第1話 冬の支度
ラベンダーの畝が、霜で白くなっていた。
朝の光が丘の斜面を照らしている。冬の終わりの光は角度が低くて、薬草の葉の裏側まで届かない。影が長い。私の影も、畝のあいだに細く伸びている。
ヴァルター先生の初診から、七ヶ月が経った。
残りの時間を、指で数えられるようになっている。処置の開始期限まで、あと二ヶ月。公国まで馬車で五日。着いてから処置の準備に数日。逆算すると、出発は来週がぎりぎりだった。
鋏を持って屈んだ。ラベンダーの枯れた花穂を切る。冬のあいだに伸びた枝を整理しておかないと、春に花付きが悪くなる。来年の春には——ここにいないけれど。
いる予定だ。
帰ってくる予定だ。予定、という言葉を心の中で繰り返して、少し嫌になった。六年間、王太子府で予定の管理ばかりしていた人間の癖だ。命を賭ける旅路を、予定で処理しようとしている。
鋏の刃に、霜が溶けて水滴がついた。指先が冷たい。手袋をすればいいのだけれど、剪定は素手のほうが感覚がいい。ユリウスの書斎の本にそう書いてあった。半年前は鋏すら持てなかった私が、今は素手で剪定している。
畝の端に、石が三つ積んであった。
リーザだ。昨日の夕方、ここで遊んでいた。石を積む癖がある。意味があるのかないのか分からない。子どもの遊びは、大人には分からないことが多い。
「奥さま」
振り向くと、リーザが丘の下から走ってきた。今日は弟——アンナの弟——も一緒だ。二人とも頬が赤い。冬の朝の空気が冷たいのだろう。
「おはよう、リーザ」
「奥さま、いつ帰ってくるの」
唐突だった。子どもは唐突だ。
「夏の初めに、帰る予定よ」
「なつのはじめ」
リーザは首を傾げた。それから、畝の端の石を指差した。
「いち、に、さん。三つ分だね」
何が三つ分なのかは、説明されなかった。でもたぶん、リーザなりの計算なのだ。冬、春、夏。三つの季節。石が三つ。
「三つ分ね」
「うん。三つ数えたら帰ってくる」
弟のほうが、リーザの後ろから顔を出した。
「おねえちゃん、さむい」
「もうちょっと」
「さむいってば」
リーザは弟の手を引いて、丘を下っていった。途中で一度だけ振り返って、手を振った。前歯が一本抜けたばかりの口で、何か言った。風で聞こえなかった。
石は三つ、畝の端に積んだままだった。
崩さないようにしよう、と思った。
◇
書斎に戻ると、ユリウスとオットーが帳簿を広げていた。
いや、正確には、ユリウスが広げていた帳簿を、オットーが隣で覗き込んでいた。帳簿の上にインクの瓶が二つ。蓋の緩いほうの瓶が、いつも通り少し傾いている。もう一つの瓶は蓋が閉まっている。
「ここからここまでが、薬草の売掛け。来月の納品分は、南のメルツァー商会に確認を入れてある。手紙は引き出しの二段目に控えが入っている」
ユリウスの声が、事務的だった。帳簿の説明をする時のユリウスは、いつもこの声になる。感情を挟まない、平らな声。私が王太子府で使っていた声に少し似ている。
「坊ちゃま、カモミールの乾燥在庫は」
「納屋の二階。棚の三段目から五段目。ラベルが貼ってある」
「よろしゅうございます」
オットーが帳簿に何かを書き込んだ。私は扉の横に立ったまま、二人を見ていた。
半年前——いや、もっと前。ここに来たばかりの頃、ユリウスは帳簿を私に触らせなかった。「今は何もしなくていい。休むのが仕事だ」と言って、取り上げた。
今、ユリウスは帳簿をオットーに預けている。別の人に、帳簿を預ける。それは、自分が不在になることを受け入れた人の行動だ。
「治療渡航届は、先週、父王陛下の承認を得た」
ユリウスが私のほうを見た。入ってきたことに、最初から気づいていたらしい。
「代行権限の委任書も受理されている。オットー、お前の名前で領地の行政判断ができる。期間は六ヶ月。更新は不要」
「六ヶ月もございますか」
「三ヶ月で帰るつもりだが、余裕を持たせた」
「賢明でございます」
オットーの声は穏やかだった。でも目が少し赤い。この老侍従は、昨夜から寝ていないのではないかと思った。根拠はない。ただ、オットーの襟元がいつもよりわずかに崩れていた。この人が襟を崩すのは、身支度をする時間がなかった時だけだ。
「お嬢様——失礼、奥様」
「お嬢様でいいわ、オットー。今さら直さなくても」
「いいえ。奥様は奥様でございます」
オットーが少し笑った。皺だらけの笑顔だった。
「治療費のほうは」
「領地の蓄えで四割ほど。お父上——公爵閣下から支援金をいただいております。残りは、ヴァルター先生の口添えで、研究所が研究症例として費用の一部を負担してくださる」
ユリウスが、帳簿の脇に置いてあった紙を私に見せた。金額が三列に並んでいる。ユリウスの字は相変わらず右に傾いていた。
父からの支援金。
父が「娘の夫のためだ」と書いてよこした手紙は、書斎の引き出しにしまってある。あの手紙を読んだ時、ユリウスは何も言わなかった。ただ、手紙を丁寧に畳んで、引き出しに入れた。入れる時の指が、少しだけ丁寧すぎた。
「足りる見通しね」
「足りる。ぎりぎりだが」
「ぎりぎりは、得意よ」
ユリウスの口の端が動いた。笑ったのだと思う。
オットーが帳簿を閉じた。
「坊ちゃま、奥様。もう一つだけ」
「何」
「リーザの読み書き教室のことでございますが」
