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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 鞄の中の薬草茶


馬車の振動が、二度目だと身体が覚えていた。


座席の右側のクッションが、左より少しだけ硬い。腰のあたりに当たる位置がずれている。半年前に王都から領地に向かった時、私はずっと左側に座っていた。今度は逆方向だから、自然と右側に座っている。それで、クッションの硬さが違うことに気づいた。半年前は気づかなかった。あの頃は、クッションの硬さなんて気にする余裕がなかった。


ヴァルター先生が向かいに座っていた。手配してもらった医療馬車だ。普通の馬車より一回り大きくて、座席のあいだに簡易の寝台が組み込めるようになっている。今は寝台は畳んであった。先生の鞄の中には、応急用の薬と、聴診の器具が入っている。


ユリウスは、私の隣に座っていた。


街道に出てから、ユリウスはほとんど話さなかった。窓の外を見ているわけでもなく、何かを読んでいるわけでもなく、ただ目を閉じていた。眠っているのではない。揺れに合わせて、呼吸を整えている。長旅で発作を起こさないために、自分の身体に集中している。私はそれを邪魔したくなかった。


一日目の宿は、街道沿いのハーゲンの村だった。


半年前に私が泊まった宿のことを、ユリウスは覚えていた。「ハーゲンは枕が薄い」と前に言っていた。今度は、村のもう一つの宿に泊まることにした。御者が「こっちのほうが多少マシです」と言った。多少マシ、というのが、どれくらいの程度なのかは、泊まってみないと分からなかった。


部屋は二つ取った。私とユリウスで一つ、ヴァルター先生が一つ。


夕食を一階の食堂でとった。鶏肉のスープと、黒パン。スープは塩気が少し強かった。ユリウスはほとんど食べなかった。「揺れた後は、食欲が落ちる」と言って、パンを半分かじって、スープだけ飲んだ。私は全部食べた。空腹だった。馬車の中では緊張していて、何も食べていなかったから。


ヴァルター先生が、ユリウスの脈を取った。食堂の隅で、目立たないように。


「悪くない数字です」


先生は、そう言って、椅子を引いた。


「明日も、今日と同じくらいのペースで進みましょう。一日に三時間以上連続では走らない。途中で必ず一時間以上休む。そうすれば、王都までの三日は、お身体に大きな負担はかからないはずです」


