第10話 届かなかった手紙は、今日から二人で開ける
秋の朝が、林檎の匂いで満ちていた。
昨日が収穫祭だった。村の広場で、林檎の実を一年分集めて、皮を剥いて、煮て、焼いて、樽に詰めた。子どもたちが手伝った。リーザは前歯がまた一本抜けていた。新しいほうの前歯だ。子どもの歯は、抜ける周期が早い。半年前にリーザが「奥さま、笑わないの?」と私に言った頃に抜けた歯の隣の歯が、もう揺れている。
私は、収穫祭の準備で、ここ三日ほど、薬草園に出ていなかった。
だから、今朝の薬草園の匂いが、いつもと違って感じた。林檎の匂いが、薬草の匂いに混ざっている。砂糖を煮詰めた匂いと、ラベンダーの乾いた匂い。混ざると、わずかに甘すぎる。でも、嫌な匂いではなかった。
今日が、結婚式の日だった。
自分の部屋で、ドレスを着ていた。
ドレスは、母の形見だった。私の母の。父が、王都から運んできた。「お前の母が、お前の結婚式で着てほしいと言っていた」と、父はそれだけ言って、箱を私に渡した。母が亡くなる前に、自分のウェディングドレスをそう言って残していたらしい。私は、知らなかった。父は、それを十年以上、誰にも話さずに、しまっていた。
ドレスは、私には少し丈が短かった。母のほうが、私より背が低かった。だから、裾を少しだけ足した。布は、母のドレスとは別の布だ。父が、王都の仕立屋に、急いで似た布を探させた。完全には同じではない。よく見ると、裾の継ぎ目が分かる。
それでいい、と思った。
完全に同じである必要は、なかった。
オットーの妻が、髪を整えてくれた。
オットーには、妻がいた。ここに来てから半年、私は知らなかった。村の宿屋で働いている人で、結婚式の手伝いに、今日初めて来てくれた。年配の女性で、皺の深い手をしていた。オットーと、皺の深さが似ていた。長く一緒に暮らした夫婦の手だ。
「お母様の形見、お似合いですよ」
「ありがとう」
「裾の継ぎ目、よくお気づきになって」
「気づいた?」
「お嬢様、お顔が、継ぎ目を見るたびに、わずかに緩みますから」
私は、笑った。
笑った顔を、鏡で見た。久しぶりに、自分の笑顔を、ちゃんと見た。半年前、リーザに「笑わないの?」と言われた頃の私とは、別の顔だった。同じ顔のはずなのに、別の顔だった。
教会は、領地の小さな礼拝堂だった。
王都の大聖堂のような場所ではない。石造りの、二十人も入れば満員の、村の教会だ。司祭は、村の教会の司祭で、リーザたちに文字を教えていた頃に何度か挨拶をした人だ。穏やかな顔の老人で、緊張した顔のユリウスを、ふと見て、軽く頷いてくれた。
来賓席に、人が並んでいた。
父が一番前。父の隣に、レーヴェンシュタイン家の遠縁の伯母が一人。その後ろに、グレーフェン外交官と、ハインリヒ。ヴァルター先生も来てくれていた。先生は、医師としての立会いも兼ねている。少し離れた席に、リーザと、リーザの両親。アンナ姉弟と、その両親。村の他の子どもたちも、後ろのほうに集まっていた。子どもたちは、入っていい席が決まっていなかったので、立ったままで参列していた。
ルドヴィク殿下は、来なかった。
来ない、という連絡が、三日前に届いていた。「公務の都合により、参列が叶わない。両家のお幸せを心より祈っている」と、丁寧な文面の手紙が、ハインリヒ経由で届いた。来ないことが、たぶん、殿下なりの誠実さだった。
祭壇の前で、ユリウスと向かい合った。
ユリウスは、いつものシャツの上に、礼装の上着を着ていた。仕立てたばかりのものだ。襟元の留め具が、きっちり閉まっていた。普段、書斎で本を読む時にゆるめる癖の、あの留め具だ。今日は、ゆるめていない。
杖を、今日は持っていなかった。
短い距離だけ、立っていられるくらいには、回復していた。判決から三週間が経って、ヴァルター先生の事前準備が始まっていた。半年の準備期間の、最初の三週間だ。少しずつ、心臓を治療に耐える状態に整える。その効果が、もう、わずかに出始めている。
ユリウスの目の下の隈は、薄くなっていた。
司祭が、誓いの言葉を、読み上げる場面になった。
