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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第4話 九ヶ月


馬車は午後遅くに着いた。


予定では昼前のはずだった。街道で雨に降られたらしい。御者の上着が膝のあたりまで濡れていて、馬の脚にも泥が跳ねていた。馬が一頭、ずいぶん疲れた顔をしていた。私は別に馬の専門家ではないが、馬車を引いて長旅をした馬の顔は分かるようになった。半年前なら、馬の顔なんて見もしなかった。


降りてきたのは、五十代に見える男の人だった。


中肉中背。黒っぽい外套の下に、緑がかった上着を着ている。襟元のボタンが一つ、留め違えていた。馬車の中で居眠りしていたのかもしれない。眼鏡をかけていて、レンズに細かい雨粒の跡が残っていた。


「レオンハルト・ヴァルターと申します」


声が、しわがれていた。煙草を吸う人の声だ。


「ヴェルデン公国、王立薬草医療研究所の所属です」


「ようこそ。お待ちしておりました」


ユリウスは、玄関の前で頭を下げた。私も隣で同じように頭を下げた。


ヴァルター先生は、私たちのほうを見て、それから玄関の脇に咲いていたラベンダーに目を留めた。


「これは、北のほうの株ですか」


「ええ」


「色が出ますね、この土壌。感心しました」


挨拶よりも先に、ラベンダーの話をする人だった。


私は、この人とは、たぶん上手くやれるだろう、と思った。


書斎ではなく、応接間を使った。


書斎は手紙と帳簿が散らかっていて、初対面の人を通すには整理が要る。ユリウスがそう言った。私は黙って従った。応接間にしたのは、たぶん別の理由もある。書斎は私たち二人の場所で、医師に踏み込まれたくない、というユリウスの気持ちが少しあった気がする。私の勘ぐりかもしれない。


オットーが、客用とは別の茶葉を出した。今日は普通のお茶だ。ヴァルター先生は受け取って、両手でカップを温めるように包んだ。


「長旅で冷えました」


「申し訳ございません。雨と聞きました」


「いえ、こちらこそ。グレーフェン殿から急にお話をいただいたものですから」


ヴァルター先生は、カップを置いて、革鞄から書類を取り出した。書類の角が少し折れていた。馬車の振動で角が潰れたのだろう。先生は折れた角を、人差し指でゆっくり伸ばした。


「単刀直入に申し上げます。グレーフェン殿から、エーレンベルク伯爵のお身体のことを伺いました。先天性の心室の筋の弱りで、過労や長時間の振動に弱い、と」


ユリウスは頷いた。


「現状の薬草療法で、症状を抑えていらっしゃる」


「はい」


「私の研究所で、ここ五年ほど、その種の心室の弱りに対する薬草の組み合わせを研究しています。今までの療法と違うのは、対症療法ではなく、心室の筋そのものを少しずつ強化することを目指している点です」


ヴァルター先生は、書類の中の一枚を私たちの前に置いた。文字がぎっしり書かれていた。図表もある。図表は私には全部は読めなかった。心臓の絵だけが分かった。


「結論から申します」


先生は眼鏡を一度押し上げた。


「成功例は、四割です」


数字が、机の上に置かれた紙のように、平らに置かれた。


「治療には、九ヶ月かかります。事前準備として、半年。お身体を治療に耐える状態に整える期間です。その後、ヴェルデン公国の私の研究所に滞在していただき、現地で三ヶ月の処置を行います」


ヴァルター先生は、書類のページをめくった。


「九ヶ月以内に開始できれば、成功率は四割です。それを超えると、お身体の状態にもよりますが、三割を下回る可能性が高いです」


ユリウスは黙って聞いていた。


「失敗した場合、お身体の状態が悪化する可能性があります。最悪の場合のことも、申し上げておかなければなりません」


「死ぬ可能性、ということですか」


ユリウスが聞いた。


声が、平らだった。


「あります」


ヴァルター先生も、平らに答えた。


「治療をしないままでも、お身体の状態は徐々に悪くなります。私の見立てでは——失礼を承知で申し上げますが——一年から二年のうちに、二度目の発作が来る確率が高い。一度目より重い発作になります」


応接間が、静かになった。


私は自分の膝の上の手を見ていた。なぜか、自分の手の甲を見ていた。爪の根元のカモミールの黄色い跡は、昨日洗ったらおおむね落ちていた。一箇所だけ、まだ薄く残っている。


ヴァルター先生は、それから空気を変えるような声で続けた。


「お返事は、急ぎません。ご家族でゆっくりご検討ください。私は明日まで近くの宿に滞在します。明日の午後、もう一度こちらに伺ってもよろしいでしょうか。ご質問があるかもしれませんし」