「ありがとうございます」


ユリウスは、頭を下げた。


「お礼を言われるほどのことではありません。私の研究のためでもあります」


ヴァルター先生は、淡々と言った。


「あなたが王都で何かあると、私の研究計画も止まる。それは、医師としては、避けたい」


その言い方が、私はおかしかった。少し笑ってしまった。先生も、口の端を動かした。笑った、というほどではない。半笑い、くらいだ。


部屋に戻ると、寝台が二つ並んでいた。


部屋の奥に窓が一つ。窓の外は暗い。村の中心から少し外れた宿で、街灯がない。月明かりだけが、薄く部屋の床に差し込んでいた。


ユリウスは、自分の旅行鞄を寝台の脇に置いた。


私も、鞄を寝台の脇に置こうとして——


中身が、わずかに動いた音がした。


紙が擦れる音と、何か硬いものが当たる音。


私は鞄を開けた。


着替えの上に、何か載っていた。布で包まれた何かだ。私が積んだ覚えはない。今朝、出発前に荷物を確認した時、こんなものは入っていなかった。


布を解いた。


中から、薬草茶の缶が出てきた。


蓋に、私の好きな配合の薬草が、ユリウスの字で書かれていた。


ラベンダー、カモミール、レモンバーム、蜂蜜少々


小さな紙が、缶の上に貼ってあった。


——無理するな。


それだけ書かれていた。


半年前、私が倒れた朝にユリウスが書いた紙と、同じ筆跡だった。同じ大きさの紙。書いてある内容も同じ。違うのは、紙が新しいことだけだ。


「ユリウス」


私は、缶を持ったまま、ユリウスのほうを見た。


ユリウスは、自分の寝台の縁に座って、靴の紐を解いていた。私の声で、顔を上げた。


「いつ入れたの、これ」


「昨日の夜」


「気づかなかった」


「気づかれないように入れた」


「なぜ」


「君が、出発前に断ったら困ると思った」


私は、缶を寝台の上に置いた。寝台の縁に座った。座らないと、立っていられなかった。立っていられない、というほどではない。座りたかった、というほうが正確だ。


「断らないわよ、こんなの」


「断る、と言うか、『気を遣わなくていい』とか言うだろう。だから入れた後で気づいてもらうことにした」


「ユリウス」


「うん」


「あなた、ずるいわ」


ユリウスは、靴の紐を、もう片方も解き終えた。


「ずるい?」


「私が、貴族院で発言する前に、こういうことをするのは、ずるい」


「なぜ」


「私が、王都で頑張る理由が、また増えるじゃない」


ユリウスは、目尻に皺を寄せた。


それで返事の代わりだった。


二日目の朝、出発前に、私は缶を旅行鞄に戻した。


戻す時、紙片を缶の蓋から外した。「無理するな」と書かれた紙だ。畳んで、ポケットに入れた。胸のポケット。手で押さえると、紙の感触がする。半年前に倒れた朝に書かれた紙片も、私は手紙の束に挟んで持ってきていた。今、二枚の紙が、私の旅行鞄と胸のポケットに、別々にある。


二枚の紙の筆跡は、同じだった。書いた人も同じだ。書かれた状況だけが違う。


一枚目は、私が倒れた朝に書かれた。私を労わる紙だった。


二枚目は、私が王都に発つ前夜に書かれた。同じく、私を労わる紙だ。


でも、二枚目のほうには、別の意味が混ざっていた。


——僕の代わりに、戦いに行く君に。


そういう意味が、混ざっていた。


二日目の宿は、街道沿いの旅籠だった。


半年前に私が泊まった、商人の鼾が壁越しに聞こえた宿と、違う宿だった。ヴァルター先生が手配してくれた宿で、医師の知り合いが営んでいるらしい。部屋は清潔だった。寝台のシーツも、糊のきいた新しいものだった。


夕食の後、ユリウスが先に休んだ。私はまだ眠れなかった。


宿の食堂の隅に、机が一つ置いてあった。私はそこで、王都に着いてからの段取りを書き出した。父への到着の挨拶。グレーフェンへの連絡。ハインリヒへの連絡。貴族院に提出する書類の最終確認。ヴィルヘルムの自領帳簿の入手手続き。


書きながら、ハインリヒのことを考えた。


ハインリヒは、今、王太子府でどう過ごしているのだろう。半年前から、何度か手紙のやり取りをした。短い手紙ばかりだった。「お元気でしょうか」「変わりなく」というような、当たり障りのない手紙。ハインリヒは、まだ少し気にしていた。半年前のあの応接間で、私を止められなかったことを、自分の責任のように感じていた。


ハインリヒの責任ではない、と思っていた。あれは、彼が止められる種類のことではなかった。でも、ハインリヒは、そういう人だ。自分の手の届く範囲のことについて、責任を感じすぎる人。それが、彼の誠実さでもあり、弱さでもある。半年前、ユリウスが言っていた通りだ。「言わない。言えない。それが彼の弱さなのか誠実さなのか、六年間一緒に働いても、私にはわからなかった」と私自身も思っていた。


紙を畳んで、ポケットに入れた。「無理するな」の紙の隣に。


三日目の午後、王都に着いた。


馬車が、王都の門をくぐった瞬間、ユリウスが目を開けた。


「思ったより、覚えていない」


「何が」


「王都の景色を、覚えていなかった」


「前に来た時から、半年経っているわ」


「半年で、こんなに忘れるとは思わなかった」


ユリウスは、窓の外を見ていた。王都の景色は、半年前と変わっていない。石畳の街並み。商店の看板。荷馬車。物売りの声。私には、半年前と何も変わって見えなかった。でもユリウスにとっては、貴族会議で来た時の記憶が、すでに薄れていた。あの時のユリウスは、馬車の中で発作を起こした。記憶のほうが、その後に上書きされたのかもしれない。


