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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第1話 冬の支度


ラベンダーの畝が、霜で白くなっていた。


朝の光が丘の斜面を照らしている。冬の終わりの光は角度が低くて、薬草の葉の裏側まで届かない。影が長い。私の影も、畝のあいだに細く伸びている。


ヴァルター先生の初診から、七ヶ月が経った。


残りの時間を、指で数えられるようになっている。処置の開始期限まで、あと二ヶ月。公国まで馬車で五日。着いてから処置の準備に数日。逆算すると、出発は来週がぎりぎりだった。


鋏を持って屈んだ。ラベンダーの枯れた花穂を切る。冬のあいだに伸びた枝を整理しておかないと、春に花付きが悪くなる。来年の春には——ここにいないけれど。


いる予定だ。


帰ってくる予定だ。予定、という言葉を心の中で繰り返して、少し嫌になった。六年間、王太子府で予定の管理ばかりしていた人間の癖だ。命を賭ける旅路を、予定で処理しようとしている。


鋏の刃に、霜が溶けて水滴がついた。指先が冷たい。手袋をすればいいのだけれど、剪定は素手のほうが感覚がいい。ユリウスの書斎の本にそう書いてあった。半年前は鋏すら持てなかった私が、今は素手で剪定している。


畝の端に、石が三つ積んであった。


リーザだ。昨日の夕方、ここで遊んでいた。石を積む癖がある。意味があるのかないのか分からない。子どもの遊びは、大人には分からないことが多い。


「奥さま」


振り向くと、リーザが丘の下から走ってきた。今日は弟——アンナの弟——も一緒だ。二人とも頬が赤い。冬の朝の空気が冷たいのだろう。


「おはよう、リーザ」


「奥さま、いつ帰ってくるの」


唐突だった。子どもは唐突だ。


「夏の初めに、帰る予定よ」


「なつのはじめ」


リーザは首を傾げた。それから、畝の端の石を指差した。


「いち、に、さん。三つ分だね」


何が三つ分なのかは、説明されなかった。でもたぶん、リーザなりの計算なのだ。冬、春、夏。三つの季節。石が三つ。


「三つ分ね」


「うん。三つ数えたら帰ってくる」


弟のほうが、リーザの後ろから顔を出した。


「おねえちゃん、さむい」


「もうちょっと」


「さむいってば」


リーザは弟の手を引いて、丘を下っていった。途中で一度だけ振り返って、手を振った。前歯が一本抜けたばかりの口で、何か言った。風で聞こえなかった。


石は三つ、畝の端に積んだままだった。


崩さないようにしよう、と思った。



書斎に戻ると、ユリウスとオットーが帳簿を広げていた。


いや、正確には、ユリウスが広げていた帳簿を、オットーが隣で覗き込んでいた。帳簿の上にインクの瓶が二つ。蓋の緩いほうの瓶が、いつも通り少し傾いている。もう一つの瓶は蓋が閉まっている。


「ここからここまでが、薬草の売掛け。来月の納品分は、南のメルツァー商会に確認を入れてある。手紙は引き出しの二段目に控えが入っている」


ユリウスの声が、事務的だった。帳簿の説明をする時のユリウスは、いつもこの声になる。感情を挟まない、平らな声。私が王太子府で使っていた声に少し似ている。


「坊ちゃま、カモミールの乾燥在庫は」


「納屋の二階。棚の三段目から五段目。ラベルが貼ってある」


「よろしゅうございます」


オットーが帳簿に何かを書き込んだ。私は扉の横に立ったまま、二人を見ていた。


半年前——いや、もっと前。ここに来たばかりの頃、ユリウスは帳簿を私に触らせなかった。「今は何もしなくていい。休むのが仕事だ」と言って、取り上げた。


今、ユリウスは帳簿をオットーに預けている。別の人に、帳簿を預ける。それは、自分が不在になることを受け入れた人の行動だ。


「治療渡航届は、先週、父王陛下の承認を得た」


ユリウスが私のほうを見た。入ってきたことに、最初から気づいていたらしい。


「代行権限の委任書も受理されている。オットー、お前の名前で領地の行政判断ができる。期間は六ヶ月。更新は不要」


「六ヶ月もございますか」


「三ヶ月で帰るつもりだが、余裕を持たせた」


「賢明でございます」


オットーの声は穏やかだった。でも目が少し赤い。この老侍従は、昨夜から寝ていないのではないかと思った。根拠はない。ただ、オットーの襟元がいつもよりわずかに崩れていた。この人が襟を崩すのは、身支度をする時間がなかった時だけだ。


「お嬢様——失礼、奥様」


「お嬢様でいいわ、オットー。今さら直さなくても」


「いいえ。奥様は奥様でございます」


オットーが少し笑った。皺だらけの笑顔だった。


「治療費のほうは」


「領地の蓄えで四割ほど。お父上——公爵閣下から支援金をいただいております。残りは、ヴァルター先生の口添えで、研究所が研究症例として費用の一部を負担してくださる」


ユリウスが、帳簿の脇に置いてあった紙を私に見せた。金額が三列に並んでいる。ユリウスの字は相変わらず右に傾いていた。


父からの支援金。


父が「娘の夫のためだ」と書いてよこした手紙は、書斎の引き出しにしまってある。あの手紙を読んだ時、ユリウスは何も言わなかった。ただ、手紙を丁寧に畳んで、引き出しに入れた。入れる時の指が、少しだけ丁寧すぎた。


