第9話 私が継げば良くなる、と仰いましたね
「私が継げば、エーレンベルク領は今より遥かに良くなる」
それが、ヴィルヘルムの第一声だった。
貴族院の議場の、訴訟側の席から、立ち上がってすぐの言葉だ。私は、被訴訟側の席で、その声を聞いていた。隣にユリウスが座っている。書類の束を膝の上に重ねて、両手で軽く押さえている。私の書類入れは、机の上にあった。書類入れの留め金が、開いていた。朝、馬車を降りる時に、慌てて閉め忘れたのかもしれない。それを直してから、ヴィルヘルムの顔を見た。
ヴィルヘルムは、自信に満ちていた。
少なくとも、自信に満ちて見えるように、努力していた。王太子府で六年見てきた人間の目で、それを見ていた。本当に自信のある人間は、声を張らない。声を張る人間は、自分でも自信がないことを知っている人間だ。
議場は、思っていたより、狭かった。
天井は高い。石壁に紋章が並んでいる。父王が中央の高い席に座っていた。王家評議会の判定者の席だ。両脇に、貴族議員が二十人ほど座っていた。傍聴席は議場の後方にあり、限定された人数だけが入っていた。グレーフェン外交官、ハインリヒ、それから——少しだけ離れた席に、ルドヴィク殿下の姿があった。
殿下は、目礼すらしなかった。
私を見て、視線を一瞬止めて、それから書類に目を落とした。それだけだった。
半年前の、あの謝罪の日のことを、まだ覚えている。あの時の殿下と、今日の殿下は、同じ人だ。同じ人が、同じ顔で、視線を逸らすことを選んだ。それは、介入しない、という意思表示だった。
父王の前に、書類が置かれた。
訴状の本体だった。ヴィルヘルムが提出した、家督継承資格停止の申し立て書。
書類が読み上げられた。
「現当主ユリウス・フォン・エーレンベルク伯爵は、心臓の病により執務能力に著しい制約があり、家督継承の責務を全うすることが困難である。よって、傍系の血族たるヴィルヘルム・フォン・エーレンベルク男爵を後見人として選定し、領地の継承資格を一時停止することを、王家評議会に申し立てる」
それから、二つ目の根拠が読み上げられた。
「加えて、現当主の領地経営においては、薬草事業への過度な依存と、長期的経営計画の不明確さが懸念される。男爵領の方が、領地経営の点で安定しており、後見人として適任である」
最後に、医師三名の認定書の名前が読み上げられた。
ベルガー医師。フィッシャー医師。マイヤー医師。アルテン医師の名前は、もうなかった。差し戻し後、ヴィルヘルムは医師の組み合わせを変えていた。
父王が、ヴィルヘルムに発言を促した。
ヴィルヘルムは、立ち上がっていた。さっき、最初の「私が継げば、良くなる」と言った後、座らずにいた。その姿勢のまま、議場全体に向けて話し始めた。
「お従弟殿のお身体については、私も親族として深く案じております。先代様の代から、エーレンベルク家との縁は、私の家でも大切にしてきたものです。だからこそ、私は今、お従弟殿のお身体と、領地の将来を、両方守るための提案をしているのです」
ヴィルヘルムの声は、慣れていた。社交の場での演説に慣れた声だ。声の張り方、間の取り方、視線の動かし方。同じ種類の声を、王太子府で六年聞き続けてきた。
「私の領地は、ご存知の通り、エーレンベルクの傍系として、独自に発展してまいりました。男爵領の経営は手堅く、薬草事業に偏らない、多角的な経営をしております」
ヴィルヘルムは、そこで一度、息を整えた。
「お従弟殿が回復された折には、領地は無事にお返しいたします。これは、家族としての責務であって、領地の簒奪ではない」
議員席が、わずかにざわついた。
「家族としての責務」という言い方が、議員たちには通じやすい言い回しだったのだろう。私は、その反応を見ていた。
父王が、被訴訟側に発言を促した。
私は、立ち上がった。
ユリウスは座ったまま、私のほうを見た。何も言わなかった。私は頷いた。それだけのやり取りで、ユリウスは、私の隣に座っているだけ、という役割を確認した。
「申し上げます」
議場に向かって、声を出した。
