「ユリウスでいい」
「では、ユリウス殿。帰国されたら、種子の交換をしませんか。こちらの寒冷地品種と、王国の園芸品種を」
ユリウスは少し間を置いた。
「帰れたら——」
言いかけて、止まった。口が閉じた。視線が地面に落ちた。砂利の上の、自分の杖の先を見ていた。
帰れたら。
四割の話だ。帰れる保証はない。処置が成功するかどうか分からない。成功しても、身体が回復するかどうか分からない。分からないことを約束していいのか、とこの人は考えた。律儀だ。約束を、確実に果たせる見込みがなければ口にしない。手紙の人だ。出せない手紙は出さない人だ。
「帰ります」
私が言った。
ユリウスが顔を上げた。
「必ず帰ります。種子の交換、楽しみにしておいてください」
ブルーノに向かって言った。ブルーノは頷いた。
「お待ちしていますよ」
ユリウスは何も言わなかった。何も言わなかったが、杖を握り直した。握り直した時に、少しだけ——ほんの少しだけ——力が入っていた。
帰ると言った。私が。ユリウスの代わりに。
ずるい言い方かもしれない。ユリウスが自分では約束できないことを、私が約束した。でも、約束は二人分でいい。一人が言えない時は、もう一人が言えばいい。
それが一緒にいるということだ、とユリウスなら言うだろう。言わなかったけれど。
◇
宿舎に戻ると、机の上に手紙が置いてあった。
マティアスが預かっていてくれたらしい。王国からの便で、研究所宛に転送されてきた。
封蝋は赤。見覚えのある紋章。王太子府の——いや、違う。個人の封蝋だ。
ハインリヒからだった。
封を切った。ハインリヒの字は相変わらず几帳面だった。王太子府で六年間、隣の机で見てきた字だ。真っ直ぐで、余白が均等で、一字の大きさが揃っている。私の字とは違うタイプの几帳面さだ。
——レーヴェンシュタイン嬢へ。
——ご無事でしょうか。公国でのご滞在が順調であることをお祈りしております。
——一件、お知らせすべきことがございます。ヴィルヘルム男爵領において、王室査察の結果、追加の不正が発覚しました。隣国への薬草の私的売却に加え、領地の税収の過少申告が確認されております。男爵位の剥奪に向けた審議が、貴族院で始まっています。
——正式な結果が出ましたら、改めてお知らせいたします。
——ハインリヒ
読み終えた。
手紙を机の上に置いた。
ヴィルヘルムが、まだ沈んでいる。追加の不正。税収の過少申告。男爵位の剥奪。半年前、貴族院で私が立って、証拠を出して、ヴィルヘルムを退けた。あの時が終わりだと思っていたが、終わりではなかった。あの男は、まだ穴を掘り続けていたのだ。自分の足元の穴を。
半年前なら、この手紙を読んで何かを感じたかもしれない。怒りか、安堵か、達成感か。
今は——あまり、何も感じなかった。
遠い話だった。王都の貴族院の話。ヴィルヘルムの領地の話。社交界の話。
私は今、公国の研究所にいる。ユリウスの処置の経過を見ている。蜂蜜の残量を気にしている。公国のコーヒーの苦さに少しだけ慣れてきている。
手紙を裏返して、机の隅に置いた。
窓の外に、薬草園の石壁が見えた。あの壁の向こうで、ラベンダーの原種が、春の光を浴びている。ユリウスが膝をついて触った葉が、風に揺れているかもしれない。
ヴィルヘルムのことより——帰ったら、あのラベンダーの種子が届く。そちらのほうが、ずっと大事だった。




