第6話 君のためには戦わせない
「正式訴状が、王家に受理された」
ユリウスがそう言ったのは、書斎の机の前だった。
午前の遅い時間で、私はちょうど薬草園から戻ったところだった。手にカモミールの籠を提げていた。土のついた前掛けがそのままで、書斎に入る前にオットーに「お脱ぎになってからのほうがよろしいかと」と止められそうだったけれど、声を聞いた瞬間に止まれなかった。
「受理?」
「医師の認定書、差し戻しの後、再提出された。今度は王国医師名簿に載っている三名の名前で揃えてあった」
ユリウスは、机の上の書状を私のほうへ回した。
王家の朱印が押されていた。本物だ。「家督継承資格停止訴訟、ヴィルヘルム・フォン・エーレンベルク男爵より提起。受理。審議は来月の貴族院定例会にて」と書かれていた。
「来月」
「二週間後だ」
「私たちが書類不備で差し戻して、再提出に二週間かかる、と言ったわよね」
「言った」
「二週間で、三名の医師を揃えて、再提出してきた」
「ああ」
ユリウスは、書状の朱印を、指で軽く押さえた。押すというより、確認するように。
書状の続きには、「現当主の病による執務不能の懸念、および領地経営の不安」が訴状の根拠と書かれていた。
執務不能の懸念。それは医師の認定書がもう用意されている。
領地経営の不安。これは、たぶん、後付けの根拠だ。最初の訴状では書かれていなかった。差し戻されてから、追加された。
「経営の不安、って」
「具体的な指摘は、書状にはない。訴状の本体に書かれているはずだ。本体は、貴族院での審議の場で開示される」
「開示されるまで、私たちには分からないのね」
「ああ」
ユリウスは、書状を裏返した。裏には何も書かれていなかった。それでも裏返す癖は、半年前に殿下からの手紙を燠の上に置いた時の、私の癖と似ている気がした。少し似ている、というだけだ。
書斎を出て、廊下を歩く間、私は籠を抱えたままだった。
リーザの声が遠くで聞こえた。今日は、井戸のそばではないらしい。林檎園のほうから聞こえている。子どもたちが遊ぶ場所が、季節で変わる。今は林檎の実が小さく色づき始めて、子どもたちはそれを見るのが楽しいのだ。落ちている実を拾って、皮を剥いて食べる。お腹を壊す子もいる。先週、リーザがそうだった。
書斎に戻りたかった。
籠を玄関の脇に置いて、前掛けを外した。土のついた前掛けを、丸めて廊下の隅の籠に入れた。爪のあいだに少し土が残っていた。袖口で拭いた。爪の脇のカモミールの黄色い跡は、もう完全に落ちていた。
書斎の扉を、もう一度叩いた。
「ユリウス」
「うん」
「貴族院の審議で、私が出ても?」
ユリウスは、机の上の書状から目を上げた。
「君が出るのは、難しい」
「難しい?」
「貴族院で発言できるのは、当事者本人と、王家が認めた弁論者だけだ。当事者本人は、僕。王家が認めた弁論者は、外部の貴族か、当事者の代理人として登録された者」
「私は、登録できないの」
「できる場合がある。配偶者か、婚約者で、当主が病で出廷できない場合の代理人として」
ユリウスは、ペンを置いた。
「君は、登録できる。でも、登録すれば、君が貴族院の場に立つことになる」
「立つわよ。立たせて」
ユリウスは、私を見た。
しばらく、何も言わなかった。それから、椅子を引いた。立ち上がるのに、机の縁に手をついた。今日は杖が、机の隣の壁に立てかけてあった。
「君を、立たせない」
「ユリウス」
「君が立つ必要はない。僕が立つ」
「あなたの身体で、貴族院は」
「専用の医療馬車を頼む。グレーフェンに口添えを頼める。王都までの三日間、一日ずつ街道沿いの宿で泊まりながら、ゆっくり行けば、何とかなる」
「何とか、って」
私は、机の前に立っていた。
「貴族会議の時に、馬車で発作を起こしたじゃない」
ユリウスは、頷いた。
「あれは、急いだからだ。今度は急がない」
