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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第12話 帰ろう、僕たちの家に


ヴァルター先生の眼鏡が、朝の光を反射していた。


研究所の玄関の前。白い壁の建物が三棟、春の終わりの陽射しを受けている。来た時より、壁が汚れていた。冬のあいだに苔が生えて、南側の壁に薄い緑の筋がついている。三ヶ月前には気づかなかった苔だ。


「お身体のことで何かございましたら、いつでもお手紙ください」


先生は白い上着を着ていた。ボタンが一つ、糸が緩んでいる。前から気づいていたが、言わなかった。先生はそういうことを気にしない人だった。


「ありがとうございました、先生」


「いいえ。——奥様」


「はい」


「お茶を、続けてください。あの配合は、心臓に良い影響があります」


「続けます」


先生の布袋の茶葉。公国の寒冷地品種で配合された薬草茶。市場で蜂蜜を買った日に、マティアスから受け取った。あの茶葉は、旅行鞄の中に入っている。帰ったら、領地の水で淹れてみる。味が変わるだろう。水が違うから。


マティアスが、先生の後ろに立っていた。


無言で、頭を下げた。深く。長く。それだけだった。何も言わなかった。この人は最初から最後まで、必要なこと以外を言わなかった。でも、あの頭の下げ方には、言葉より多くのものが入っていた。


馬車が門の前に止まっている。来た時と同じ医療馬車だ。御者も同じ人だった。三ヶ月前に国境の橋を渡った、あの御者。


ユリウスが杖をついて、馬車に向かった。新しい杖。三ヶ月で、握りの部分にユリウスの手の形がついていた。木の色が少し暗くなっている。汗と体温で、色が変わったのだ。旅の杖は、旅の杖らしくなっていた。


「先生」


ユリウスが振り返った。


「種子が育ったら、手紙を書きます」


「楽しみにしています」


先生は笑わなかった。口元は動かなかった。でも、眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。


馬車に乗り込んだ。座席は右と左で硬さが違う。来た時と同じだ。ユリウスが左、私が右。右のほうが少し硬い。腰のあたりが微妙にずれる。三ヶ月前と同じ感覚だ。


馬車が動き出した。砂利を踏む音。蹄の音。


門を出た。振り返ると、先生とマティアスが玄関の前に立っていた。先生は眼鏡を拭いていた。マティアスは直立していた。白い壁の前の二人が、小さくなっていった。



国境の橋は、行きより近く見えた。


三ヶ月前は遠かった。五日間の旅路の途中で、知らない国に入る橋だった。今は帰る橋だ。同じ橋なのに、方向が違うだけで見え方が変わる。


橋の上に入った。車輪の音が石の上で硬くなった。


ユリウスが窓を開けた。


「先生に怒られるわよ」


「先生はもういない」


川の匂いがした。


三ヶ月前と同じ匂いだ。水と、石と、藻の匂い。川面に泡が立っている。灰色の水。でも今日は、光が三ヶ月前より強い。春の終わりの光が、川面を白く照らしている。


「川の匂いがする」


ユリウスが言った。三ヶ月前と同じ言葉だ。


「同じ川なのに、帰りのほうが匂いが強い」


「気のせいじゃない?」


「気のせいかもしれない。でも、強い気がする」


ユリウスは窓の外を見ていた。欄干の雪はもう残っていない。石の欄干が乾いている。春が過ぎて、初夏が近い。


私は手を伸ばした。


ユリウスの左手を取った。インクの染みのある手。小指の横の染みは、三ヶ月でだいぶ薄くなっていた。でもまだ残っている。完全には消えない。


三ヶ月前、この橋の上で、ユリウスが私の手を握った。揺れたから掴んだのだと思っていた。でも——あれは嬉しかったから握ったのだと、今は知っている。ノートの一ページを読んだから。窓から後ろ姿を見送る人が、嬉しくて手を握ったのだと。