公爵邸の前で、馬車が止まった。


門の前に、父が立っていた。


父は、私が降りるのを、玄関の前で待っていた。


「お父様」


「無事で」


それだけだった。


父は、それから、馬車の中のユリウスに目を移した。ユリウスが、ヴァルター先生に支えられて、ゆっくり馬車を降りた。杖を持っている。三日間の馬車旅は、思ったより身体に堪えていた。発作は起こさなかったけれど、顔色は普段より白かった。


父は、ユリウスに頭を下げた。


「エーレンベルク殿」


「お世話になります、レーヴェンシュタイン公爵閣下」


「今夜から、二週間ほど」


「ご厚意に、感謝いたします」


父は、それから、ヴァルター先生にも頭を下げた。


「ヴァルター先生でいらっしゃいますね」


「はい」


「娘から伺っております。エーレンベルク殿のお身体のこと、よろしくお願いします」


「全力を尽くします」


父は、それ以上、何も言わなかった。


侍従が荷物を運んだ。私たちは玄関を入った。


公爵邸は、半年前と変わっていなかった。


廊下のタイルの目地が、新しい。おそらく、私が出てから一度、修繕したのだろう。


居間に通された。ユリウスは、ヴァルター先生に勧められて、長椅子に横になった。私と父は、向かい合って座った。


茶が出てきた。父は、自分のカップに口をつけずに、しばらく置いていた。私もそうした。


「お父様」


「うん」


「貴族院の審議は、来週よ」


「聞いている」


「ヴィルヘルム男爵の自領帳簿を、王家経由で取り寄せたいの」


「手続きは、私が動こう」


「お父様が」


「公爵家の名で動けば、王家への申請は早く通る。お前が動くより早い」


私は、わずかに驚いた。


父が、自分から、動くと言うとは思っていなかった。父に頼めば動いてくれるかもしれないとは思っていたが、頼む前に動くと言われるのは、想定していなかった。


「ありがとう」


「礼を言われることではない」


父は、お茶のカップを取った。一口飲んでから、置いた。


「お前の夫になる男のことだ」


ユリウスのことを、父は「お前の夫になる男」と呼んだ。「あの男」でもなく、「エーレンベルク殿」でもなく。


私は、父の顔を見た。


父は、お茶のカップを見ていた。


夕方、グレーフェン外交官が公爵邸を訪ねてきた。


半年ぶりの再会だった。グレーフェンは、白髪が前より少しだけ増えていた。それ以外は、変わっていなかった。鋭い目。穏やかな声。


居間で会った。ユリウスはまだ長椅子で休んでいた。グレーフェンはユリウスに先に会釈をして、「お楽になさってください」と言った。それから、私と向かい合って座った。


「レーヴェンシュタイン嬢——失礼、近々、エーレンベルク夫人になられる方ですね」


「グレーフェン殿、お久しぶりです」


「お元気そうで何よりです。半年前にお別れした時より、お顔がよろしい」


「そうですか?」


「肌の色が違います。辺境の風が、お肌に合っているのでしょう」


そんなふうに人を見るのが、グレーフェンの癖だった。半年前、王太子府にいた頃も、私の体調を顔色だけで言い当ててきたことが何度かあった。


「本題に入ります」


グレーフェンは、革鞄から一枚の紙を取り出した。


「ヴィルヘルム男爵が、隣国の薬草商と結んでいる契約の、写しです」


私は、紙を受け取った。


短い契約書だった。王国産の薬草を、月に一度、決まった量、ヴィルヘルム男爵領から隣国の薬草商に売却する、と書かれていた。署名は、ヴィルヘルム男爵と、隣国の薬草商の両方。日付は、三年前。


