第5話 死にたくないと書けなかった
「君が王太子と笑っているのを、夜会の噂で聞いた」
書き出しが、そう始まる手紙だった。
二十一歳、と日付があった。私が王太子府に出仕して五年目の年だ。あの頃、夜会で笑った覚えなんてほとんどない。社交の場で表情を作るのが仕事だったから、どこかで笑っていたとしても、それは仕事の顔だ。でも、ユリウスのところに伝わった噂は、たぶん「楽しそうに笑っていた」という形で届いたのだろう。噂というのは、見た人の願望が混ざる。
私は手紙を膝の上に置いた。
朝のテラスだった。今日は薬草茶ではなくて、普通の紅茶だ。ユリウスが「茶葉を変えてみた」と言って、棚から取り出してきた。何も言わずに棚の手前に置いてあったから、新しい紅茶を試す気だったらしい。私のカップにだけ、蜂蜜が一さじ多く入っている。気づかないふりをした。気づかれていることをユリウスが気づくと、たぶん、明日からやめてしまう。
ユリウスを横目で見た。ユリウスも同じ手紙を読んでいた。読んでいた、というか、見ていた。文字を追っているのではなくて、紙の表面を眺めている目だった。八歳の手紙を私が初めて読んだ時とは、違う読み方だ。あの時、ユリウスは紙を覗き込むように見ていた。今は、距離を取っている。
「これは、後半が長いの?」
「長い」
「読んでいい?」
「いいけど」
「けど?」
「途中で、つまらなくなる」
「つまらない、って」
「読んでみれば分かる」
君が王太子と笑っているのを、夜会の噂で聞いた。
商人の口から聞いた話だ。だから話半分のつもりで聞いたが、半分が本当でも、僕には十分な距離だった。
別に、君が笑うのが嫌なわけではない。君が王都で楽しくしているなら、それでいい。十四歳の頃から、ずっとそう思って手紙を書いてきた。
ただ、僕がそれを書ける相手は、もういない。
母なら聞いてくれた。母なら、たぶん「焼くんじゃない、お前」と言って笑った。母は十年早く亡くなった。
書く相手がいないから、こうして書いている。書いて、出さない手紙は、書く相手がいなくても書ける。便利なものだ。
今日、庭の隅に新しい花壇を作った。何の花を植えるか、まだ決めていない。
「途中までは、つまらなくないわ」
「そうか」
「続きは?」
決めていないのは、嘘だ。
決めている。
君の手紙に、何度か、ラベンダーが好きだと書いてあった。十二歳の手紙だったか、十三歳だったか。覚えていない。覚えていない、というのも嘘だ。覚えている。十二歳の春だ。庭を見せたい家庭教師の話のついでに、母様の好きだった花の話を書いてくれた。
その手紙を、僕はあの春、二十回くらい読んだ。
二十回読んでから、その後、二、三年読まなかった。読まなかったというより、読めなかった。読むたびに、植えたいという気持ちと、植えられないという気持ちが両方湧いて、面倒だったから。
今、植えている。
今さらだ。
今さらだけど、君がここに来たら、ラベンダーがある状態で、待ちたい。
ぼくは、
(ペン先が走って、紙が破けた跡)
「最後のところが、消えているのは」
「途中で書くのをやめた」
「やめた、って」
「途中で書くのをやめた手紙が、何通かある。書ききれなかった」
ユリウスは、紙の最後の行を、指で軽く撫でた。
「『ぼくは、君と暮らしたい』と書こうとした」
「書けばよかったじゃない」
「出さない手紙にも、書けないことがある」
私は、紅茶のカップを取った。蜂蜜の甘さが、舌にゆっくり広がった。
二通目を読んだ。
別の年の手紙だった。日付は、結婚の話を父から最初に持ち出された年——十七の冬の、半年前だ。私は十七歳だった。ユリウスも十七歳だった。
その手紙は、短かった。
君のお父上が、男爵令息との縁談を進めているらしい。
商人の口から聞いた。
いい話だと思う。男爵領は領地経営が手堅いと聞いている。君に向いている。
僕は、
いい話だと思う。
「『僕は、嫌だ』と書こうとした」
ユリウスが、私が聞く前に言った。
「最後まで書けなかった、と」
「書けなかった。一度書いて、そのページを破った」
「破ったの?」
「ああ」