「急がなくても、王都の貴族院で長時間立って、長時間しゃべるのよ。それが、心臓に」
「ああ」
「分かっているの? あなた、分かっているの? ヴァルター先生が何と仰ったか」
「覚えている」
「あと一年か二年で、二度目の発作が来る確率が高い、と仰ったわ。それは普通に暮らした場合の話よ。貴族院で長時間しゃべる、というのは、普通に暮らすことに含まれていない」
ユリウスは、机の縁から手を離した。少し、よろけた。よろけた、というほどではない。一瞬、重心が傾いただけだ。すぐに直した。
それを見ていた。
書斎が、急に冷たくなった気がした。実際は冷たくなっていない。窓は閉まっている。火鉢も入っている。私の中で、何かが冷えた。
「君が言いたいことは、分かる」
ユリウスは、椅子に座り直した。
「だが、君を貴族院に立たせるわけにはいかない」
「なぜ」
「君に、戦わせたくない」
「戦わせたくない」
「ああ」
「ユリウス」
私は、机の脇の椅子に座った。座らないと、何かを言いそうだった。立ったまま言ったら、口調が荒くなる。
「私に、戦わせたくない、というのは——」
「言葉のままだ」
「あなたの命のために、私が戦うのが、嫌なの?」
ユリウスは、答えなかった。
すぐには。
「君のためなら、戦える」
しばらく間があってから、言った。
「君が傷つけられたら、僕は身体を引きずってでも、貴族会議に出る。半年前のように。だから、君のためなら戦える」
「うん」
「でも、僕のためには、君に戦わせたくない」
机の上のペンが、転がった。インクの瓶に当たって、止まった。
「君に、僕の命の重さを背負わせたくない」
私は、椅子の肘掛けを、両手で握っていた。気づかないうちに。指の関節が白くなっていた。半年前、ヴィルヘルムの侮辱を聞いたユリウスの手と、同じ握り方だった。
「あなた、それ、私を守ってる気でいるんでしょう」
声が、わずかに震えた。
「守りたい、と思っている」
「守ってない」
ユリウスが、私を見た。
「あなたが、貴族院で発作を起こして倒れたら、私は何を守ったことになるの。あなたの誇り? あなたの覚悟? それを守って、あなたが死んだら、私の何が残るの」
ユリウスは、何も言わなかった。
「私は、あなたが生きていてくれることが、私の名前を守ることだ、って分かったわ。半年前、貴族会議で、あなたが命を張ってくれた時に。だから今度は、私の番なの。私の番で、あなたを生かす番なの」
「君を、戦わせたくない」
「もう戦っているわ」
私は、立ち上がった。
「もう戦っているのよ。書類不備の指摘も、北部産の薬草の指摘も、招待状の詰み手も、全部私がやったでしょう。あなたが許可したから? 違う。私がやりたかったから、やった」
ユリウスは、机を見ていた。
「だから、今さら『戦わせたくない』は、遅いわ」
私は息を吸って、続けた。
「私は、レーヴェンシュタイン公爵令嬢として、貴族院に立つ。夫を守れない女と、社交界で呼ばれたくないから」
そう言った。
そう言った瞬間、自分でも、それが本当の理由なのかどうか分からなくなった。
「夫を守れない女、と社交界で呼ばれたくない」というのは、半分本当で、半分、口実だ。私は、そんなふうに社交界の評価を気にする人間ではない。少なくとも、半年前に社交界に背を向けて辺境に来た人間ではない。でも、ユリウスを納得させるためには、そういう言い方のほうが効く。「あなたを愛しているから戦う」と言っても、ユリウスは「だから戦わせたくない」と返すだろう。「私の名誉のために戦う」と言えば、ユリウスは譲らざるを得ない。ユリウスは、私の名誉に対しては、譲る人だから。
ずるい言い方だ、と思った。
ずるくても、構わなかった。
ユリウスは、長いあいだ、何も言わなかった。
机の上のペンを、指で転がした。インクの瓶から離して、また戻した。それを、三回繰り返した。三回目に、ペンを止めた。
「分かった」
「分かったって」
