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もう遅いですわ、殿下。私はとっくに壊れておりましたのに  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第3話 お見舞いという名の査察


馬車の音は、思ったより早く聞こえた。


朝の十時を過ぎたばかりだった。私はテラスにいた。摘んでおいたカモミールを乾燥用の網に並べていた。花の向きを揃えると、乾燥にムラが出にくい。それくらいのことを、ここに来て覚えた。


砂利を踏む音が、丘の下のほうで止まった。続いて、馬の鼻息。御者が何か低く言った。


私は手を払って立ち上がった。指先にカモミールの匂いがついていた。爪のあいだに花の粉が入って、少し黄色くなっている。袖口で拭いた。完全には落ちなかった。


玄関に出ると、ユリウスがすでに立っていた。


杖を持っている。今日は普段より早めに身支度を整えていた。襟元の留め具がきっちり閉まっている。書斎で本を読んでいる時のユリウスは、襟元を一段ゆるめている。今朝はそれをしていない。


「お嬢様」


オットーが私に小さく目礼した。客用の盆を持っている。盆の上に、まだ何も載っていない。お茶は応接間で出すつもりらしい。


馬車から降りてきた人物は、思っていたより背が高かった。


私はなぜか、もう少し小柄な人を想像していた。手紙の文面の感じからか、それとも傍系という言葉の響きからか。実際のヴィルヘルム男爵は背が高くて、肩幅もあった。ユリウスより十くらい年上だ、とオットーから聞いていた。四十代の前半に見えた。髪は栗色で、ユリウスと同じ系統の色だ。並べると、確かに親戚だと分かる。


「ユリウス」


ヴィルヘルムは、少し間を置いてから名前を呼んだ。


爵位ではこちらが上のはずだ、と頭の隅で思った。男爵が伯爵を呼び捨てるのは、本来であれば失礼に当たる。年長の親戚としての年齢敬意で押し切るつもりらしい。私は黙っていた。今ここで指摘するのは得策ではない。


「随分とまた、痩せたな」


ユリウスは無言で、軽く頭を下げた。


「ご足労、感謝します。ヴィルヘルム殿」


「いや、こちらこそ。お見舞いに上がるのが遅れて」


ヴィルヘルムは、それから私のほうへ視線を移した。


「こちらが、噂の」


「私の婚約者です。レーヴェンシュタイン公爵令嬢、イレーネ」


「お会いできて光栄ですわ」


私は社交の挨拶をした。胸の前で軽く片手を添える、王太子府で何百回も使った形だ。身体が勝手にやる。考えなくてもできる。


「これはこれは。鉄の令嬢、と王都で評判の」


ヴィルヘルムは小さく笑った。笑い方の感じが、ユリウスとは全く違った。ユリウスの笑い方は、口の端だけが上がる、不器用な動きだ。ヴィルヘルムは、唇が薄く横に引かれて、頬の筋肉が少しだけ動く。完成された笑い方だった。


「公爵令嬢が辺境に骨を埋めるとは、健気なことで」


ユリウスの杖を握る手の関節が、白くなった。


「応接間に、どうぞ」


ユリウスは平らな声で言った。さっきの言葉に、何も返さなかった。


応接間に入ると、ヴィルヘルムは部屋の中を一度ぐるりと見回した。視線の動かし方が、お見舞いに来た人のそれではなかった。


調度品の値踏みをする目だ。


王太子府で六年間、外交官の様子を見てきた。隣国の使節がこちらの広間に入ってきた時の、最初の三秒の視線の動き方は決まっている。家具、絵、絨毯、燭台。位の高さを測る順番だ。ヴィルヘルムの目は、それと同じ動きだった。


ソファに腰を下ろした。膝の上で手を組む。革の手袋はもう外して、隣に置いている。指輪が二つ。一つは紋章入りで、もう一つは細い金の輪だった。


オットーがお茶を運んできた。客用の茶葉だ。半年前から言っていたあの茶葉。三日に一度しか使われない、ヴェルデン公国産の上等なもの。私は半年いて、自分のためには一度も使われたことがない。


