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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第2話 国境の橋


馬車の座席のクッションが、右と左で硬さが違った。


半年前に王都から領地へ向かった時も思ったことだ。あの時は左に座っていた。今度は、ユリウスが左に座っている。心臓のある側を窓から遠ざけたほうがいい、とヴァルター先生が言ったからだ。だから私が右で、ユリウスが左。右のクッションのほうが少し硬い。腰のあたりが、微妙にずれる。


四日目の朝だった。


ユリウスは目を閉じていた。眠っているのではない。揺れに合わせて、呼吸を整えている。出発の前にヴァルター先生に教わった呼吸法だ。吸って五つ数えて、吐いて七つ数える。馬車が揺れるたびに数え直す。


私は数えていなかった。数えているふりをして、ユリウスの横顔を見ていた。睫毛が長い。こんなに長かっただろうか。寝台で目を閉じている時にはもっと短く見える。馬車の窓からの光が横から差すと、睫毛の影が頬に落ちる。


向かいの席で、ヴァルター先生がノートに何か書き込んでいた。馬車の振動でペン先がずれるのか、時折舌打ちが聞こえる。先生はユリウスの脈を二時間ごとに取っている。朝と昼と夕方に。その記録をノートにつけている。


「先生」


「ん」


「ユリウスの数値は」


「昨日と変わりない。悪くない」


先生の「悪くない」は、良いとも悪いとも言っていない。この人はいつもそうだ。医師としての答えと人としての答えを、同時に出さない。どちらか片方ずつ出す。今の「悪くない」は、医師の答えだ。


窓の外の景色が変わっていた。王国の領内を出て二日目から、畑の形が違う。石垣の積み方が違う。道の脇に立っている木の種類が変わった。樫が減って、白樺が増えている。空気が乾いている。


四日目の午後、御者が声をかけてきた。


「国境の橋が見えます」



橋は、思っていたより短かった。


川幅は馬車三台分くらいだ。石造りの欄干がついていて、欄干の上に雪が少しだけ残っている。川面は灰色で、流れが速い。泡が白く立っている。


馬車が橋の上に入った。車輪の音が変わった。土の道から石の上に変わると、硬い音がする。振動も少し変わる。ユリウスが目を開けた。


窓のほうを見た。


それから、窓に手をかけた。


「開けていいですか、先生」


「少しだけなら」


ユリウスが窓を押し開けた。冷たい空気が入ってきた。川の匂いがした。


「川の匂いがする」


ユリウスの声が、少し高かった。いつもの低い声ではなく、半音くらい高い。


橋の上から見える景色は、たいしたものではなかった。灰色の川と、対岸の白樺の林と、低い空。王都の宮殿や社交場の大広間に比べたら、何ということもない景色だ。


でもユリウスは窓から身を乗り出していた。欄干の雪を見ていた。川面の泡を見ていた。対岸の木の形を見ていた。


手紙で読んだことしかなかった景色を、目で見ている。


十四年間、窓の中にいた人が、窓の外に出ている。


馬車が揺れた。橋の継ぎ目を車輪が跨いだのだ。ユリウスの身体が傾いた。


私の手を掴んだ。


左手だった。インクの染みがまだ小指の横に残っている。その手が、私の右手を握った。指が冷たかった。窓を開けたせいだ。冷たい指が、私の手のひらに食い込んだ。


橋が揺れるから、だと思った。身体が傾いたから、支えとして掴んだのだろう。


「大丈夫?」


「ああ」


ユリウスは答えたが、手を離さなかった。


橋を渡りきるまで、たぶん一分もかからなかった。車輪が土の道に戻って、振動が柔らかくなった。もう揺れていない。揺れていないのに、ユリウスは手を握ったままだった。


対岸に白樺の林が続いていた。枝に雪が残っている。木の幹が白い。王国の森とは違う白さだ。


「ヴェルデン公国に、入りました」


御者の声が聞こえた。


ユリウスの指が、少しだけ緩んだ。離そうとしているのだと思って、私も力を抜いた。


手が離れた。


指先に、ユリウスの冷たさが残っていた。



最初の宿は、国境の街の外れにあった。


問題は、言葉だった。


宿の女将が何か言った。挨拶だろう。公国語の挨拶は分からない。王太子府で通商条約を書いていた時、公国語の公式文書を読んだことはある。でもあれは書き言葉で、話し言葉とは別物だ。


