表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/32

第6話 君のためには戦わせない


「正式訴状が、王家に受理された」


ユリウスがそう言ったのは、書斎の机の前だった。


午前の遅い時間で、私はちょうど薬草園から戻ったところだった。手にカモミールの籠を提げていた。土のついた前掛けがそのままで、書斎に入る前にオットーに「お脱ぎになってからのほうがよろしいかと」と止められそうだったけれど、声を聞いた瞬間に止まれなかった。


「受理?」


「医師の認定書、差し戻しの後、再提出された。今度は王国医師名簿に載っている三名の名前で揃えてあった」


ユリウスは、机の上の書状を私のほうへ回した。


王家の朱印が押されていた。本物だ。「家督継承資格停止訴訟、ヴィルヘルム・フォン・エーレンベルク男爵より提起。受理。審議は来月の貴族院定例会にて」と書かれていた。


「来月」


「二週間後だ」


「私たちが書類不備で差し戻して、再提出に二週間かかる、と言ったわよね」


「言った」


「二週間で、三名の医師を揃えて、再提出してきた」


「ああ」


ユリウスは、書状の朱印を、指で軽く押さえた。押すというより、確認するように。


書状の続きには、「現当主の病による執務不能の懸念、および領地経営の不安」が訴状の根拠と書かれていた。


執務不能の懸念。それは医師の認定書がもう用意されている。


領地経営の不安。これは、たぶん、後付けの根拠だ。最初の訴状では書かれていなかった。差し戻されてから、追加された。


「経営の不安、って」


「具体的な指摘は、書状にはない。訴状の本体に書かれているはずだ。本体は、貴族院での審議の場で開示される」


「開示されるまで、私たちには分からないのね」


「ああ」


ユリウスは、書状を裏返した。裏には何も書かれていなかった。それでも裏返す癖は、半年前に殿下からの手紙を燠の上に置いた時の、私の癖と似ている気がした。少し似ている、というだけだ。


書斎を出て、廊下を歩く間、私は籠を抱えたままだった。


リーザの声が遠くで聞こえた。今日は、井戸のそばではないらしい。林檎園のほうから聞こえている。子どもたちが遊ぶ場所が、季節で変わる。今は林檎の実が小さく色づき始めて、子どもたちはそれを見るのが楽しいのだ。落ちている実を拾って、皮を剥いて食べる。お腹を壊す子もいる。先週、リーザがそうだった。


書斎に戻りたかった。


籠を玄関の脇に置いて、前掛けを外した。土のついた前掛けを、丸めて廊下の隅の籠に入れた。爪のあいだに少し土が残っていた。袖口で拭いた。爪の脇のカモミールの黄色い跡は、もう完全に落ちていた。


書斎の扉を、もう一度叩いた。


「ユリウス」


「うん」


「貴族院の審議で、私が出ても?」


ユリウスは、机の上の書状から目を上げた。


「君が出るのは、難しい」


「難しい?」


「貴族院で発言できるのは、当事者本人と、王家が認めた弁論者だけだ。当事者本人は、僕。王家が認めた弁論者は、外部の貴族か、当事者の代理人として登録された者」


「私は、登録できないの」


「できる場合がある。配偶者か、婚約者で、当主が病で出廷できない場合の代理人として」


ユリウスは、ペンを置いた。


「君は、登録できる。でも、登録すれば、君が貴族院の場に立つことになる」


「立つわよ。立たせて」


ユリウスは、私を見た。


しばらく、何も言わなかった。それから、椅子を引いた。立ち上がるのに、机の縁に手をついた。今日は杖が、机の隣の壁に立てかけてあった。


「君を、立たせない」


「ユリウス」


「君が立つ必要はない。僕が立つ」


「あなたの身体で、貴族院は」


「専用の医療馬車を頼む。グレーフェンに口添えを頼める。王都までの三日間、一日ずつ街道沿いの宿で泊まりながら、ゆっくり行けば、何とかなる」


「何とか、って」


私は、机の前に立っていた。


「貴族会議の時に、馬車で発作を起こしたじゃない」


ユリウスは、頷いた。


「あれは、急いだからだ。今度は急がない」


「急がなくても、王都の貴族院で長時間立って、長時間しゃべるのよ。それが、心臓に」


「ああ」


「分かっているの? あなた、分かっているの? ヴァルター先生が何と仰ったか」


「覚えている」


「あと一年か二年で、二度目の発作が来る確率が高い、と仰ったわ。それは普通に暮らした場合の話よ。貴族院で長時間しゃべる、というのは、普通に暮らすことに含まれていない」