声は、思ったより落ち着いて出た。胸のポケットに、紙片が入っていた。「無理するな」と書かれた紙だ。それを朝、もう一度、ポケットに入れて来ていた。書類の前に、最初に確認したのは、その紙だった。
「現当主ユリウス・フォン・エーレンベルク伯爵の代理として、レーヴェンシュタイン公爵令嬢、イレーネが、本席にて発言いたします」
議場が、わずかに静かになった。
「まず、訴状にあげられた医師三名の認定書について、申し上げます」
私は、書類入れから、一枚の書類を取り出した。
「ベルガー医師は、ヴィルヘルム男爵領の領主館の主治医でいらっしゃいます。男爵家との雇用関係は、十二年。私の手元に、男爵領の医師雇用記録の写しがございます」
私は、書類を、議場の中央へ手渡した。父王の前に置かれた。父王は、書類に目を通した。
ヴィルヘルムが、立ち上がっていた席から、声を上げた。
「お待ちいただきたい」
議場が、ヴィルヘルムのほうを向いた。
「ベルガー医師が私の領主館の主治医であることは、否定しません。しかし、医師としての資格と、職務上の判断は、別のものです。ベルガー医師は王国医師名簿に登録された現役の医師であり、その診断書は法的に有効です」
私は、ヴィルヘルムのほうを向いた。
「貴族院の認定書要件においては、医師の経済的従属関係は、利益相反として除外の対象となります。男爵家から十二年間、雇用契約に基づく給与を受け取っている医師が、男爵の継承資格訴訟の根拠書類に署名することは、利益相反の典型例でございます」
ヴィルヘルムは、口を開きかけて、止めた。
私は、続けた。
「次に、フィッシャー医師について。王国医師名簿には、この名前の医師は、登録されておりません。私の手元に、王国医師名簿の写しがございます」
二枚目の書類を出した。
ヴィルヘルムが、また声を上げた。
「フィッシャー医師は、地方の医師でありまして、王国医師名簿への登録は、申請中でございます」
「申請中の医師の認定書は、貴族院の認定書要件を満たしません。要件には『王国医師名簿に登録されている医師』と明記されております」
ヴィルヘルムは、わずかに、唇を引き結んだ。
私は、三枚目の書類を出した。
「最後に、マイヤー医師。この方は、王国医師名簿に登録されている、現役の医師です。しかし、現在のお住まいは、ヴェルデン公国との国境沿いの村でございまして、王都への出張は、年に二回程度。今回の認定書の日付——二週間前——には、マイヤー医師は、国境沿いの村で患者の手術にあたっておられました。記録があり、王家経由で確認済みです」
ヴィルヘルムは、今度は、声を上げなかった。
議員たちのざわめきが、変わった。
——三名の医師認定書のうち、一名は男爵家の被雇用者で利益相反、一名は名簿不在、一名は当事者と物理的に会えない位置にいた。
「医師三名による執務不能認定、という条件を、訴状は満たしておりません」
父王が、しばらく書類を見ていた。
それから、軽く頷いた。
「次の論点を」
私は、頷き返して、続けた。
「次に、訴状の第二の根拠、領地経営の点について、申し上げます」
書類入れから、別の束を取り出した。
「エーレンベルク領の、過去十年の薬草事業の収支記録を、ここに提出いたします。十年連続で黒字経営、十年で領地全体の収益が、一・八倍に伸びております」
議員席に、書類の束が回った。
「加えて、エーレンベルク領の薬草は、王国の通商管理局を経由して、ヴェルデン公国を含む隣国数カ国に輸出されております。この輸出は、王太子府の通商条約の枠組みに完全に従ったものでございます。記録は、王太子府の財務記録と、完全に一致しております」
ハインリヒが、傍聴席で、わずかに頷いたのが、視界の端に見えた。
「対して、ヴィルヘルム男爵は、先ほど『男爵領の経営は手堅く』と仰いました」
私は、ヴィルヘルムのほうを見た。
「『私が継げば、エーレンベルク領は今より遥かに良くなる』とも、仰いました」
ヴィルヘルムは、視線を逸らさなかった。
「では、男爵領の経営記録を、比較対象として、議場にご提出いただきたく存じます。父である、レーヴェンシュタイン公爵が、王家経由で、男爵領の十年分の経営記録を取り寄せております。本日、こちらに用意してございます」