「ありがとうございます」


ユリウスは、書類を手に取った。何枚かまとめて、そのまま膝の上に置いた。読みはしなかった。


「治療費は、おいくらほどでしょうか」


「ヴェルデン公国の研究所での三ヶ月の滞在費を含めて、おおよその金額をお伝えします」


先生は、別の紙を出した。私はその数字を、ユリウスより先に見た。


伯爵領の半年分の収入くらいだった。


ユリウスは、その紙を見て、何も言わなかった。


「お金の話を、最初に言わずに失礼しました。私の研究所は、王室の研究予算で運営されていますが、王国外の方の治療費は別建てなのです」


「いえ、ご丁寧にありがとうございます」


ユリウスは、書類をまとめた。


「ヴァルター先生」


「はい」


「先生は、四割という数字を、医師としても、人としても、どうご覧になりますか」


ヴァルター先生は、ちょっと意外そうな顔をした。眼鏡の奥で、目がわずかに細くなった。それから、ふっと息を吐いた。


しばらく、考え込んでいた。


「両方は、難しいですね」


それだけ言って、お茶のカップに手を伸ばした。一口飲んでから、続けた。


「医師としての答えと、人としての答えを、両方一緒に出すのは、難しい。どちらか片方ずつなら、答えられるのですが」


ユリウスは、頷いた。


「ご無理を、お聞きしました」


「いえ。お考えいただく時間が、必要なのは分かります」


それだけだった。


ヴァルター先生が宿へ戻った後、応接間に二人で残った。


オットーがカップを下げに来たけれど、ユリウスが「もう少し」と短く言って、手で軽く払った。オットーは無言で頭を下げて、出ていった。


応接間は静かだった。


ヴァルター先生のカップだけが、まだ机の上にあった。半分くらい飲み残されていた。私のカップは飲み終わっていた。ユリウスのカップは、ほとんど減っていなかった。


「ユリウス」


「うん」


「考えていたの? 治療のこと」


「グレーフェンに手紙を出したのは、お見舞いの男爵の話があった日だ」


「だから、急ぎだったのね」


「タイミングが、たまたま重なった」


ユリウスは、書類の束を、机の隅に寄せた。書類を見たくない、というふうに見えた。


「君に、最初に話さなかったことを謝る」


「いいわよ」


「よくない」


ユリウスは、机の縁に手をついた。


「君の意見を聞かないで、医師を呼んだ。グレーフェンに頼んだ。そういう順番は、よくなかった」


「あなたの身体のことよ」


「君と一緒に、暮らす身体だ」


私は、その言葉を聞いて、お茶のカップを手に取った。空のカップを。なんで取ったのか分からない。手を動かしたかったのかもしれない。


「君の意見を、聞かせてくれ」


ユリウスが言った。


私は、カップを置いた。


「四割という数字を聞いて、一番最初に思ったのは、六割は失敗ということだ、ということよ」


ユリウスが、私を見た。


「賭けたら、半分以上は負ける。そういう数字。賭けるべきじゃない、と理性は言う」


「うん」


「でも、賭けないままでいたら、一年か二年で、二度目の発作が来る、と先生は言ったわ」


「うん」


「それが本当なら——」


私は、言葉を切った。


「それが本当なら」と二回言いそうになった。続きが上手く出てこなかった。机の上のヴァルター先生のカップを見ていた。半分残った茶の表面に、応接間の窓の格子の影が映っていた。


ユリウスは待っていた。


「私は、賭けてほしい」


言ってから、訂正したくなった。賭けてほしい、は違う。賭けるかどうかを決めるのは、ユリウスだ。私が決めることじゃない。


でも、訂正しなかった。


「賭けてほしい、と思っているのが、私の意見」


「うん」


「あなたが決めることだけれど、私の意見は、それ」


ユリウスは、机の縁から手を離した。少し考えてから、座っている椅子の背にもたれた。普段はもたれないユリウスが、もたれた。


「考える時間を、もらってもいいか」


「いいわ」


「明日の午後、ヴァルター先生にお返事するまでに——」


「答えなくてもいいわ、明日には」


「ああ」


「先生は、急がない、と仰ったわ」


「そうだな」


ユリウスは、目を閉じた。


長い時間、閉じていたわけではない。三秒くらいだ。それでも、目を閉じるユリウスを、あまり見たことがなかった。


「君に、背負わせたくない」


目を閉じたまま、ユリウスは言った。


「四割で失敗したら、君は私の死を看取ることになる。そういう未来を、君に背負わせたくない」


「ユリウス」


「理屈じゃないことは、分かっている。でも、そう思う」


私は、ユリウスの机の脇に立っていた。立ち上がったのは、いつだったか覚えていない。立ったまま、ユリウスを見下ろしていた。下から覗き込まれるのは嫌だろうに、ユリウスは目を開けなかった。


「あなたが治療をしないで二年後に発作で死んだら、私はそれを看取らないと思う?」


ユリウスは、目を開けた。


「そういう意味じゃない」


「同じよ」


「同じじゃない」


「同じだわ。あなたが死ぬのを見るか、見ないかの違いじゃないの。あなたが、生きるために何かを試したか、試さなかったかの違い」


ユリウスは、私を見た。


少し、困った顔をしていた。今日、初めて見るユリウスの困った顔だった。いつものよりも、深い。


夕食の時間まで、私は薬草園に出た。


カモミールの乾燥が終わって、今度はラベンダーの剪定の時期だった。鋏を持って、丘の斜面の畝に屈み込んだ。膝が地面についた。今日は前掛けをしていなかったから、スカートに泥がついた。後で叱られるかもしれない。叱るのはオットーで、叱り方も柔らかいけれど、それでも叱られるのは少し嫌だ。