ユリウスは、机の縁から手を離した。少し、よろけた。よろけた、というほどではない。一瞬、重心が傾いただけだ。すぐに直した。


それを見ていた。


書斎が、急に冷たくなった気がした。実際は冷たくなっていない。窓は閉まっている。火鉢も入っている。私の中で、何かが冷えた。


「君が言いたいことは、分かる」


ユリウスは、椅子に座り直した。


「だが、君を貴族院に立たせるわけにはいかない」


「なぜ」


「君に、戦わせたくない」


「戦わせたくない」


「ああ」


「ユリウス」


私は、机の脇の椅子に座った。座らないと、何かを言いそうだった。立ったまま言ったら、口調が荒くなる。


「私に、戦わせたくない、というのは——」


「言葉のままだ」


「あなたの命のために、私が戦うのが、嫌なの?」


ユリウスは、答えなかった。


すぐには。


「君のためなら、戦える」


しばらく間があってから、言った。


「君が傷つけられたら、僕は身体を引きずってでも、貴族会議に出る。半年前のように。だから、君のためなら戦える」


「うん」


「でも、僕のためには、君に戦わせたくない」


机の上のペンが、転がった。インクの瓶に当たって、止まった。


「君に、僕の命の重さを背負わせたくない」


私は、椅子の肘掛けを、両手で握っていた。気づかないうちに。指の関節が白くなっていた。半年前、ヴィルヘルムの侮辱を聞いたユリウスの手と、同じ握り方だった。


「あなた、それ、私を守ってる気でいるんでしょう」


声が、わずかに震えた。


「守りたい、と思っている」


「守ってない」


ユリウスが、私を見た。


「あなたが、貴族院で発作を起こして倒れたら、私は何を守ったことになるの。あなたの誇り? あなたの覚悟? それを守って、あなたが死んだら、私の何が残るの」


ユリウスは、何も言わなかった。


「私は、あなたが生きていてくれることが、私の名前を守ることだ、って分かったわ。半年前、貴族会議で、あなたが命を張ってくれた時に。だから今度は、私の番なの。私の番で、あなたを生かす番なの」


「君を、戦わせたくない」


「もう戦っているわ」


私は、立ち上がった。


「もう戦っているのよ。書類不備の指摘も、北部産の薬草の指摘も、招待状の詰み手も、全部私がやったでしょう。あなたが許可したから? 違う。私がやりたかったから、やった」


ユリウスは、机を見ていた。


「だから、今さら『戦わせたくない』は、遅いわ」


私は息を吸って、続けた。


「私は、レーヴェンシュタイン公爵令嬢として、貴族院に立つ。夫を守れない女と、社交界で呼ばれたくないから」


そう言った。


そう言った瞬間、自分でも、それが本当の理由なのかどうか分からなくなった。


「夫を守れない女、と社交界で呼ばれたくない」というのは、半分本当で、半分、口実だ。私は、そんなふうに社交界の評価を気にする人間ではない。少なくとも、半年前に社交界に背を向けて辺境に来た人間ではない。でも、ユリウスを納得させるためには、そういう言い方のほうが効く。「あなたを愛しているから戦う」と言っても、ユリウスは「だから戦わせたくない」と返すだろう。「私の名誉のために戦う」と言えば、ユリウスは譲らざるを得ない。ユリウスは、私の名誉に対しては、譲る人だから。