今度は、私から。


ユリウスが私を見た。


何も言わなかった。ただ、指が動いた。握り返した。今度は冷たくなかった。春の終わりの気温が、指を温めていた。


揺れてもいないのに、握り返してくる。


橋を渡りきった。王国側の土の道に戻った。


手は離さなかった。ユリウスも離さなかった。


御者は何も言わなかった。



領地に着いたのは、五日後の午後だった。


丘を上がる道に入った時、匂いがした。


薬草園の匂いだった。ラベンダー。カモミール。ローズマリー。風に乗って、馬車の窓から入ってきた。三ヶ月留守にしていたのに、匂いは変わっていなかった。オットーが手入れを続けてくれていたのだ。


丘の上に、屋敷が見えた。石造りの小さな屋敷。テラスの柵。書斎の窓。薬草園の畝。


玄関の前に、人が立っていた。


オットーだった。


黒い上着を着ている。襟元がきちんと整っている。今日は崩れていない。身支度をする時間があったのだ。この日のために、朝から準備していたのかもしれない。


その横から、小さな影が飛び出してきた。


「奥さまー!」


リーザが走ってきた。全速力だった。丘の坂を下るのではなく、上ってくる方向に走っている。弟の手を引いていない。一人で走ってきた。前歯がまた一本抜けたらしい。笑顔の隙間が広くなっていた。


馬車が止まった。扉を開けた。降りた。


リーザがぶつかってきた。腰のあたりに。小さな腕が、私の腰に巻きついた。


「おかえりー」


「ただいま、リーザ」


「三つ数えたよ。いち、に、さん」


三つ。冬、春、夏。石が三つ。


「石は?」


「ある! 崩れなかった!」


リーザが指差したのは、薬草園の畝の端だった。遠くて見えないけれど、石が三つ、積んであるのだろう。三ヶ月間、崩れなかった石。


オットーが歩いてきた。


「お帰りなさいませ」


声が震えていなかった。でも、目が赤かった。鼻の頭も少し赤い。泣いていたのか。泣いたあとなのか。この人はたぶん、馬車が見えた時に泣いて、馬車が着くまでに拭いて、今はもう平静な顔をしている。


「ただいま、オットー」


「お二人とも、お変わりなく」


「変わったわ。少しだけ」


ユリウスが馬車から降りた。


杖をついている。新しい杖ではなかった。


オットーが差し出した杖だった。古い杖。木目が少し曲がった、使い込まれた杖。握りの部分がユリウスの手の形に馴染んだ杖。出発の前にオットーに預けていた、家の杖。


オットーはいつ差し出したのだろう。私がリーザに抱きつかれている間に、馬車の横に歩いていって、杖を渡したのだ。何も言わずに。


ユリウスが古い杖を握った。握りが手に馴染んでいた。三ヶ月ぶりだけれど、木が手の形を覚えていた。


「坊ちゃま。おかえりなさいませ」


「ただいま、オットー」


新しい杖は、馬車の中に残してある。旅の杖。あとで取り出して、書斎に立てかけるだろう。旅の杖と家の杖。二本の杖を持つ人になった。


玄関を入ると、机の上に書簡が一通置いてあった。


オットーが「お留守中に届いておりました」と言った。


封蝋は金。王家の紋章ではない。王太子府の——個人の封蝋だ。ルドヴィクの名前。


封を切った。


中身は書簡ではなかった。公式文書だった。「貴族院判決に基づく功績帰属の正式訂正通知書」と、上部に活字で印刷されている。


通商条約の起草に関する功績帰属が、王太子府名義からイレーネ・フォン・レーヴェンシュタイン個人に正式に訂正されたことを通知する、という内容だった。日付は一ヶ月前。署名欄に、ルドヴィクの名前がある。