書類の束を、議場の中央へ運ばせた。
父王が、書類を開いた。
父王の眉が、わずかに動いた。
書類を、半分ほどめくってから、父王は、議員席を見渡した。
「議員諸氏にも、お示しする」
書類の束が、議員席に回った。
議場の空気が、変わった。
私は、ヴィルヘルムのほうを見ていた。ヴィルヘルムは、立ったまま、書類の流れを見ていた。書類の中身は、ヴィルヘルム自身が書いたものだから、内容は知っている。でも、それが議場の全員に見られている、という事実は、ヴィルヘルムの想定にはなかった。
「ヴィルヘルム男爵領は、過去十年、収支が赤字でございます」
私は、議場に向かって続けた。
「うち、直近五年は、赤字幅が拡大しております。十年前と比較して、領地全体の収益は、〇・六倍に縮小しております」
議員席から、低いざわめきが上がった。
ヴィルヘルムは、ようやく、声を出した。
「直近五年の赤字は、領地の長期的投資に基づくものです。短期的な数字だけで判断するのは、適切ではありません」
「長期的投資の内訳を、十年分の帳簿のどこに記載なさっていますか」
私は、即座に返した。
「項目別の支出記録を、私は朝から確認させていただきましたが、長期的投資として分類されている項目は、見当たりません」
ヴィルヘルムは、答えなかった。
「先ほど、男爵は『男爵領の経営は手堅い』と仰いましたが、記録は、それを裏付けておりません」
「以上が、訴状の二つの根拠について、被訴訟側からの反論でございます」
私は、いったん、頭を下げた。
立ち上がった時より、わずかに、息が浅くなっていた。声を張って話すというのは、思ったより、体力を使う。
「なお」
私は、続けた。
「本席で、関連する不忠案件について、併合審議を申し立てたく存じます」
議場が、また静かになった。
「不忠案件、とは」
父王が、初めて口を開いた。
「ヴィルヘルム男爵が、王国産の薬草を、王国の通商管理局を経由せずに、隣国の薬草商に私的に売却している契約が、確認されております。三年以上にわたり、継続的に行われている取引でございます」
私は、書類入れから、契約書の写しを取り出した。
「契約書の写しを、ここに提出いたします。現物との照合は、王家の手続きを経て、すでに完了しております。グレーフェン外交官による現物照合の証言も、本日、傍聴席よりお願い申し上げる予定でございます」
グレーフェンが、傍聴席で、軽く頭を下げた。
「契約書は、ヴィルヘルム男爵自身の署名と、隣国のクロイツァー商会の代表の署名により成立しております。王太子府の財務記録と照合した結果、本契約に基づく薬草の取引は、王太子府の管理下にない、私的な取引であることが確認されております。これは、王国法における、私的な国外資源売却に該当いたします」
私は、契約書の写しを、議場の中央へ運ばせた。
ヴィルヘルムが、声を出した。
「お待ちいただきたい」
声が、わずかに荒れていた。
「これは、家督継承訴訟であり、不忠案件は、別の手続きで——」
「王家評議会のルールに、不忠案件の併合審議が認められております」
私は、ヴィルヘルムの言葉を、最後まで聞かずに答えた。
「同一の評議会の場で、関連する不忠の事実が発覚した場合、判定者の判断により、併合審議に移行することができます。判定者は、本席においては、父王陛下でございます」
父王は、契約書の写しを、机の上に置いた。
それから、ヴィルヘルムを見た。
「男爵」
「はい、陛下」
「契約書の現物は、貴公の手元にあるか」
ヴィルヘルムは、答えなかった。
「答えよ」
「……手元にはございません。すでに、隣国の商会との取引は、終了しておりまして」
「終了しているのか、それとも、現物が手元にないだけか」
「現物は、手元にございません」
ヴィルヘルムは、答えた。
父王は、わずかに頷いた。
「不忠案件として、併合審議に移行する。被訴訟側からの追加証拠、提出を許す」
私は、頭を下げた。
頭を下げた瞬間、目の端にユリウスが映った。ユリウスは、座ったまま、両手で書類の束を押さえていた。指の力が、わずかに強くなっていた。書類の縁が、少しよれていた。