私は紙を裏返した。裏に、確かに、紙の繊維がささくれていた。何かを書いて、破いて、書き直したらしい。書き直した時に、「僕は、」までで止めた。
「いい話だと思う、と二回書いてあるわ」
「二回書いた。一回目は本心じゃなかった。二回目も本心じゃなかった。だから、この手紙は出せなかった」
ユリウスは、自分の言葉を、軽く笑った。
「本心じゃない手紙を、二回も書く僕に、自分でも呆れた」
束の中ほどから、もう一通、ユリウスが取り出した。
これだけ、紙の質が違った。
封筒に入れてあった。封蝋まで押されていた。エーレンベルクの紋章。封蝋は割れていない。一度も封を開けられていない手紙だ。
「これは」
「これだけ、出そうとした」
ユリウスは、封筒を私の前に置いた。
「出そうとして、書き終えて、封もして、馬車に乗せようとした」
「いつの話?」
「二年前」
私は、封筒を取った。
二年前。私の手紙の字が、水平になっていた頃だ。ユリウスがテラスで「ここ二年くらい、ずっと水平だった」と言っていた、あの二年。気づいていた、と言っていた、あの二年。
「中身は」
「自分でも、覚えていない」
「覚えていない?」
「書いた直後に、馬車に乗せる前に、開けないことに決めた。だから、何を書いたかは、書いた時点までしか覚えていない。今読んだら、たぶん、もう一度書く気がする」
「もう一度書く?」
「『来てくれ』と書いた」
ユリウスは、自分の手元のカップを見ていた。紅茶のカップだ。底に、茶葉が一枚沈んでいた。
「『来てくれ』と書いて、封をした。封をしてから、出せなくなった。馬車には乗せなかった」
私は、封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。
——二年前の手紙の字が、水平になっていた頃、ユリウスは「来てくれ」と書いていた。
——書いて、出さなかった。
——出していたら、私は二年早く、ここに来ていただろうか。
考えても、仕方ないことだ。考えても、過去は変わらない。
でも、考えてしまった。
「開けてもいいの」
「開けないでくれ」
「なぜ」
「開けたら、僕が二年前に止めた決断を、君に開けさせることになる」
ユリウスは、ゆっくり首を振った。
「僕が、二年前、出さなかったことは、僕が決めたことだ。それを、君が今日、開けることで覆すのは——違う気がする」
「分かったわ」
封筒を、机の上に戻した。封筒の角が、少しだけ折れた。私が握ったせいで。
束の中の一番奥に、もう一枚、紙が紛れていた。
折り畳まれていない、一枚きりの紙。手紙ではなかった。封筒にも入っていない。
私は、それを取り出した。
書かれていたのは、一文だけだった。
死にたくない。
日付があった。
二年前の冬。
私は、紙を持つ自分の指を見た。
指は、震えていなかった。震えていなかったのは、なぜだろう。震えるべきだったのに、震えなかった。震える、という反応をする前に、何かがもっと深い場所で動いた。胸の奥のほうで。
「これは」
「ああ」
「いつの」
「日付の通り。二年前」
「あなた、書いたの」
「書いた」
「誰に」
「誰にでもない。書く相手がいなかった」
ユリウスは、私のほうを見ていなかった。
机の脚を見ていた。木の机の、脚の付け根の部分。そこの木目が、少しだけ歪んでいる。私も同じ場所を、たまに見る。
母が亡くなった年の、八歳の春の手紙には「あいたい」と書いてあった。
二年前の冬の紙には、「死にたくない」と書いてあった。
書く相手がいなかった、とユリウスは言った。
母は十年早く亡くなった、とさっきの手紙にあった。
書く相手がいなかった。
母にだけは話せた、とユリウスは言ったことがある。母が亡くなって、話す相手がいなくなった、と。私への手紙が、その代わりだった。出さない手紙が、母の代わりだった。
だけど、「死にたくない」は、出さない手紙にも書けなかった。
母にも書けなかった、ということだ。母なら、聞いてくれただろうか。八歳のユリウスなら、母に話せただろうか。私には分からない。でも、二十一歳のユリウスが、母にも書けなかった一文を、紙に一枚だけ書いた。書いて、束の奥に入れた。出さなかった。