「私的売却契約、ということになりますわね」


「はい。王国産の薬草を、王国の通商管理局を通さずに、私的に隣国に売却している。これは、王国法で禁じられています」


「証拠としての効力は」


「契約書の現物、もしくは写しは、貴族院の審議で証拠として採用されます。ただし、写しの場合は、現物との照合が必要です。私が、その手続きを進めています」


「お願いいたします」


私は、紙を畳んで、書類入れに収めた。


「もう一つ、お知らせしておきたいことが」


グレーフェンは、続けた。


「この契約、私が現役の頃に、薬草商の口から偶然聞いた話と一致しています。当時は、契約書までは見ていなかった。私の記憶は、酒場での雑談の記憶だけでした。今回、それが書類で確認できたわけです」


「グレーフェン殿の記憶のおかげですわ」


「いえ、お嬢様の——失礼、奥様の、お見舞いの薬草の指摘がきっかけです。あれがなければ、私も酒場の雑談を思い出さなかった」


ヴィルヘルムが「お見舞いの薬草」として持ってきた、ヴェルデン公国北部の品種。あの一つの指摘が、今、契約書を引き出していた。


私は、頷いた。


グレーフェンが帰った後、ユリウスは長椅子から起き上がった。


「契約書、見てもいいか」


「ええ」


私は、紙を渡した。


ユリウスは、契約書を読んだ。短い文書だから、読むのに時間はかからなかった。読み終えてから、紙を膝の上に置いた。


「これで、貴族院では、不忠案件として併合審議できる」


「ええ」


「家督継承の訴訟と、不忠の罪と、二つを同時に争点にする」


「あなたが想定していた通りね」


ユリウスは、頷いた。


「グレーフェンの記憶と、君の指摘で、ここまで来た」


「あなたが、薬草の流通について、グレーフェン殿に手紙を書いたから、ここまで来たのよ」


ユリウスは、契約書を、テーブルの上に置いた。


「明日、ハインリヒに会う予定だ」


「明日?」


「君が、明日、王太子府を訪ねる予定だっただろう」


「ええ。書類の確認のために」


「僕も、一緒に行く」


「ユリウス、あなたの身体で——」


「行くだけだ。長居しない。ハインリヒに、書類のことで頼みたいことがある」


ユリウスの顔を見た。


譲ったばかりだ、と思った。書斎で「君を立たせる、僕は隣に座る」と譲ったばかりなのに、もう自分から動こうとしている。


「分かったわ。一緒に行きましょう」


私は、頷いた。


止めても、ユリウスは行く。それなら、一緒に行ったほうが、私の目で身体の状態を見られる。


夜、自分の部屋に入った。


半年前まで、私が使っていた部屋だった。家具の配置が、わずかに変わっていた。前は窓辺に置いていた机が、壁際に移動していた。父が、私のいない間に、模様替えをさせたのかもしれない。掃除のしやすさのために。父はそういう、実用的な人だ。


寝間着に着替えて、寝台に入った。


胸のポケットに入れていた紙片を、取り出した。「無理するな」と書かれた紙。半年前の朝に書かれた紙と並べた。机の上に、二枚並べた。


筆跡は、同じだった。


書き方も、同じ。


紙の大きさも、同じ。


ユリウスは、私を労わる時、いつも同じ大きさの紙を使うらしい。それは、たぶん、無意識の癖だ。書斎の引き出しの中に、その大きさの紙が束で入っていて、私を労わる時に、それを使う。半年かけて気づいたばかりの癖だった。


紙を、二枚とも畳んで、机の引き出しに入れた。


廊下で、誰かの足音がした。


軽い足音だ。父の足音ではない。侍従の誰かが、夜回りに歩いている。半年ぶりの公爵邸の音だった。半年前、私はこの足音を、毎晩聞いていた。今夜も、聞いている。違うのは、もう、この家に住んでいない、ということだ。明日からの数日、客人として滞在しているだけだ。


私の家は、もう、エーレンベルクの領地にある。


ユリウスのいる場所が、私の家だ。


そう思いながら、目を閉じた。


明日、王太子府に行く。


半年前、私が出ていったあの場所に、もう一度行く。


ユリウスと、一緒に。

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