「お見舞いに、ささやかですが」


ヴィルヘルムは、隣に置いた革鞄から箱を取り出した。木箱。中蓋が二段になっていて、上の段には乾燥薬草が並んでいる。下の段には小瓶が三つ。中身は液体だ。


「珍しい薬草でしてね。お従弟殿の心臓のお身体に、よろしいかと」


ユリウスは箱を受け取った。


私はテーブル越しに薬草を見た。


見覚えがある葉だった。乾燥の仕方も、葉の切り方も。ただ、葉の縁の少し巻き方が、私が知っているものと違う。色合いが、少し青みが強い。


——ヴェルデン公国の北部地方の、寒冷地に適応した変種。


公国の北の市場で月に一度だけ集荷される。王国内には正規の流通ルートがない。これも、王太子府で六年間、通商条約の細目を起草していて覚えた知識だった。


私は箱の上を、指で軽く撫でた。


「珍しいお品ですわね」


「そうだろう。うちの薬草商が、特別に取り寄せてくれた」


「ヴェルデン公国の北の地方のものでいらっしゃいますの」


ヴィルヘルムが、わずかにこちらを見た。


「ご存知でしたか」


「葉の縁の巻き方が、特徴的ですから。寒冷地の変種ですわね。公国北部の市場でしか集荷されないと聞いておりますが」


ヴィルヘルムは笑った。今度の笑いは、最初のと少し違っていた。少しだけ目が動いた。


「お詳しい」


「外交文書の通商条項で、何度か」


「これはこれは」


「ヴェルデン公国とは、公国側からの輸出規制がございましたのよね、たしか。北部産の薬草は、王国に正規ルートがないと記憶していますわ」


ヴィルヘルムは、お茶のカップを手に取った。一口飲んでから、ゆっくり置いた。


「うちの薬草商が、独自の伝手で。詳しいところまでは、私も把握していなくてね」


それから笑顔の角度を変えて、私のほうを向いた。


「鉄の令嬢、というのは、本当のようだ。お従弟殿は、よい伴侶を得られましたな」


ユリウスは何も言わなかった。


カップに口をつけたが、すぐには飲まなかった。


ヴィルヘルムが本題に入ったのは、お茶を半分ほど飲んだ頃だった。


「ところで、ユリウス」


カップを置いた。組んでいた手を、膝の上で開いた。


「結婚はめでたい話だ。式の準備は、進んでいるのか」


「順調です」


「跡継ぎについては、どう考えている」


ユリウスの顔が、少しも動かなかった。


横に座っているユリウスの手を、視界の端で見た。膝の上で、握りが固くなっていた。それだけだ。表情も声も、変わらなかった。


「ご心配には及びません」


「いやいや、心配というほどではないが。お従弟殿のお身体のこともある。万が一、ということを考えるのは、親族として当然だろう」


ヴィルヘルムは、上等な茶葉の香りを胸で吸ってから、続けた。


「私は、お前の父——伯父上の代から、この家のことは気にかけてきた。昔は薬草の取引でもお世話になった。今もし、何かあったら——後見人の話だが——」


ユリウスは黙って聞いていた。


「私が引き受けてもいい、と思っている」


部屋の空気が、わずかに動いた。動いていないのかもしれない。私の中で動いただけだ。


オットーが入り口の壁際に立っていた。盆を抱えたまま、表情を変えなかった。長年の侍従の顔だ。


私は、口を開いた。


「ヴィルヘルム殿」


ヴィルヘルムが私のほうを向いた。


「お見舞いに来てくださって、本当にありがとうございます。それで、一つ、お渡ししたいものがございますの」


私は、テーブルの脇に置いていた革のフォルダーを取った。朝のうちに、書斎の引き出しから出してきていた。中に紙が一枚。封蝋はしていない。挟んだだけ。


ヴィルヘルムに、フォルダーごと差し出した。


「結婚式のご招待状です」


「これは——」


「秋の収穫祭の翌日に、執り行います。ぜひ、ご出席を。ご親族として、家督継承の正当性を、見届けていただきたく」


ヴィルヘルムは、招待状を受け取った。受け取ってから、しばらく、何も言わなかった。


招待状を渡された側というのは、その場で態度を決めなければならない。受け取って、出席すると言うか、出席を辞退するか、預かって持ち帰るか。三つしかない。受け取って何も言わずに帰る、という選択は、社交儀礼上、ない。