——書く相手がいなかった、と言った。
それは、私にも書けなかった、ということだ。
私は、紙を、両手で持っていた。
涙は、出ていなかった。出ていないのに、視界がにじんだ。たぶん、息の仕方を間違えた。吸うのが浅くて、吐くのが速い。喉のあたりが、痛い。
「ユリウス」
「うん」
「私、何か言いたいんだけど」
「うん」
「言葉が、見つからない」
「うん」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ユリウスは、机の縁から手を離した。少しだけ身体を寄せて、私の手を取った。
紙を持っている、両手のうちの、左手のほうだった。
ユリウスの手は、温かかった。半年前、貴族会議から戻った時の、冷たい手ではなかった。インクの染みが、まだ小指の横に残っていた。
「泣いてもいい」
「泣いていない」
「泣いていない、と君が言うときは、泣いている前か、泣いた後だ」
私は、笑おうとした。笑えなかった。
ユリウスの手を、握り返した。指の間に、自分の指を入れた。
どれくらいそうしていたか、覚えていない。
朝のテラスの光が、カモミールの乾燥棚に当たって、白く反射していた。それを見ていた。視界がにじんでいたから、白い光が広がって見えた。
リーザの声が、丘の下のほうで聞こえた。今日も誰かを追いかけている。「アンナ、まって」と叫んでいた。アンナ、というのは、たぶんあの新顔の男の子の姉だ。
子どもの足音は、土を蹴る音が高い。
「ねえ、ユリウス」
「ん」
「あなた、今は」
「今?」
「今は、死にたくないって、書く?」
ユリウスは、私の手を握ったまま、しばらく黙っていた。
「書かない」
「書かない」
「書かない理由が、君だ」
私は、その言葉を聞いてから、紙を膝の上に置いた。「死にたくない」と書かれた紙だ。膝の上に、両手で押さえた。
「ユリウス」
「うん」
「治療、受けて」
ユリウスは、答えなかった。
答えないユリウスの手を、私は離さなかった。
夕方、書斎にユリウスが籠もった。
私は薬草園に出た。今日はラベンダーの剪定の続きをした。昨日、駄目にした一本のあった畝の隣だ。三節目の上から斜めに、と本に書いてあった通りに切る。今日は鋏が滑らなかった。膝が地面に着いた。前掛けを今日はちゃんと巻いていた。
切った枝を籠に入れた。
書斎の窓の灯りが、ろうそくではなかった。今日はランプだった。明るさが少し違う。インクの瓶の蓋が緩んでいるほうの瓶ではなくて、ちゃんと閉まる瓶を選んでいる時のユリウスは、ランプを使う。集中したい時の合図だ。
私は籠を抱えて家に戻った。
オットーが廊下ですれ違いざまに「お夕食はお部屋にお運びいたしましょうか」と聞いた。私は頷いた。ユリウスは書斎で何か書いている。たぶん、今日は二人で食卓を囲む気分ではない。私もそうだった。
自分の部屋で、湯を浴びて、寝間着に着替えた。
夕食を運んできてくれたオットーに、「ありがとう」と言って、ほとんど食べなかった。スープだけ飲んだ。パンは半分だけかじった。残りを下げてもらった。オットーは何も言わなかった。
寝台に入った。眠れなかった。
一度起き上がって、窓を開けた。風が冷たくなり始めていた。秋が、近い。結婚式の季節が、近い。
書斎の窓の灯りが、まだ点いていた。
私は窓を閉めて、寝台に戻った。
朝、目が覚めたのは、いつもより早かった。
外がまだ薄暗かった。鳥が一羽、鳴き始めたばかりだった。寝間着のまま、廊下に出た。書斎の扉が、少し開いていた。
中を覗くと、ユリウスはいなかった。
机の上に、ランプが置かれていた。芯まで燃え尽きていた。ろうそくと違って、ランプは芯が燃え尽きるまで点いていた、ということだ。一晩中、点いていた。
机の上に、紙が一枚、置かれていた。
封蝋が、押されていた。
封蝋は赤だった。エーレンベルクの紋章。
宛名が書かれていた。
イレーネへ。
読まずに、保管してくれ。
私は、その紙を取らなかった。
取らなかったけれど、机の脇に、しばらく立っていた。
書斎の窓から、朝の光が差し始めていた。光の角度が、低い。光の中に、机の上のランプの縁が、白く照らされていた。