殿下本人からの言葉は、一行もなかった。


公式文書だから当然だ。私信ではない。手続きの完了通知だ。でも——署名のインクの筆圧が、少しだけ強かった。名前を書く時に、力を入れたのだと思う。


殿下なりの、誠実さなのだろう。


通知書を封筒に戻して、机の上に置いた。あとで書斎の引き出しにしまう。鍵のかかっていない引き出しに。



夕方。テラス。


薬草茶を淹れた。ヴァルター先生の茶葉で。領地の水で。


味が違った。公国の水で淹れた時より、まろやかだった。苦味が柔らかい。水が軟らかいからだ。


蜂蜜を入れた。公国の市場で買った、山の花の蜂蜜。瓶の中身はまだ半分残っている。


「おいしい」


ユリウスが言った。


「公国で飲んだ時と違う」


「水が違うから」


「ああ。同じ茶葉なのに」


テラスの椅子に並んで座っている。半年前から続いている配置だ。変わっていない。変わったのは、椅子の横に杖が二本立てかけてあることだ。古い杖と、新しい杖。家の杖と旅の杖。


ユリウスがカップを置いた。テラスのテーブルの上に。カップの底が、テーブルの木の表面に当たって、小さな音がした。


「イレーネ」


「ん」


「ノートを、見てほしい」


ユリウスが膝の上からノートを取った。現在進行形のノート。革表紙の角が擦れている。三ヶ月前よりもっと擦れている。ページが増えたからだ。表紙が膨らんでいる。


開いた。最後のページ。


ユリウスの字。右に傾いた、丸みのある字。


いくつもの日付が並んでいた。研究所にいた三ヶ月間の、日付と、短い言葉。全部は読めなかった。ユリウスが開いたのは、最後の一ページだけだから。


最後のページの、最後の行。


——かえろう、ぼくたちのいえに。


ひらがなだった。


八歳の手紙と同じ書き方だった。「おてがみありがとう」と同じ。「ぼくはげんきです」と同じ。「あいたい」と書けなかった八歳の子どもと同じ字で——書けなかったことを、書いている。


帰ろう。僕たちの家に。


「いつ書いたの」


「処置が成功した日の夜」


「あの日」


「ああ。あの日の夜に、書いた」


先生が「成功です」と言った日。私が立ち上がれなかった日。ユリウスが「茶を」と言った日。


あの夜に、ユリウスはノートを開いて、ペンを持って、この一行を書いた。


帰ろう、僕たちの家に。


僕たちの。


十四年間、手紙で「ぼくの」と書いていた人が、「ぼくたちの」と書いている。


ノートを閉じた。閉じようとしたら、ユリウスが手を添えた。閉じるのを手伝おうとしたわけではない。ノートの表紙に、手を重ねた。私の手の上に。


夕方の風が、テラスを吹き抜けた。薬草園の匂いがした。ラベンダー。カモミール。それから——林檎。林檎園のほうから、甘い匂いが混じっている。実が小さく色づき始めているのだろう。夏が近い。


「ユリウス」


「ん」


「おかえり」


「ただいま」


書斎。


ユリウスは机の前に座った。古い杖は壁に。新しい杖はその隣に。二本の杖が並んでいる。


机の上に、インクの瓶があった。


出発の前にオットーが管理していた瓶だ。蓋の緩いほうの瓶。いつも少し傾いている瓶。オットーが三ヶ月間、位置を動かさずに置いていてくれたらしい。瓶の底の輪っかの跡が、机の表面に残っている。


瓶を手に取った。


蓋が緩い。いつも通り。


締めた。


ぎゅっと。ちゃんと。蓋が瓶の口にぴったりと嵌まった。


明日にはまた緩むだろう。書いているうちに蓋を開けて、閉め忘れて、インクが少しだけ乾いて。イレーネが「また緩んでる」と言って、僕が「ああ」と答える。


でも今日は、締めておきたかった。


帰ってきた日くらいは。


窓の外で、初夏の虫が鳴き始めていた。

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