ずるい言い方だ、と思った。


ずるくても、構わなかった。


ユリウスは、長いあいだ、何も言わなかった。


机の上のペンを、指で転がした。インクの瓶から離して、また戻した。それを、三回繰り返した。三回目に、ペンを止めた。


「分かった」


「分かったって」


「君が、立つ」


「ユリウス」


「ただし、一つ、条件がある」


「何」


「僕も、貴族院に行く。君の隣にいる」


「あなたの身体で——」


「発言は、君がしてくれていい。書類の整理も、君に任せる。僕は隣に座っている。座っているだけだ。それなら、長時間の発言で発作を起こすことはない」


ユリウスの顔を見た。


譲った、と思った。


譲ったけれど、譲りきってはいない。ユリウスは、隣に座る、と言った。隣に座るだけでも、王都までの長旅と、貴族院での長時間は、心臓に負担がかかる。ヴァルター先生の九ヶ月の治療準備期間中に、それをすることが、どれだけのリスクか、ユリウスは分かっている。分かっているのに、譲った。


「条件、もう一つ加えていい?」


「何」


「医療馬車を、ヴァルター先生に手配を依頼するわ。私が」


ユリウスは、目尻に皺を作った。


それで返事の代わりだった。


書斎を出てから、私は廊下で立ち止まった。


呼吸が、わずかに荒かった。怒鳴ったわけではないのに、どこかが疲れていた。たぶん、声を抑えながらしゃべっていたから。怒鳴ったほうが、楽だったかもしれない。


オットーが、廊下の向こうから歩いてきた。盆を持っていた。盆の上に、薬草茶のカップが二つ。


「お嬢様」


「オットー、ありがとう。書斎に運んで」


「お嬢様の分は」


「ユリウスのを、書斎に。私の分は、テラスに置いておいて」


オットーは頷いた。


私は、自分の部屋に向かった。


部屋に入って、寝台に座った。


旅の支度をしなければならない。王都までは三日。一人で行ったことが二回ある。一度目は、半年前、婚約解消をしに行った時の逆方向。あの時はここから王都へではなくて、王都からここへ向かった。二度目は、貴族会議の後にユリウスが倒れた時、王都から戻ってきた経路。今度は、行きと帰りの両方を、私一人で——いや、ユリウスと一緒に——行くことになる。


旅行鞄を、寝台の横に置いた。


着替え。書類。手紙の束。手紙の束は、置いていく。十四年分の手紙は、置いていくほうがいい。万が一、馬車で何かあった時に、紛失したら取り返しがつかない。


書類の整理を、しなければならない。


ヴィルヘルムの自領帳簿の入手手続き、グレーフェンへの連絡、ハインリヒへの連絡。ハインリヒに連絡するのは、気が重かった。半年前に和解はしたけれど、向こうがまだ気にしている感じが、最後の手紙のやり取りで分かった。気にしないでくれ、と私は思っていたが、人の気の使い方は、自分では決められない。


机に向かった。


ペンを取って、紙を出した。


王都の父への手紙が、最初だ。「明後日、王都に発ちます。公爵邸に二週間ほど滞在させていただきたく」と書いた。書きながら、自分の字が少し急いでいるのが分かった。右上がりの傾きが、いつもより急だ。


ユリウスが、いつか言っていた。「君の字は普段、右上がりだ。でもときどき、水平になる。疲れている時だ」と。


今日の私の字は、急いでいる。


疲れている、よりは、ましだろうか。


父への手紙を書き終えて、グレーフェンへの手紙を書き始めた頃、扉が叩かれた。


オットーだ。盆を持っていない。手ぶらだ。


「お嬢様」


「どうしたの」


「お夕食をどちらでお取りになるか、と」


「あ」


夕食のことを忘れていた。


「ユリウスは?」


「書斎でお取りになるそうで。お嬢様も書斎でご一緒なさいますか? それとも、お部屋で?」


少し考えた。


書斎に行きたい気もするし、行きたくない気もした。書斎で一緒に食べれば、和解の続きができる。でも、まだ和解しきれていない気もする。今、顔を合わせたら、また同じ話の続きをしてしまうかもしれない。「行かないでくれ」とか、そういうことを、ユリウスが、もう一度言ってしまうかもしれない。