「最後に、一つだけ申し上げたいことがございます」
私は、頭を上げて、議場を見渡した。
「私は、被訴訟側の代理として、本席に立たせていただいておりますが、私個人としては、夫の命を守るために、戦っております」
議場が、静かになった。
「ユリウス・フォン・エーレンベルク伯爵は、心臓の病を抱えております。本訴訟が継続する間、夫は、心労と書類作成のために、十分な静養を取ることができません。私は、夫の身体に、これ以上の負担をかけたくない。家督の問題は、夫が当主として全うできるかという問題であると同時に、夫が生きていられるかという問題でもございます」
私は、ヴィルヘルムのほうを見た。
「男爵は、お従弟殿のお身体を案じている、と仰いました。ですが、本訴訟の提起そのものが、お従弟殿の身体に最大の負担を強いております。男爵が本当にお従弟殿のお身体を案じておられるのであれば、訴訟の取り下げを、ご検討いただきたく存じます」
ヴィルヘルムは、答えなかった。
私は、それ以上、何も言わなかった。
席に座った。
座った瞬間、ユリウスの手が、私の手に触れた。書類の束を膝の上に押さえていた手の片方を、私の手の上に重ねただけだった。一瞬。すぐに離れた。誰にも気づかれない動きだった。
父王の判決は、その日の午後遅くに、出た。
短い文言だった。
——家督継承資格停止訴訟は、棄却する。
——医師三名による執務不能認定の要件を、訴状は満たさない。
——領地経営の根拠においても、訴訟側の経営記録が、被訴訟側の経営記録に比して、著しく劣ることが確認された。
それから、不忠案件の判決が続いた。
——ヴィルヘルム・フォン・エーレンベルク男爵による、王国産薬草の私的売却契約は、王国法に違反する。
——男爵に対し、過去三年間の取引額に相当する罰金を科す。罰金は、男爵領の年間収入の約半分に相当する。
——男爵を、エーレンベルク家の家督継承資格者リストから、永久に除外する。
——男爵領は、今後五年間、王室直轄の査察下に置かれる。
——男爵の社交界における席次を、末席に降格する。
——なお、本判決は、判例として、今後の家督継承訴訟および不忠案件の判定に適用される。
判決が読み上げられた瞬間、ヴィルヘルムの顔は、白かった。
立ったまま、書類を握っていた。書類は、ヴィルヘルム自身が提出した訴状の写しだった。それを、両手で握っていた。指の関節が、白くなっていた。
ヴィルヘルムは、何も言わずに、議場を出ていった。
退出する時、振り返らなかった。
私は、ヴィルヘルムの背中を、見ていた。
議場を出て、回廊で、グレーフェンと会った。
「お見事でした」
グレーフェンは、頭を下げた。
「グレーフェン殿の証言があってこそでございます」
「いえ。証言は、契約書の現物照合のみ。本日の弁論は、奥様お一人のものです」
奥様、と呼ばれた。
私はまだ、エーレンベルク夫人ではない。でも、グレーフェンは、もう「奥様」と呼んだ。それを訂正しなかった。訂正する場面ではなかった。
ハインリヒも来た。
「レーヴェンシュタイン嬢」
「ハインリヒ殿」
「お疲れ様でした」
ハインリヒは、ユリウスのほうにも頭を下げた。ユリウスは、回廊の壁に手をついていた。立ち上がって、議場から出るまでの数十歩で、すでに疲れていた。ヴァルター先生が、外で待っていてくれているはずだった。
「殿下が、最後まで、傍聴席にいらっしゃいました」
ハインリヒが、低い声で言った。
「ご感想は、ございませんでしたが——お顔の色が、判決の後、いつもと違っておいででした」
私は、頷いた。
殿下が私に何を思ったかは、私が知ることではない。殿下自身の問題だ。半年前に、私は、殿下から離れた。離れたままで、いい。
「ありがとうございます」
それだけ言った。
公爵邸に戻る馬車の中で、ユリウスは、窓に頭を預けていた。
目を閉じていた。眠ってはいない。呼吸を整えている。
私は、隣で、書類入れを膝に置いていた。書類入れの留め金が、また開いていた。閉めようとして、閉める前に、ユリウスのほうを見た。