ユリウスが前に出た。


杖をつきながら——新しい杖だ、握りがまだ馴染んでいない——女将に向かって何か言った。


公国語ではなかった。ラテン系の共通学術語だ。薬草学の論文で使われる言葉。私も読んだことはあるが、話すのは初めて聞く。


女将の顔が変わった。


学術語が分かるのか、と思ったが、違った。女将が返したのは、王国語だった。訛りが強いけれど、通じる王国語だった。


「薬草の方ですね。研究所に行かれる?」


「はい。妻と一緒に」


「お泊まりは何泊です」


「一泊です」


女将はユリウスと私を交互に見た。それから、私のほうをもう一度見た。少し長く見た。


「失礼ですけど——お連れの方、もしかして、王国のレーヴェンシュタインの方ですか」


私は一瞬、聞き間違えたと思った。


「通商条約の方ですよね。うちの旦那が商会で話していましたよ。条約の条文が変わってから、公国への薬草の輸出手続きが楽になったって。あの条約を書いたのが、レーヴェンシュタインの令嬢だって」


名前が、ここまで届いていた。


国境を越えた先の、小さな宿の女将が、私の名前を知っていた。通商条約を書いた人間として。王太子殿下の名前は、出てこなかった。


「ええ。レーヴェンシュタインです」


「まあ。こんな小さな宿によくいらしてくださいました」


女将は少し照れたように笑って、部屋の鍵を二つ取り出した。一つは私たちの部屋、もう一つはヴァルター先生の部屋だ。


ユリウスが私のほうを見た。


見ただけだった。何も言わなかった。でも目の端が、少しだけ細くなっていた。笑っている時の目だ。笑っているかどうかは分からないけれど、満足している時の目だと思う。


鍵を受け取った。鍵が古くて、少し錆びていた。



部屋は狭かった。


寝台が一つ、窓が一つ、机が一つ。壁に燭台が一つ。ハーゲンの宿よりはましだった。枕はまだ確認していない。薄いかもしれない。


ヴァルター先生がユリウスの脈を取って、「悪くない数字です」と言って、自分の部屋に戻っていった。廊下を歩く足音が、宿の木の床板を軋ませていた。


ユリウスは窓辺に立っていた。窓を少し開けている。またか、と思った。この人は窓を開けたがる。領地でもテラスに出たがる。窓の中にいた時間が長すぎたのだ。


「星が違う」


ユリウスが言った。


窓の外は暗かった。宿の周りに街灯はない。月明かりと、星だけだ。


「王国の星と、配置が違う」


「そうなの?」


「緯度が違うから、少しだけ傾きが変わる。北の星が高い位置にある」


私は窓のそばに立って、星を見上げた。正直に言えば、違いが分からなかった。星は星だ。王都で見ていた星と、領地で見ていた星と、ここで見ている星の区別がつかない。


ユリウスには分かるらしい。


「手紙で読んだことしかなかった」


ユリウスの声が低かった。さっき橋の上で半音高くなった声が、元に戻っている。


「公国の空気が冷たいとか、白樺の幹が白いとか、川の匂いが違うとか。読んだことはあった。でも——」


言いかけて、やめた。窓の縁に手を置いた。新しい杖は壁に立てかけてある。


「匂いは読めない」


そう言って、もう一度、窓の外の空気を吸った。


私は、その横顔を見ていた。


この人は今、生まれて初めての場所にいる。二十三年生きてきて、領地と王都しか知らなかった人が、初めて国境を越えた。手紙と本の中にしかなかった世界を、今、鼻で嗅いでいる。


怖くないのだろうか。


怖いのだろう。でも、怖いよりも先に、匂いを嗅ぎたかったのだ。


「ユリウス」


「ん」


「窓、閉めて。冷えるわ」


「もう少しだけ」


「先生に怒られるわよ」


「先生は隣の部屋だ。聞こえない」


聞こえるかもしれない。この宿の壁は薄そうだった。


でも、閉めろとは言わなかった。もう少しだけ、この人に窓の外の空気を吸わせておきたかった。


寝台に腰を下ろした。枕を確認した。薄かった。やっぱり。


ユリウスはまだ窓辺にいた。公国の夜の空気を吸って、知らない星を見ていた。


橋の上で握った手の感触が、まだ右手に残っていた。冷たい指。インクの染み。揺れたから掴んだのだろうけれど。


それにしては、少し長かった。


少し長かった、というだけのことだ。深い意味はない。


たぶん。


枕に頭を預けた。薄い枕だった。背中が少し痛い。でも目を閉じたら、川の匂いが鼻の奥に残っていた。橋の上の冷たい空気と、ユリウスの指の冷たさが混ざっている。


明日の夕方には、研究所に着く。


白い壁の建物が三棟。知らない場所。知らない言葉。知らない星。


でも——隣に、ユリウスがいる。


窓の外の空気を嬉しそうに吸っている人が、隣にいる。


それだけのことを確認して、眠った。

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