「書斎で、ご一緒するわ」


そう答えた。


オットーは頷いた。


書斎に入ると、ユリウスは机ではなく、暖炉の前のソファのほうに移っていた。


机の上は、書類が片付けられていた。たぶん、私が来る前に整理した。ペンも、インクの瓶も、引き出しに戻されていた。机の上は、夕食の盆が置けるように、空けられていた。


オットーが盆を運んできた。スープと、パンと、川魚の焼いたのと、茹でた芋。普段の夕食と同じだった。私たちの食卓は、半年経ってもほとんど変わらない。ユリウスがそういうのを好まない人だから、何度提案しても、料理人は同じ献立に戻る。それが、もう、嫌ではなくなっている。


向かい合って座った。


スープを、二人とも、しばらく無言で飲んだ。


「ユリウス」


「うん」


「明後日、出発するわ」


「医療馬車の手配は」


「ヴァルター先生に手紙を出した。先生が、王都まで一緒に来てくださるそうよ。途中で何かあったら、すぐに対応してくださる」


「ありがたい」


「貴族院の審議の日まで、王都の父の家に滞在するわ。あなたも、父の家に泊まれるように手配してある」


「君のお父上の家に、僕が泊まるのか」


「私が頼んだの。父も、断らなかった」


ユリウスは、スープのスプーンを置いた。


「君のお父上は、僕を、どう思っているんだろう」


少し考えた。


「分からないわ。でも、最後に会った時、『あの男は、お前を泣かせてくれる男だ』と言ったの、覚えているでしょう」


「覚えている」


「私を泣かせてくれる男を、認めてくださっているのは確か。それ以上は、私にも分からない。父は、あまり何も言わない人だから」


ユリウスは、頷いた。


スプーンを取って、また飲み始めた。


食事の終わりに、ユリウスが、ふと言った。


「君が、立つことになった」


「ええ」


「僕は、隣に座っているだけだ」


「ええ」


「それは、僕にとって、新しい場所だ」


「新しい場所?」


「君の隣で、何もしないで座っていることが、だ」


私は、スプーンを置いた。


「何もしない、わけじゃないわ。あなたの存在が、傍聴席や、貴族院の議員たちに、影響するもの。あなたが当事者本人として、その場にいるだけで」


「うん」


「だから、何もしていないわけじゃない」


「分かった」


ユリウスは、テーブルの隅に置かれていた、小さなナプキンを手に取った。膝に置こうとして、もう食事が終わっていることに気づいて、戻した。


食事の後、玄関で別れた。


私は明日、薬草園の最後の整理がある。ユリウスは書斎で、貴族院に提出する書類の最終確認だ。今夜は、別々の部屋で寝る。


玄関の前で、ユリウスが、背中越しに言った。


「茶葉は、新しいのを淹れて待っている」


私は、振り返らなかった。


振り返らないまま、頷いた。


「うん」


「君が戻る頃に、ちょうど飲み頃になる」


「うん」


「気をつけて」


「あなたも」


それだけ言って、私は階段を上がった。


自分の部屋に戻って、寝間着に着替えた。


寝台に入って、目を閉じた。


——茶葉は、新しいのを淹れて待っている。


それが「行ってこい」と「帰ってこい」を、両方意味していた。


たぶん、ユリウス自身は、そういうつもりで言ったのではない。ただ、いつもの会話のつもりで言った。茶葉が古くなったから新しいのを買ったとか、そういう日常的な話のつもりで。


でも、今日のユリウスの背中越しのその言葉は、別の意味も含んでいた。


私が、そう聞いたから、別の意味になった。


それでいい、と思った。


ユリウスがそう言ったつもりがなくても、私がそう聞いた。それで、私は明後日、王都に発てる。


窓の外で、虫の声が、わずかに減っていた。


秋が、近い。


結婚式は、秋の収穫祭の翌日だ。


それまでに、貴族院の審議を終わらせて、ヴィルヘルムを退けて、ユリウスを領地に連れて帰る。


それから、結婚式をして、それから、ヴァルター先生の治療準備が始まる。


予定が、いっぱいだった。


予定がいっぱいだ、と思えることが、半年前にはなかった。半年前、私の予定は、何もなかった。何もしなくていい、ということが、一番、難しかった。


今は、忙しい。


忙しくて、それが、嬉しい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