「ユリウス」
「うん」
「終わったわ」
「終わった」
「あなたの、家督は、守られたわ」
「ああ」
「あなたの命も」
ユリウスは、目を開けた。
私のほうを、見た。
領地に戻ったのは、判決の三日後だった。
医療馬車で、行きと同じくらいゆっくり戻った。途中の宿で、二泊した。ユリウスは、行きより少しだけ顔色が良かった。判決が出たことで、緊張が解けたのかもしれない。
領地の門の前で、馬車が止まった。
オットーが、玄関の前に立っていた。
私たちが降りると、オットーは、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、オットー」
ユリウスは、杖をついて、馬車を降りた。私が支えた。御者も支えた。三日間の道のりで、足の疲れは、思ったより深くなっていた。一歩、玄関の前に出るのに、いつもの倍の時間がかかった。
そして——
ユリウスは、玄関の前で、私のほうを見た。
私を見て、何かを言いかけて——
杖が、地面に落ちた。
カンと、乾いた音がした。
オットーは、杖を拾うのを忘れた。御者も忘れた。私は、ユリウスの腕を支えていた。
ユリウスは、自分の手で、私の両手を取った。
両手で、私の両手を包んだ。
「治療を、受けます」
声が、低かった。
「君に守られながら、生きる方を選びます」
私は、答えなかった。
答える代わりに、ユリウスの手を、握り返した。
書斎に戻ったのは、その日の夕方だった。
ユリウスは、ソファで休んでいた。私は、机の前に立っていた。机の上に、ユリウスの引き出しがあった。一番上の段。手紙の束が入っている、隣の段。
私は、その隣の段を、開けた。
中に、紙があった。封蝋で閉じられた、私の知っている紙。半年前——いや、王都に発つ前の朝に書斎の机に置かれていた、あの紙だった。「読まずに保管してくれ」と書かれていた紙。
私は、それを取り出した。
ユリウスのほうを、見た。
ユリウスは、ソファから、私のほうを見ていた。少し驚いた顔をしていた。
「もう必要ない」
ユリウスは、そう言った。
「自分で、開けたい。今、君の前で」
私は、紙を、ユリウスに渡した。
ユリウスは、封蝋を、指で割った。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
——もし、僕が死んだら。
そう、書き出されていた。
——イレーネへ。
——もし、僕が、治療を受けないまま、二年以内に死んだら、この手紙を読んでくれ。
——書斎の引き出しの、二段目に入れておく。
——僕は、君を愛している。
——十四年間、ずっとそう思ってきた。
——でも、君に、それを背負わせたくなかった。
——だから、治療を受けないことを、選ぼうとした。
——でも、それは、君を、愛していないことと、同じだと、最近、気づいた。
——だから、もし、僕が、治療を受けないまま死んだら、それは、僕の臆病のせいだ。
——君のせいではない。
——君が、自分を責めないように。
——これを、書いておく。
——ユリウス
ユリウスは、紙を、ソファの脇の小さな卓に置いた。
「この手紙を、書いた時には」
声が、まだ低かった。
「治療を受けない、と決めていた。決めていたから、君に何かあった時のために、こういう手紙を書いた」
「ええ」
「でも、君が、貴族院で立ってくれた時に——」
ユリウスは、言葉を切った。
「君が、僕の命のために、戦ってくれた時に、僕は、決め直した」
「ええ」
「だから、もう、この手紙は、必要ない」
ユリウスは、紙を、机の上のろうそくの炎に近づけた。
紙の隅から、火が点いた。
そのまま、机の上の小さな皿の上に、紙を置いた。
紙が、ゆっくり燃えた。
封蝋の赤が最後に一瞬、明るく光って、消えた。
窓の外が、暗くなり始めていた。
リーザの声が、丘の下のほうで、聞こえた。
私は、ソファの前に膝をついて、ユリウスの両手を取った。
ユリウスの手は、温かかった。
判決が出てから三日経って、王都から領地に戻って、玄関で杖を落として、書斎で遺書を燃やして——その全部の後で、ユリウスの手は、温かかった。