「君が、立つ」
「ユリウス」
「ただし、一つ、条件がある」
「何」
「僕も、貴族院に行く。君の隣にいる」
「あなたの身体で——」
「発言は、君がしてくれていい。書類の整理も、君に任せる。僕は隣に座っている。座っているだけだ。それなら、長時間の発言で発作を起こすことはない」
ユリウスの顔を見た。
譲った、と思った。
譲ったけれど、譲りきってはいない。ユリウスは、隣に座る、と言った。隣に座るだけでも、王都までの長旅と、貴族院での長時間は、心臓に負担がかかる。ヴァルター先生の九ヶ月の治療準備期間中に、それをすることが、どれだけのリスクか、ユリウスは分かっている。分かっているのに、譲った。
「条件、もう一つ加えていい?」
「何」
「医療馬車を、ヴァルター先生に手配を依頼するわ。私が」
ユリウスは、目尻に皺を作った。
それで返事の代わりだった。
書斎を出てから、私は廊下で立ち止まった。
呼吸が、わずかに荒かった。怒鳴ったわけではないのに、どこかが疲れていた。たぶん、声を抑えながらしゃべっていたから。怒鳴ったほうが、楽だったかもしれない。
オットーが、廊下の向こうから歩いてきた。盆を持っていた。盆の上に、薬草茶のカップが二つ。
「お嬢様」
「オットー、ありがとう。書斎に運んで」
「お嬢様の分は」
「ユリウスのを、書斎に。私の分は、テラスに置いておいて」
オットーは頷いた。
私は、自分の部屋に向かった。
部屋に入って、寝台に座った。
旅の支度をしなければならない。王都までは三日。一人で行ったことが二回ある。一度目は、半年前、婚約解消をしに行った時の逆方向。あの時はここから王都へではなくて、王都からここへ向かった。二度目は、貴族会議の後にユリウスが倒れた時、王都から戻ってきた経路。今度は、行きと帰りの両方を、私一人で——いや、ユリウスと一緒に——行くことになる。
旅行鞄を、寝台の横に置いた。
着替え。書類。手紙の束。手紙の束は、置いていく。十四年分の手紙は、置いていくほうがいい。万が一、馬車で何かあった時に、紛失したら取り返しがつかない。
書類の整理を、しなければならない。
ヴィルヘルムの自領帳簿の入手手続き、グレーフェンへの連絡、ハインリヒへの連絡。ハインリヒに連絡するのは、気が重かった。半年前に和解はしたけれど、向こうがまだ気にしている感じが、最後の手紙のやり取りで分かった。気にしないでくれ、と私は思っていたが、人の気の使い方は、自分では決められない。
机に向かった。
ペンを取って、紙を出した。
王都の父への手紙が、最初だ。「明後日、王都に発ちます。公爵邸に二週間ほど滞在させていただきたく」と書いた。書きながら、自分の字が少し急いでいるのが分かった。右上がりの傾きが、いつもより急だ。
ユリウスが、いつか言っていた。「君の字は普段、右上がりだ。でもときどき、水平になる。疲れている時だ」と。
今日の私の字は、急いでいる。
疲れている、よりは、ましだろうか。
父への手紙を書き終えて、グレーフェンへの手紙を書き始めた頃、扉が叩かれた。
オットーだ。盆を持っていない。手ぶらだ。
「お嬢様」
「どうしたの」
「お夕食をどちらでお取りになるか、と」
「あ」
夕食のことを忘れていた。
「ユリウスは?」
「書斎でお取りになるそうで。お嬢様も書斎でご一緒なさいますか? それとも、お部屋で?」
少し考えた。
書斎に行きたい気もするし、行きたくない気もした。書斎で一緒に食べれば、和解の続きができる。でも、まだ和解しきれていない気もする。今、顔を合わせたら、また同じ話の続きをしてしまうかもしれない。「行かないでくれ」とか、そういうことを、ユリウスが、もう一度言ってしまうかもしれない。
「書斎で、ご一緒するわ」
そう答えた。
オットーは頷いた。
書斎に入ると、ユリウスは机ではなく、暖炉の前のソファのほうに移っていた。