切った枝を、籠に入れた。


切る場所を間違えると、来年の花付きが悪くなる。三節目の上から斜めに、と本に書いてあった。ユリウスの書斎の本だ。半年前、薬草の剪定の本なんて手に取ったこともなかった。


切りながら、考えていた。


賭けてほしい、と私は言った。


でも、ユリウスが賭けない、と決めたら、私はどうするのだろう。


そこまで考えたところで、鋏が滑った。三節目より下を切った。一本、駄目にした。


立ち上がって、籠を抱えた。


書斎に戻ると、ユリウスは机に向かっていた。


私は籠を玄関の脇に置いて、書斎の扉を叩いた。


「入って」


入ると、ユリウスは机の上に紙を広げていた。書類ではなかった。書類の束は、机の隅に寄せられたままだ。広げていたのは、別の紙だった。


「これは」


「ヴィルヘルム男爵の、後見人選定の書類の控えだ」


ユリウスは、私のために椅子を引いてくれた。私は座った。


「控え?」


「グレーフェンが、王都の同僚から取り寄せてくれた。男爵が王家に提出した書類の写し」


「いつ提出されていたの」


「先週」


私は、紙に目を落とした。


書類は、思っていたより薄かった。二枚しかない。一枚目に書類の趣旨。二枚目に、添付されている医師三名の認定書。ユリウスの心臓の状態が、当主としての執務に耐えないと認定する、という内容だ。


私は、医師三名の名前を見た。


「この一人目」


「うん」


「アルテン医師。これ、この方、五年前に廃業されているはずよ」


ユリウスが顔を上げた。


「廃業?」


「王太子府で、医師団の名簿の更新を毎年見ていたから、覚えているわ。アルテン医師は、五年前にお身体を壊されて、王都から離れて療養中。この三年は、診断書を書ける状態ではないと聞いていた」


ユリウスは、一枚目の書類を、もう一度確認した。


「日付は、二週間前になっている」


「五年廃業されている方が、二週間前に診断書をお書きになるのは、難しいわね」


ユリウスは、二人目の医師の名前を指した。


「この、ベルガー医師」


「知っているの」


「ヴィルヘルム男爵領の領主館で、医師として雇われている。先代の伯爵——僕の父——の代から、男爵家の主治医をしている人だ」


私は、その名前を見た。


「この方が、ユリウスの状態を診断したことが、あるの?」


「ない」


「一度も?」


「会ったこともない。男爵領に出入りする医師だから、こちらの領地には来たことがない」


ユリウスは、書類を裏返した。机の上に、控えの裏面が見えた。何も書かれていなかった。空白の紙だった。


「三人目は」


「フィッシャー医師。聞いたことのない名前だ」


「私も。王太子府の名簿には、なかったわ」


「名簿にない医師の認定書が、王家に受理されている」


ユリウスは、書類を置いた。


「これは、書類不備で差し戻せる」


「ええ」


「明日、王家に指摘の書状を送る。継承資格停止訴訟の根拠書類として、医師三名の認定書が必要だ。一名が廃業中、一名が当事者と面識なし、一名が王国医師名簿に存在しない。この三名の認定書では、書類は受理されない」


ユリウスは、ペンを取った。


「差し戻しになると、男爵は再提出に二週間以上かかる」


「その二週間で」


「結婚の準備が、そのまま進む」


ユリウスは、目尻にわずかに皺を寄せた。


それが、笑いの全部だった。今日、初めて見せた笑いだった。


書斎の窓の外が、暗くなり始めていた。


オットーが扉を叩いて、夕食の時間を告げに来た。ユリウスは「もう少しで終わる」と短く返した。オットーは頷いて、扉を閉めた。


私は、書類の脇に置かれていた、ヴァルター先生の書類の束を見た。


机の隅に寄せられていた束を、私はそっと手元に引き寄せた。一枚目を読み始めた。図表は分からなかった。文字のところだけ読んだ。ユリウスは、その横で、王家への書状を書いていた。


書きながら、ユリウスが言った。


「君のカップに、蜂蜜を多めに入れておいた」


「いつ?」


「さっき、応接間で。気づかなかったか」


「気づかなかった」


「気づかなくていい」


ペン先がインクを少し飛ばした。机に小さな染みがついた。ユリウスは布で拭こうとして、布が見当たらなくて、自分の袖口で拭いた。袖口にまた青い染みがついた。昨日と同じ袖の、別の場所に。


私は、何か言いたかった。


でも、何を言えばいいのか、まだ分からなかった。


机の上にはヴァルター先生の書類があって、その隣に男爵の書類の控えがあって、その隣でユリウスは王家への書状を書いていた。書状の冒頭の文字を、私は逆さまから読んだ。


「謹啓」


そう書いてあった。


それだけ書いて、ユリウスはまだ次の文字を考えていた。

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