その三つが、どれも、ヴィルヘルムにとっては都合が悪かった。


出席すれば、ユリウスが当主として婚姻する場に立ち会うことになる。ヴィルヘルム自身が、家督継承の正当性を認めたことになる。後見人を申し出る根拠が、根本から揺らぐ。


辞退すれば、親族として欠席したことが記録に残る。社交界では、それは「不仲の表明」と取られる。後見人を求める側が、当事者の婚礼を欠席することは、自分から動機を表に出すことになる。


預かって帰っても、結局は同じ二択を後で迫られる。


ヴィルヘルムは、招待状を膝の上に置いた。指先で、紙の縁を一度なぞった。


「……光栄なことだ」


「お返事は、ゆっくりで構いませんわ。秋のご予定もおありでしょうし」


私は微笑んだ。社交の微笑みだ。


ヴィルヘルムは、私の顔をしばらく見ていた。


それから、わずかに、笑った。


「鉄の令嬢、と聞いてはいたが」


「お褒めいただいて」


「いや、褒めてはいない」


ヴィルヘルムは、それから腿を一度叩いて立ち上がった。


「そろそろ失礼させていただこう。長居しても、お従弟殿のお身体に障る」


ユリウスも立ち上がった。


玄関先まで送る時、ヴィルヘルムは、御者と少し話した。


紙を一枚、御者に渡した。私の位置からは、書類の表紙が見えた。文字が読めるほど近くはなかった。でも、書類の端に四つ折りの折り目がついていた。馬車の中で開いたり閉じたりした書類だ。


御者がその書類を、馬車の小さな引き出しに入れた。


ヴィルヘルムは、最後に振り返った。


「ユリウス」


「はい」


「招待状、ありがたく頂戴する」


「ありがとうございます」


「秋まで、お身体を大事にしてくれ。式に出席できないと、こちらも残念だからね」


ユリウスは、頭を下げた。


馬車が動き出した。砂利を踏む音。蹄の音が、丘を下って、林檎園の脇を通って、街道のほうへ消えていった。


私は玄関の前に立っていた。指先のカモミールの匂いが、まだ少し残っていた。


「お嬢様」


オットーが、玄関に戻る私の脇に立った。


「あの書類は、私の位置からも見えました」


「私も見たわ」


「後見人選定、の文字が、表紙に」


「そうね。書類の角の折り目が四つ。馬車の中で何度も開いたのね、たぶん」


オットーは少し頭を下げた。


「お嬢様。差し出がましいことを申し上げますが、先代様がお亡くなりになる前に、男爵が後見人をご希望になった件が——」


「聞いたわ。昨日」


「あの時の書類は、王家には届いておりません。先代様がご拒否になりましたので。ですが、男爵がその後、何度か——」


オットーは言葉を選んだ。


「諦めておいでではなかったように、お見受けしておりました」


私は頷いた。


ヴィルヘルムは、十一年前から諦めていなかった。十一年。それは私とユリウスが、文通を続けていた期間と、ほぼ同じだった。


応接間に戻ると、ユリウスは座っていた。ソファではなく、自分の椅子のほうに移っていた。机の前の、書斎用ではない、ちょっとした書き物机のような椅子だ。


机の上に、ヴィルヘルムが置いていった木箱があった。


ユリウスは、箱を開けたままにしていた。乾燥薬草と、小瓶。三つの小瓶を、一つずつ持ち上げて、光に透かしている。


「飲まないわよね」


「飲まない」


「捨てる?」


「捨てる前に、誰か信頼できる薬草師に成分を見せたい。何が入っているか、念のため」


「見当はつくの」


「ついている部分もある。ついていない部分もある」


ユリウスは小瓶を箱に戻した。


「公国北部の薬草は、君の言う通り、正規の流通ルートがない。あの男が個人的に手に入れたとしたら、ルートが二つしか考えられない」


私は、ユリウスの机の脇に立った。


「密輸か、私的な売買契約か」


「どちらも、王国法では問題になる」


ユリウスは、ゆっくり顔を上げた。私を見た。


目の下に、疲れの影があった。お見舞いの相手をしただけで疲れる。それは病弱な身体だからではなく、相手の意図を読み取り続けるのに体力を使ったからだ。私には分かる。私も、似たような疲れ方を六年間してきた。