机の上は、書類が片付けられていた。たぶん、私が来る前に整理した。ペンも、インクの瓶も、引き出しに戻されていた。机の上は、夕食の盆が置けるように、空けられていた。
オットーが盆を運んできた。スープと、パンと、川魚の焼いたのと、茹でた芋。普段の夕食と同じだった。私たちの食卓は、半年経ってもほとんど変わらない。ユリウスがそういうのを好まない人だから、何度提案しても、料理人は同じ献立に戻る。それが、もう、嫌ではなくなっている。
向かい合って座った。
スープを、二人とも、しばらく無言で飲んだ。
「ユリウス」
「うん」
「明後日、出発するわ」
「医療馬車の手配は」
「ヴァルター先生に手紙を出した。先生が、王都まで一緒に来てくださるそうよ。途中で何かあったら、すぐに対応してくださる」
「ありがたい」
「貴族院の審議の日まで、王都の父の家に滞在するわ。あなたも、父の家に泊まれるように手配してある」
「君のお父上の家に、僕が泊まるのか」
「私が頼んだの。父も、断らなかった」
ユリウスは、スープのスプーンを置いた。
「君のお父上は、僕を、どう思っているんだろう」
少し考えた。
「分からないわ。でも、最後に会った時、『あの男は、お前を泣かせてくれる男だ』と言ったの、覚えているでしょう」
「覚えている」
「私を泣かせてくれる男を、認めてくださっているのは確か。それ以上は、私にも分からない。父は、あまり何も言わない人だから」
ユリウスは、頷いた。
スプーンを取って、また飲み始めた。
食事の終わりに、ユリウスが、ふと言った。
「君が、立つことになった」
「ええ」
「僕は、隣に座っているだけだ」
「ええ」
「それは、僕にとって、新しい場所だ」
「新しい場所?」
「君の隣で、何もしないで座っていることが、だ」
私は、スプーンを置いた。
「何もしない、わけじゃないわ。あなたの存在が、傍聴席や、貴族院の議員たちに、影響するもの。あなたが当事者本人として、その場にいるだけで」
「うん」
「だから、何もしていないわけじゃない」
「分かった」
ユリウスは、テーブルの隅に置かれていた、小さなナプキンを手に取った。膝に置こうとして、もう食事が終わっていることに気づいて、戻した。
食事の後、玄関で別れた。
私は明日、薬草園の最後の整理がある。ユリウスは書斎で、貴族院に提出する書類の最終確認だ。今夜は、別々の部屋で寝る。
玄関の前で、ユリウスが、背中越しに言った。
「茶葉は、新しいのを淹れて待っている」
私は、振り返らなかった。
振り返らないまま、頷いた。
「うん」
「君が戻る頃に、ちょうど飲み頃になる」
「うん」
「気をつけて」
「あなたも」
それだけ言って、私は階段を上がった。
自分の部屋に戻って、寝間着に着替えた。
寝台に入って、目を閉じた。
——茶葉は、新しいのを淹れて待っている。
それが「行ってこい」と「帰ってこい」を、両方意味していた。
たぶん、ユリウス自身は、そういうつもりで言ったのではない。ただ、いつもの会話のつもりで言った。茶葉が古くなったから新しいのを買ったとか、そういう日常的な話のつもりで。
でも、今日のユリウスの背中越しのその言葉は、別の意味も含んでいた。
私が、そう聞いたから、別の意味になった。
それでいい、と思った。
ユリウスがそう言ったつもりがなくても、私がそう聞いた。それで、私は明後日、王都に発てる。
窓の外で、虫の声が、わずかに減っていた。
秋が、近い。
結婚式は、秋の収穫祭の翌日だ。
それまでに、貴族院の審議を終わらせて、ヴィルヘルムを退けて、ユリウスを領地に連れて帰る。
それから、結婚式をして、それから、ヴァルター先生の治療準備が始まる。
予定が、いっぱいだった。
予定がいっぱいだ、と思えることが、半年前にはなかった。半年前、私の予定は、何もなかった。何もしなくていい、ということが、一番、難しかった。
今は、忙しい。
忙しくて、それが、嬉しい。