「ああ。司祭に頼んである。週に二回、広場の井戸のそばで」
「リーザは、司祭様の教え方だと怒られそうだと申しておりました」
「怒られそう」
「司祭様は、字を間違えるとお叱りになるそうで。奥様は間違えても笑っていたから好きだった、と」
私は何か返そうとして、うまく言葉が出なかった。
笑っていたのか、私は。字を教えている時に。覚えていない。覚えていないけれど、リーザは覚えていた。
「帰ったら続きをやるわ」
「リーザには、そうお伝えしておきます」
オットーが一礼して、書斎を出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
書斎に二人きりになった。
窓の外では、丘の向こうに冬の雲が低く垂れている。雪はもう降らない。でも空は暗い。
夕方、テラスで薬草茶を飲んだ。
今日のお茶は、ユリウスが治療準備用に調整した配合だった。心臓に負担の少ない薬草だけを使っている。味は、いつもの甘い花の香りより少し苦い。蜂蜜を足してもまだ苦い。
「まずいわね」
「まずい」
「でも飲むのね」
「飲む」
ユリウスはカップに口をつけた。まずい顔で飲んでいた。まずい顔を隠さないのが、この人らしいと思う。王太子府にいた頃の私なら、まずくても顔に出さなかった。社交の顔で飲み干した。ここでは、まずければまずいと言える。
テラスの椅子に並んで座る。もう当たり前になった配置だ。毎朝、毎夕、ここに座って、カップを置いて、虫の声を聞いたり風を受けたりした。冬は虫の声がない代わりに、風が枯れた葉を鳴らす。
「ユリウス」
「ん」
「書斎の引き出し、鍵をかけなくていいの」
ユリウスが少し間を置いた。
書斎の机の右側、一番上の段。手紙専用の引き出し。私がここに来たばかりの頃、鍵がかかっていた。十四年分の私の手紙が入っていた引き出し。その隣に、出さなかった手紙の束。
今朝、書斎で帳簿の話をしている時に見た。引き出しに鍵がかかっていなかった。鍵は引き出しの中に入れてあった。
「もう隠すものがないから」
ユリウスは、テラスの向こうの丘を見ていた。
「手紙は全部、君に読まれた。ノートも見せた。引き出しに鍵をかける理由がない」
「でも、ずっとかけていたでしょう」
「ああ。十年くらい」
十年。
十四年分の手紙を十年間、鍵をかけてしまっていた人が、鍵を開けた。開けて、鍵を引き出しの中に入れた。鍵をかける道具を、鍵をかける場所にしまった。
「オットーには——」
「何を」
「留守中に、引き出しを見ないようにとか、そういうことは」
「言っていない。オットーは見ない人だ」
「そうね」
そうだ。オットーは見ない人だ。坊ちゃまの引き出しを開ける人ではない。それを、ユリウスは知っている。だから何も言わない。信頼というのは、たぶん、言わなくて済むことだ。
まずい薬草茶を飲み干した。カップの底に、蜂蜜の筋が残っていた。苦いお茶にも、蜂蜜は入れてくれるのだ、この人は。
夜、寝台に入る前に、もう一度書斎を通った。
明日の朝には出発する。荷物は旅行鞄に詰めた。着替えは最低限。書類。ヴァルター先生から渡された治療の説明書。薬草茶の缶——ユリウスが半年前に鞄にこっそり入れてくれたのと同じ缶。中身は補充してある。
ポケットには、紙片が二枚。「無理するな」と書かれた紙。一枚目は私が倒れた朝のもの。二枚目は王都に発つ前夜のもの。どちらも同じ大きさの紙に、同じ筆跡で、同じ言葉が書いてある。
書斎の扉が少し開いていた。
覗くと、ユリウスがいた。
机の前に座って——何もしていなかった。帳簿も開いていない。本も読んでいない。ペンも持っていない。ただ、机の上を見ていた。
机の上には何もなかった。帳簿はオットーに渡した。書簡は整理した。インクの瓶だけが残っていて、蓋の緩いほうの瓶が、いつも通り少し傾いている。
ユリウスの横に、杖が立てかけてあった。
見慣れない杖だった。
今まで使っていたのは、木目が少し曲がった、使い込まれた杖だ。握りの部分がユリウスの手の形に馴染んでいた。あれは——ない。代わりに、新しい杖が立てかけてある。木の色がまだ明るい。握りの部分が滑らかすぎる。まだ、誰の手にも馴染んでいない。
「新しい杖」
私の声に、ユリウスが振り向いた。
「ああ。今朝、替えた」
「前のは」
「オットーに預けた」
預けた。捨てたのではなく、預けた。
「帰ったら返してもらうの」
「ああ」
「なぜ替えたの」
ユリウスは、新しい杖を見た。少し眠そうで少し困ったような目。いつもの目だ。
「旅の杖と、家の杖は、分けたかった」
旅の杖と、家の杖。
この人は、帰ってくるつもりだ。新しい杖を旅に持っていって、帰ったら古い杖に戻す。古い杖をオットーに預けたのは、帰る場所に置いておくためだ。
理由を聞いたのに、理由を聞かなかったことにしたかった。聞かなくても、わかった。わかったことを言葉にすると、壊れそうな気がした。
「おやすみ、ユリウス」
「ああ。おやすみ」
書斎を出た。
廊下を歩いて、自分の部屋に戻った。寝台に入った。
目を閉じた。
明日の朝、出発する。公国まで五日。研究所で三ヶ月。四割の賭け。
でも——杖を預けた人がいる。
帰る場所に、古い杖がある。
それが今夜の、眠れるための理由だった。