「君が、招待状をあの場で渡したのは——」


「最初から、用意していたの」


「いつから」


「昨日、あなたが封書を伏せて置いた瞬間から」


ユリウスは、目尻に皺を一本作った。


それが、笑いの全部だった。


書斎に二人で移った。


ユリウスは、机の引き出しを開けた。一番上の段だ。私が一度も触ったことのない引き出し。手紙専用の引き出しではなくて、その隣の段。


中から、革表紙のノートを取り出した。


「これは」


「最近書きためていたもの。今日は——とりあえず、見られたくなかった」


ユリウスは、ノートを引き出しに戻した。引き出しを閉めるのに、いつもより少し時間がかかった。


「何が書いてあるの」


「いずれ話す」


「今は」


「今は、別の話をしたい」


ユリウスは、机の上に置いてあった木箱に、もう一度目をやった。それから封蝋のついていない紙を一枚取り出した。書きかけの手紙だった。


「グレーフェンに、手紙を書こうと思っていた」


「外交官の」


「ああ。隣国の薬草の流通について、現役の頃の記録を持っていないか、聞いてみる。北部産の薬草が、どのルートで動いているか」


私は頷いた。


ユリウスは、ペンを取った。インクの瓶の蓋を開けた。蓋の緩いほうの瓶ではなく、隣の、ちゃんと閉まる瓶のほうだ。今日のユリウスは、そっちを選んだ。


夕方、テラスに出た。


カモミールの乾燥はまだ終わっていない。今朝、馬車の音で中断したまま、半分が網の上に並んでいて、もう半分は籠の中に入ったままだった。籠の中のほうは、少し蒸れ始めている。匂いが強くなっていた。


私は籠を持ち上げて、網の空いた場所に並べ直した。花の向きを揃える。


向きを揃えながら、ヴィルヘルムの最後の言葉を思い出していた。


——招待状、ありがたく頂戴する。

——秋まで、お身体を大事にしてくれ。式に出席できないと、こちらも残念だからね。


「式に出席できないと」


私は声に出してみた。


並べていた花の手が、止まった。


出席できないと——「こちらも残念だ」と、ヴィルヘルムは言った。式に出席できない場合のことを、すでに口にしていた。秋まで、二ヶ月以上ある。秋までに、ユリウスの身体に何かが起きる、と仮定しているような言い方だった。


それは、社交辞令だ。


社交辞令だと、思いたい。


でも、十一年諦めなかった人が、二ヶ月以上ある秋までに、何か起きると仮定する社交辞令を言う。


私は花を置いて、テラスの椅子に座った。


書斎の窓に、ろうそくの灯が一つ点いていた。ユリウスが、グレーフェンへの手紙を書き続けているのだろう。インクの蓋が緩むほうの瓶ではなく、ちゃんと閉まるほうを選んだユリウスが、夕方になっても机の前にいる。


私は立ち上がった。


書斎に向かう途中、廊下のオットーとすれ違った。


「お嬢様」


オットーは小さな声で言った。


「明後日、王都から医師がお見えになります。坊ちゃまが、グレーフェン様にお頼みになっていた件で」


「医師?」


「ヴェルデン公国からの、ご研究の方だそうで。坊ちゃまの心臓のお身体について、新しい療法のことをお話しになりたいと」


私は、オットーの顔を見た。


「ユリウスは、私に話さなかったわ」


「お嬢様にお話しになるのは、たぶん、明日でございましょう」


オットーは、いつもの皺の深い顔で、ほんの少しだけ目を細めた。


「お嬢様、私からもお願いしてよろしいでしょうか」


「何」


「医師のお話を、お嬢様もお聞きください。坊ちゃまは、お一人で決めてしまわれる方ですから」


私は、オットーに頷いた。


廊下の先で、書斎の扉が少しだけ開いていた。ろうそくの光が、漏れていた。

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