通常の婚姻の誓い——病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も——を読み上げる前に、私たちは、司祭に頼んでいた。
「誓いの言葉の代わりに、私たちは、手紙を一通ずつ朗読することを、お許しください」
司祭は、首を傾げた。少し珍しい申し出だったのだろう。でも、頷いてくれた。
「お二人の結婚です。お二人の選んだ言葉で、お誓いください」
私は、ドレスのポケットから、紙を一枚取り出した。
ユリウスも、上着の内ポケットから、紙を一枚取り出した。
二枚とも、紙が古かった。
私が選んだのは、ユリウスの八歳の手紙だった。
未送の手紙の、一番最初の一通。屋根裏で、私が初めて見つけた、八歳の春の手紙。
私は、紙を広げて、読み上げた。
あいたいです。
でも、手紙はかきません。
ぼくがかいてもいいことはないとおもうので。
読み上げる声が、わずかに震えた。
震えていることに、自分で気づいていた。気づいていたけれど、震えたまま、最後まで読んだ。来賓席のほうから、誰かの息を呑む音が聞こえた。たぶん、父だ。
私は、紙を畳んだ。
「これは、ユリウスが八歳の時に、私に書いて、出さなかった手紙です」
私は、ユリウスを見た。
ユリウスは、紙を持ったまま、私を見ていた。
「八歳のあなたは、書いてもいいことはない、と思ったのね」
「ええ」
「私は、書いてくれていてよかった、と思っているわ」
ユリウスは、頷いた。
「あなたが書かなかった手紙を、私は今日、読みました。八歳のあなたが、二十三歳の私に、初めて届いた」
私は、紙を、ユリウスに渡した。
ユリウスが選んだのは、私の十六歳の手紙だった。
私が王太子府に出仕することになった年の、最初の手紙だ。私自身は、そんな手紙を書いた覚えが、あまりない。たくさん手紙を書いた中の、一通だ。覚えている部分もある。覚えていない部分もある。
ユリウスは、紙を広げた。
お久しぶりです。お変わりありませんか。
私は、来月から、王太子府に出仕することになりました。父からの伝達で、突然のお知らせです。
婚約者である王太子殿下のお側で、できることをやってきます。慣れない場所ですが、頑張ろうと思います。
でも、正直に書きます。
あなたから先日いただいた、薬草茶のお茶葉のほうが、王太子府の銀器より、ずっと価値があると、私は思っています。
これは、誰にも言えないことです。
手紙だから、書けることです。
あなたにだけ、書いておきます。
ユリウスの声は、震えなかった。
低い声で、穏やかに、読み上げた。
来賓席のほうで、ハインリヒが、わずかに頭を下げているのが、視界の端に見えた。
ユリウスは、紙を畳んだ。
「これを、君は、十六歳の時に書いた」
「ええ」
「『あなたにだけ、書いておきます』と、君は書いた」
「書いたわ」
「十六歳の君が、十六歳の僕に、書いてくれた言葉だ」
「ええ」
「僕は、二十三歳になっても、これを覚えていた」
ユリウスは、紙を、私に渡した。
二枚の紙が、私の手元に戻った。八歳のユリウスの手紙と、十六歳の私の手紙。同じ十四年分のあいだに書かれた、二つの紙が、二人の手のあいだを行き来した。
司祭が、指輪を、用意した。
ユリウスは、上着の内ポケットから、小さな箱を取り出した。
中に、指輪があった。
「父が、母に贈った指輪だ」
ユリウスは、私に向かって、言った。
「母は、十年つけ続けた。亡くなる前に、僕に託した。『お前が大事にする人にあげなさい』と」
ユリウスは、指輪を、箱から取り出した。
指輪は、銀の細い輪に、小さな石が一つ嵌まっていた。緑がかった石だ。私は、宝石には詳しくない。色が綺麗だった。
「この指輪は、二十年、引き出しの中にあった」
ユリウスは、私の左手を取った。
「君に渡すまでに、二十年かかった」
指輪が、私の薬指に、嵌った。
わずかに、緩かった。母の指のほうが、私より細かったらしい。あとで仕立てに出して、サイズを直す必要がある。それでいい。今日は、緩いまま、嵌っている。