「足りる見通しね」


「足りる。ぎりぎりだが」


「ぎりぎりは、得意よ」


ユリウスの口の端が動いた。笑ったのだと思う。


オットーが帳簿を閉じた。


「坊ちゃま、奥様。もう一つだけ」


「何」


「リーザの読み書き教室のことでございますが」


「ああ。司祭に頼んである。週に二回、広場の井戸のそばで」


「リーザは、司祭様の教え方だと怒られそうだと申しておりました」


「怒られそう」


「司祭様は、字を間違えるとお叱りになるそうで。奥様は間違えても笑っていたから好きだった、と」


私は何か返そうとして、うまく言葉が出なかった。


笑っていたのか、私は。字を教えている時に。覚えていない。覚えていないけれど、リーザは覚えていた。


「帰ったら続きをやるわ」


「リーザには、そうお伝えしておきます」


オットーが一礼して、書斎を出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかっていく。


書斎に二人きりになった。


窓の外では、丘の向こうに冬の雲が低く垂れている。雪はもう降らない。でも空は暗い。


夕方、テラスで薬草茶を飲んだ。


今日のお茶は、ユリウスが治療準備用に調整した配合だった。心臓に負担の少ない薬草だけを使っている。味は、いつもの甘い花の香りより少し苦い。蜂蜜を足してもまだ苦い。


「まずいわね」


「まずい」


「でも飲むのね」


「飲む」


ユリウスはカップに口をつけた。まずい顔で飲んでいた。まずい顔を隠さないのが、この人らしいと思う。王太子府にいた頃の私なら、まずくても顔に出さなかった。社交の顔で飲み干した。ここでは、まずければまずいと言える。


テラスの椅子に並んで座る。もう当たり前になった配置だ。毎朝、毎夕、ここに座って、カップを置いて、虫の声を聞いたり風を受けたりした。冬は虫の声がない代わりに、風が枯れた葉を鳴らす。


「ユリウス」


「ん」


「書斎の引き出し、鍵をかけなくていいの」


ユリウスが少し間を置いた。


書斎の机の右側、一番上の段。手紙専用の引き出し。私がここに来たばかりの頃、鍵がかかっていた。十四年分の私の手紙が入っていた引き出し。その隣に、出さなかった手紙の束。


今朝、書斎で帳簿の話をしている時に見た。引き出しに鍵がかかっていなかった。鍵は引き出しの中に入れてあった。


「もう隠すものがないから」


ユリウスは、テラスの向こうの丘を見ていた。


「手紙は全部、君に読まれた。ノートも見せた。引き出しに鍵をかける理由がない」


「でも、ずっとかけていたでしょう」


「ああ。十年くらい」


十年。


十四年分の手紙を十年間、鍵をかけてしまっていた人が、鍵を開けた。開けて、鍵を引き出しの中に入れた。鍵をかける道具を、鍵をかける場所にしまった。


「オットーには——」


「何を」


「留守中に、引き出しを見ないようにとか、そういうことは」


「言っていない。オットーは見ない人だ」


「そうね」


そうだ。オットーは見ない人だ。坊ちゃまの引き出しを開ける人ではない。それを、ユリウスは知っている。だから何も言わない。信頼というのは、たぶん、言わなくて済むことだ。


まずい薬草茶を飲み干した。カップの底に、蜂蜜の筋が残っていた。苦いお茶にも、蜂蜜は入れてくれるのだ、この人は。


夜、寝台に入る前に、もう一度書斎を通った。


明日の朝には出発する。荷物は旅行鞄に詰めた。着替えは最低限。書類。ヴァルター先生から渡された治療の説明書。薬草茶の缶——ユリウスが半年前に鞄にこっそり入れてくれたのと同じ缶。中身は補充してある。


ポケットには、紙片が二枚。「無理するな」と書かれた紙。一枚目は私が倒れた朝のもの。二枚目は王都に発つ前夜のもの。どちらも同じ大きさの紙に、同じ筆跡で、同じ言葉が書いてある。


書斎の扉が少し開いていた。


覗くと、ユリウスがいた。


机の前に座って——何もしていなかった。帳簿も開いていない。本も読んでいない。ペンも持っていない。ただ、机の上を見ていた。


机の上には何もなかった。帳簿はオットーに渡した。書簡は整理した。インクの瓶だけが残っていて、蓋の緩いほうの瓶が、いつも通り少し傾いている。


ユリウスの横に、杖が立てかけてあった。


見慣れない杖だった。


今まで使っていたのは、木目が少し曲がった、使い込まれた杖だ。握りの部分がユリウスの手の形に馴染んでいた。あれは——ない。代わりに、新しい杖が立てかけてある。木の色がまだ明るい。握りの部分が滑らかすぎる。まだ、誰の手にも馴染んでいない。


「新しい杖」


私の声に、ユリウスが振り向いた。


「ああ。今朝、替えた」


「前のは」


「オットーに預けた」


預けた。捨てたのではなく、預けた。


「帰ったら返してもらうの」


「ああ」


「なぜ替えたの」


ユリウスは、新しい杖を見た。少し眠そうで少し困ったような目。いつもの目だ。


「旅の杖と、家の杖は、分けたかった」


旅の杖と、家の杖。


この人は、帰ってくるつもりだ。新しい杖を旅に持っていって、帰ったら古い杖に戻す。古い杖をオットーに預けたのは、帰る場所に置いておくためだ。


理由を聞いたのに、理由を聞かなかったことにしたかった。聞かなくても、わかった。わかったことを言葉にすると、壊れそうな気がした。


「おやすみ、ユリウス」


「ああ。おやすみ」


書斎を出た。


廊下を歩いて、自分の部屋に戻った。寝台に入った。


目を閉じた。


明日の朝、出発する。公国まで五日。研究所で三ヶ月。四割の賭け。


でも——杖を預けた人がいる。


帰る場所に、古い杖がある。


それが今夜の、眠れるための理由だった。

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