司祭が、宣言した。
「夫婦と、認めます」
それだけだった。
簡素な宣言だった。王都の大聖堂で行うような、長い儀式は、私たちは選ばなかった。司祭の宣言と、私たちの誓いの代わりの手紙朗読と、指輪。それだけで、十分だった。
ユリウスが、私の頬に、軽く触れた。
唇が、私の唇に、触れた。
短かった。
二度目の時、書斎での時より、わずかに長かった。少しだけ、慣れていた。それでも、不器用さは残っていた。ユリウスは、たぶん、これからもずっと、不器用だ。私は、それでいい、と思っていた。
来賓席から、リーザが走ってきた。
「奥さま!」
リーザの口から、初めて「奥さま」と言われた。前の歯が、また一本抜けたばかりの口で、リーザは私を呼んだ。手に、花を持っていた。今朝、薬草園で摘んできたらしい。ラベンダーと、カモミールと、名前を知らない白い花が、束になっていた。
「リーザ」
「これ、私が摘んだの」
「ありがとう」
「奥さま、になったね」
「うん」
「ちゃんと、お祝いするね」
リーザは、花束を私に渡して、それから、自分のドレスのポケットから、もう一つ何かを取り出した。
紙だった。
紙の隅に、リーザの字で、何か書かれていた。読みづらい字だった。半年前、私が広場の井戸のそばで教えていた、あの「あ」と「い」と「う」の字の、続きの字だ。
おねえちゃん、ありがとう。
わたしも、おてがみ、かけるようになった。
私は、紙を、両手で受け取った。
リーザは、走って、来賓席に戻っていった。
父が、最後に、私のところに来た。
来賓席を出る前に、私の隣に立った。父はいつも通りの厳格な顔をしていた。それでも、目元のあたりが、わずかに赤かった。
「お父様」
「うん」
「来てくれて、ありがとうございました」
「親が来るのは、当然のことだ」
「いえ。お父様が来てくださったことが、嬉しいです」
父は、何も言わなかった。
それから、ユリウスのほうを見た。
「ユリウス」
「はい」
「娘を、頼む」
「全力で」
「全力でなくていい」
父は、首を振った。
「全力でいると、お前が壊れる。壊れない範囲で、頼む」
ユリウスは、頭を下げた。
父は、それから、ふと、私の頭に手を置いた。
私の頭に、父が手を置いたのは、いつ以来だろう。記憶にない。八歳より前だ。母が亡くなる前、父はもっとよく、私の頭に手を置いた。母が亡くなってから、父は、そういうことをしなくなった。
父の手は、温かくはなかった。冷たくもなかった。ただ、置かれていた。
それで、十分だった。
式の後、テラスで、お茶を飲んだ。
ユリウスと、二人で。
来賓は、まだ館の中にいた。父は、グレーフェンと話している。ハインリヒは、ヴァルター先生と話している。リーザたち子どもは、薬草園に走っていった。オットーと、その妻が、来賓のお茶の準備をしている。
私たちは、テラスに出てきた。
二人になりたかった。
テーブルの上に、カップが二つ。今日のお茶は、特別な配合だった。ラベンダー、カモミール、レモンバーム、それから、新しく入った南方の花のお茶。先月、メルツァー商会から取り寄せたものだ。ユリウスが、結婚式のために、特別に配合した。
「飲んで」
「飲むわ」
私は、カップを取った。
一口飲んだ。
わずかに、甘かった。
蜂蜜が、入っていた。
「あなたのカップにも、蜂蜜?」
「同じ量だ。今日は」
「ようやく」
「ようやく、何」
「ようやく、二人とも、同じ量の蜂蜜のお茶を飲んでいるわね」
ユリウスは、目尻に皺を寄せた。
それで返事の代わりだった。
「ねえ、ユリウス」
「うん」
「結婚式の日取り、なぜ秋の収穫祭の翌日にしたの」
ユリウスは、カップを置いた。
「八歳の手紙の日付を、覚えているか」
「八歳の春、と書いてあったわ」
「日付の細かいところまでは、書いていなかった」
「ええ」
「でも、僕は覚えている。あの手紙を書いた日が、八歳の春の、収穫祭の三日後だった」
「収穫祭の」
「春の収穫祭。当時の領地は、春と秋に小さな収穫祭があった。母が、収穫祭の三日後に倒れた」
私は、カップを置いた。
「八歳の僕は、母が倒れた日の三日後に、君に『あいたい』と書いた」
「だから——」
「収穫祭の翌日。それなら、母の倒れた日と、今日が、ずれる」
ユリウスは、私を見ていた。
「母の倒れた日と、僕たちの結婚式の日を、同じ日にしたくなかった」
「だから、収穫祭の翌日」
「そうだ」
私は、ユリウスのカップに、自分のカップを近づけた。
ぶつかる、というほどではない。陶器が、軽く触れた。それだけだった。
書斎に二人で戻ったのは、夕方だった。
来賓は、それぞれの宿に戻った。父は、公爵邸への帰路についた。グレーフェンとハインリヒは、明日の朝、王都に戻る。ヴァルター先生は、しばらく領地に滞在する。治療準備の経過を、定期的に診るために。
書斎の机の上に、二つの手紙の束が、並んでいた。
一つは、私がユリウスに出した、十四年分。
もう一つは、ユリウスが私に書いて、出さなかった、十四年分。
私は、その束の隣に、もう一冊、何かが置いてあるのに気づいた。
革表紙のノートだった。
「これは」
「最近、書きためていたものだ」
ユリウスは、机の脇に立っていた。
「結婚したら、君に渡すための、現在進行形の手紙ノート」
「現在進行形」
「未送の手紙は、全部、過去に書いたものだ。今、君に手紙を書いても、君はもう僕の隣にいる。だから、出す必要がない。でも、書きたい時がある」
「だから、書きためていたの」
「ああ」
ユリウスは、ノートを、私に渡した。
「もう、隠さなくていい」
「いつから書いていたの」
「結婚が、決まった日からだ」
「半年分?」
「半年分」
私は、ノートの最初のページを、開いた。
今日、君が婚約者になった。
書きたいことは、たくさんある。でも、今日は、これだけ書く。
君が、笑った。
半年ぶりに、君が笑った顔を、僕は、見た。
覚えておきたいから、書いておく。
次のページ、と、めくった。
最後のページまで、めくった。
最後のページに、今朝の日付があった。
今日、結婚式だ。
書くことが、たくさんある。書きすぎて、君を疲れさせたくない。
だから、短く書いておく。
ぼくは、きみと、くらしたい。
二年前の手紙で、最後まで書けなかった、その続きを、今日、ここに、書いておく。
私は、ノートを、閉じた。
両手で、しばらく、押さえていた。
窓の外が、暗くなっていた。
リーザの声は、もう聞こえなかった。子どもたちは、家に帰った。
私は、ユリウスの隣に座った。
書斎のソファに。並んで。
書斎の机の上に、三つの紙の束があった。私の手紙の束、ユリウスの未送の手紙の束、そして、現在進行形のノート。
これからは、新しい紙が、ノートに増えていく。
ユリウスが書く。私が読む。私たちは、隣にいる。
毎日。
これからは、毎日。
「ユリウス」
「ん」
「春の終わりに、隣国へ発つわ」
「ヴァルター先生の」
「ええ。三ヶ月の治療」
「君は、ついて来る?」
「行くわ」
「行くと、領地が、しばらく空く」
「オットーがいるから、大丈夫よ」
「そうだな」
ユリウスは、カップを取った。テラスから持ってきたカップだ。お茶は、もう冷えていた。冷えたお茶でも、ユリウスは、飲んだ。
「無理するな」
ユリウスが、ふと、言った。
「治療の三ヶ月の話?」
「ああ」
「あなたこそ、無理しないで」
「君もな」
それは、半年前、私が倒れた朝に、ユリウスが書いた紙の言葉だった。
「無理するな」
それと、同じ言葉。違うのは、書いてあるのではなくて、声で、聞こえることだ。
これからは、声で。
毎日。
紙ではなくて。
窓の外で、虫の声が、わずかに残っていた。
秋の終わりの、最後の虫の声だ。冬になれば、もう聞こえない。
私は、ユリウスの肩に、頭を預けた。
ユリウスは、何も言わなかった。
ただ、私の手を、握った。
インクの染みが、まだ、左手の小指の横に残っていた。半年経って、毎日新しい染みが上書きされて、それでも、形は同じ場所にある。
ユリウスは、たぶん、これからも、インクの蓋の緩い瓶を使い続ける。
私は、それでいい、と思った。
それで、十分だった。




